人はいつ教会の門をくぐるのだろう?

2014年9月21日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会主日礼拝説き明かし

27分間
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詩編139章23−24節 (新共同訳)
 神よ、わたしを究め
 わたしの心を知ってください。
 わたしを試し、悩みを知ってください。
 御覧ください
   わたしの内に迷いの道があるかどうかを。
 どうか、わたしを
   とこしえの道に導いてください。





ライブ録画:聖書と説き明かし(27分間)+分かち合い(37分間)=64分間

 
若者がいない教会

 最近、しばしばいくつかの教会に招かれて、礼拝説教の奉仕と同時に講演を頼まれる機会が増えてきました。私が、キリスト教主義の中学校・高等学校で聖書を教えているということで、最近の中学生・高校生に対する伝道をどのように進めて行けばいいのか、何かヒントが得られれば、ということを求められます。
 皆さんもご存知のように、大抵の日本キリスト教団の教会では、子どもや若者の人数が非常に少なくなっていて、教会に未来があるのだろうか? と危惧を抱いているところもたくさんあります。ですから、私のような人間にも発言が求められるのでしょうけれど……
 私も「これが特効薬だ」なんてことは言えないんですね。そんなものがあれば、学校に通っている生徒の中から、次々と洗礼を受けたいという生徒が出て来るはずでしょうが、そういうわけではありません。私の不徳の致す所ということになるのかも知れませんが、私の授業や礼拝の話を聴いていて、クリスチャンになりたいと思う人はいません。
 学校の課題で生徒さんたちに「教会探検隊」というレポートを提出してもらっています。1学期に1回は自宅の近くの教会に行って礼拝に参加して、感想を書きなさいという簡単なものですが、10年か15年程前は、「どうせ学校の宿題で来ているんでしょ? 来たくて来ているわけじゃないくせに」というような印象の対応でしたが、最近では「いつも若い人たちを送ってくださって、有難うございます」と深々御礼をされるようになりました。それだけ、どこの教会も追いつめられた心境になっているのかなと思います。

来ないには訳がある

 子どもたちや若者が教会に来ないのには、ちゃんと訳があるんですね。一言で言うと、忙し過ぎるからです。
 たとえば子どもで言うと、塾や習い事や学校の部活などで、日曜日も大抵スケジュールが詰まっていて忙しいんですね。
 塾に行っている子の中には、夜の9時や10時に塾を出て、真っ暗な中を帰ってゆく子がたくさんいます。クタクタになって、毎日を生きるのがやっと、という子もいます。
 夜も土日も塾に行って勉強をさせられる子どもの姿を見ると、詰め込み教育と受験競争のために追い立てられる子どもたちが可哀想になります。
 しかし、その一方で、例えば習い事や部活をやっている子たちを見ると、そんなに嘆かなくてはいけないわけでもないんじゃないかな、と思うこともあります。
 もちろん親のエゴで本人が嫌がっているのに無理矢理通わせている場合もあるでしょうから、一概に良いと言い切れる訳ではありませんが、それでも、習い事や部活での経験を生かして、その子が特技を身に着け、得意なものを伸ばし、達成感を味わうこと、またその子が身に着けた能力を活かして、将来の人生の豊かさや活躍の可能性を広げることができるというのは、まんざら悪いことでもないのではないでしょうか。
 そういう意味では、子どもが土日に忙しいというのも、内容によりますが、本人の人生にとって悪いことだとは言えない。少なくとも、そのような特技や能力を伸ばしてやることと、教会学校に来るのとどちが大切かと問われて、教会学校に来るほうが本人にとって幸せだと言い切れるでしょうか。
 ゴリゴリの熱心な信者さんだったら、教会に来るほうが幸せに決まっている、神さまに会いに来ているんだから、といったようなお答えをされるかも知れませんが、その子本人が実感としてそのように思えるかどうかは、一概には言い切れないのではないかと思います。

主よ、神よ

 本日お読みした聖書には、
「神よ、わたしを究め、私の心を知ってください」(詩編139.23)と記されています。
 これは実は、この詩編の139編の1節にある言葉を繰り返しているものです。1節に「主よ、あなたはわたしの究め、わたしを知っておられる」(詩編139.1)とあります。
 これ、最初の1節は「主よ」と呼びかけていますけれども、今日お読みした最後の方の23節は「神よ」と呼びかけていますね。
 聖書を読んでいると、こういう言葉遣いの変化が気になったりするんですね。そこで詩編の最初から、この詩編を書いた人が、どのように神さまに呼びかける言葉遣いをとっているのか、ざっと見渡してみました。
 すると、神さまに呼びかける言葉は詩編3編から始まります。
「主よ、わたしを苦しめる者は、どこまで増えるのでしょうか」(3.2)。そして、41章までずっと「主よ、主よ」という呼びかけが続きます。そして、どうやら41編のこの言葉で、この詩編の大きなまとまりが終わるようです。「主をたたえよ、イスラエルの神を、世々とこしえに。アーメン、アーメン」
 続いて、42章から新たなセクションが始まります。
「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める」(42.2)。ここからずっと(ほんのわずかな例外はありますが、基本的に)「神よ、神よ」という呼びかけがなされています。
 そして、どうやらこのセクションのしめくくりが来るのが、83章の終わりの、
「彼らが悟りますように。あなたの御名は主。ただひとり、全地を超えて、いと高き神であることを」(83.19)という言葉です。
 そこから再び、84章以降、「主よ」という呼びかけが頻繁になされる詩が続き、最後の150章まで続きます。
 つまり、詩編というのは、非常におおざっぱな言い方ですが、全体が3部構成になっていて、第1部が「主よ」と呼びかけるグループの作品、第2部が「神よ」と呼びかけるグループの作品、第3部が再び「主よ」と呼びかけるグループの作品という風に考えることができるわけです。
 そして、今日私たちが呼んだ、139編は、「主よ」と呼びかけるセクションに属する部分にあります。
 ところが、その中にあって、この139編の17節から後半の部分だけ、「神よ」と呼びかける詩が続いています。こういうのを見ると、私などは、「あ、これはもともとあった139編の詩に、誰か後のグループの人たちが17〜24節を付け加えたのではないかな」とすぐ考えてしまうクセがあります。
 
讃美から嘆きへ

 そう思って読み返してみると、詩編139編の文脈は、最初の大部分と最後の部分は、切り替わっていることに気づきます。
 139編の1節から一貫して、この歌は「主よ、あなたは私のすべてをよく知っておられます。私の言葉や知識より、あなたははるかに超越おられます。私の生まれる前から、母の胎内にいるときから、あなたはわたしを造り上げてくださり、あなたは全てを用意してくださった。世界の果てまで私が到達したと思っていても、わたしはなお、あなたの中にいる」と、高らかに主を讃美しているのですね。
 ところが、19節から突然、言葉の調子が変わります。
「どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください」(139.19)
 これは詩編の中によく見られる、「神さま、敵を滅ぼしてください。あなたを憎む者をわたしも憎みます。あなたの敵はわたしの敵です」という戦争の歌の一種ですね。これが、ここに突然もぐりこんでいます。
 そして、更に23節からは、また言葉の調子が変わり、本日お読みした聖句になりますが、
「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください、わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしを、とこしえの道に導いてください」(139.23-24)、となります。
 おそらく、最初にあった139編の、圧倒的な神の全知:何でもご存知である、という讃美の歌に、後から戦争の歌と、そして、最後の迷いの告白と導きのお願いの歌が付け加えられたんでしょうね。
 戦争の歌が全体から浮いているので、ちょっと横に置いておいたとして、最後の、今日の聖句の部分も、最初の1節にある、
「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる」(139.1)と言っているのに、言葉を真似ながらも全く逆のことを言っています。「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください」(139.23)。高らかな讃美から、迷い悩み、助けを求める祈りに変わっています。
 この最後の部分を書いた人は、自分の心の中に迷いがあり悩んでいるのを、神さまどうか知ってください。そして救いに導いてください、と神に願っているのですね。

邪な道から永遠の道へ

 「神よ、わたしを究め」(23節)
とありますが、ここで日本語でも研究の「究」の字が使われていますように、これは「探求」とか「探る」という意味があるんですね。実際、文語訳も口語訳も新改訳も「神よ、私を探ってください」という訳になっています。「私を探って、私の心を知ってください」と。今風に言うと、私の脳の中をスキャンしてくださいくらいの受け取り方もできるでしょうか。
 そして
「わたしを試し、悩みを知ってください」(23節)とありますが、原語でみると、「私を試みに合わせ、わたしの諸々の思いを知ってください」という意味になります。主の祈りには「我らを試みに合わせず」とありますけれども、こちらの詩の作者は「試みに合わせてください」、「試練に合わせてください」と言っているのですね。その試練によって自分の本音、自分の本当の姿があぶり出されて来ることを意図しているのでしょうか。
 24節、
「御覧ください、わたしの内に迷いの道があるかどうかを」(24節)とありますが、「迷いの道」は「邪(よこしま)な道」「間違った道」とも訳すことができます。
 そして、
「わたしを、とこしえの道に導いてください」(24節)、永遠へと伸びてゆく道に引っ張ってください、と読み替えることもできます。
 これ元々は韻を踏んだ歌なんですね。新共同訳ではわかりにくいですけど、23節の「知ってください」が2回繰り返されるのと、24節の「迷いの道」、「とこしえの道」と繰り返されるのが、言葉のリズムになっているんですね。
 ちょっと日本語でできるだけ再現してみると……
 「神よ、私を探り、私の心を知ってください。
  私を試し、私の思いを知ってください。
  私に邪な道があれば、
  私を永遠の道に導いてください。」
 ……ということになるでしょうか? あんまり変わりませんかね(笑)。

子どもを食らう社会

 さて、最初に子どもや若者が教会に来にくいというお話をしていましたが、たとえば、今の子どもや若者のなかで、今の詩編139編の23−24節のような問いを自分に投げかける人がどれくらいいるかを考えてみたいんです。どれくらいいるでしょうか?
 もちろん一定の数はいると思います。「私」という人間の内面や、自分の存在そのものに疑問を持ち、自分の生き方はこれでいいのだろうか、もっと別の人生があるはずではないのか?」と悩む人は少なからずいるでしょう。
 しかし、そういう疑問や悩みとしっかり向き合い、言葉にできるほど意識している人は少ないと思います。なぜなら、一つには、そういう教育が日本ではほとんどなされていないので、そのような自分としっかり向き合い、考え、言葉で表現してみるという訓練はほとんどなされていません。ですから、自分の存在や人生に関する深い不安が襲って来た時に、それを真正面から対峙することができず、ごまかしたり、気晴らしをして忘れようとしたりすることしかできないん人が多いんですね。
 また、そういうごまかしの遊び道具というのは、今の世の中には溢れかえっていまして、昔には無かったようなゲームやスマホ等に子どもも若者もどっぷり浸かっています。
 まあ私もかなりスマホやタブレットの中毒のように見えるでしょうけれども、私はほとんど仕事と調べものとコミュニケーションにしか使ったことがなく、ゲームというものをしたことがほとんどありません。うちの生徒たちに言わせると、私はかなり変わった人らしいです。あれだけどっぷりIT機器中毒なのに、ゲームをしたことがないというと「信じられない」と笑われます。逆に言いますと、子どもたちにとって電子機器というのは即ちゲームとLINEなんですね。加えてネットでの動画やテレビを加えると、もう暇つぶしに忙し過ぎて暇がないという状況。睡眠時間も削って遊んでいます。そんな状況では、人生や存在に関する深い問いや迷いを思い出す時間はありません。
 そういう子どもに誰がしたのかというと、大人社会です。全ての大人がというわけではありませんが、何よりも経済優先という日本の大勢を進めていった大人社会の責任です。何よりもまず経済的に豊かになることに価値を置き、それ以外の価値を無視して競争社会を作り上げ、勝つことと儲けることが成功の条件であり、それ以外の生き方は敗者であり失敗者であり、変わり者であるという風潮が一般化しました。大人がそのような価値観しか持てなくなっているので、子どもたちにもその競争を要求し、競争についてゆけない、あるいは競争そのものに関心が無い子はどんどん居場所が無くなってゆく。もし、子どもがそういう疑問を持ち始めたら、自分の良心から変人扱いされて、家庭にも居場所が無くなるでしょう。
 愚痴のようになりますので、まとめますが、大人社会があまりに経済優先であり勝利主義であるために、子どもに激しい競争を要求します。その一方で、子どもを含めて全ての国民に、たくさんのIT機器を売り込まないと利益を確保できません。「勉強しろ、勉強しろ!」と要求しながら、勉強よりも夢中にさせるような遊び道具を子ども相手に売りまくっているという。
 おまけに近い将来には国防軍だ徴兵制だと、子どもの命を食い物にしようとしている。全ては金のため。金のために子どもの未来も命も食いつぶそうとしている。それが現代の日本社会に対する私のおおざっぱな印象です。

迷いと向き合う

 そんな世の中ですから、子どもや若い人が……
 「神よ、私を探り、私の心を知ってください。
  私を試し、私の思いを知ってください。
  私に邪な道があれば、
  私を永遠の道に導いてください。」

 ……という深い人生の悩みを意識化するというのは、かなり稀である。そういう人は今の日本では珍しいと思います。
 そして、そんな世の中ですから、教会に来る子どもや若者が少なくても当たり前だし、それは教会のせいではなく、現代の日本社会の問題だと思います。教会に子どもや若い人があまり来ないのは、社会が足を引っ張っているからです。
 では、人間が「神よ、私を見てください。私は何者ですか。私の進むべき道を与えてください」と問うのが若い時期でなかったら、いつでしょうか。
 それは多くの人にとって大人になってからだと思います。
 それが30代なのか、40代なのか、50代、60代、70代、80代、あるいはもっと先なのか、わかりませんが、自分の命とは一体何なのか、一体自分がここに存在しているのは何故なのか、これからの人生いかに生きるべきなのか、そしていかにこの世の人生を締めくくるべきなのか……そういったことを考え始め、神に目を向けるチャンスは、ある程度生きて、人生を振り返る機会を与えられた時に巡ってくるのではないかと思うのですね。
 世の中には、面白いもの、気晴らしになるものがいっぱいあります。それらのものに飽きて、面白くなくなってきて、ふと我に返る時。それが神の招きに気づく時ではないでしょうか。
 もちろん世に対して、神さまの存在と愛、神さまと共に生きる人生に気づいてもらうように宣べ伝えることは大事だと思います。
 しかし、人にはそれぞれの異なる時が与えられているのではないか。私たちは、何歳の人を導くかということにはこだわらず、何歳であってもその人がその時を迎えた時にいつでも歓迎して受け入れる用意ができていればよいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 




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