アンパンマンの哲学

2014年10月5日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会世界聖餐日礼拝説き明かし

34分間
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マルコによる福音書11章22−26節 (新共同訳)
 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。





ライブ録画:聖書と説き明かし(34分間)+分かち合い(38分間)=72分間

 
「狭き門」となった聖餐

 おはようございます。本日は世界聖餐日の礼拝を共にしています。
 この「世界聖餐日」というのは、1946年ですから、第二次世界大戦終結の間もなく後に、世界基督教連合会(いまの世界キリスト教協議会〔WCC〕の前身)の呼びかけで、「もう戦争はやめよう。世界中の教会が聖餐を通して、キリストにある交わりを確かめよう。そして全教会の一致を求めよう」という主旨で始められたものです。
 残念ながら、私たちの日本キリスト教団は、聖餐の解釈についての問題で分裂しており、私たちの教会もそのために辛い思いをしているものです。
 つい先日行なわれた教団の教師検定試験、正教師の試験では、60人以上の受験者の中で、たった8人しかパスしなかったと言います。以前の教師検定試験では考えられないことでした。
 以前、私も15年ほど前に正教師試験を受けましたが、ほとんどの者が合格しました。追試験代わりのレポートの提出を求められた者も多くいましたが、それでも、「通すための試験」、「一人でも多くの牧会者を世に出すための試験」という姿勢が検定委員の先生方の(全てではありませんが)多くの方々の中に感じられました。
 しかし現在は、問題の内容も異常と言っていいほどマニアックで、おそらく現職の牧師のほとんどが答えられないであろうような、重箱の隅の隅をつつくような問題が出されたり、面接では聖餐の意味についてハラスメントに近い執拗な追及を受け、ショックを受けて涙を流す人もいました。
 また、日本にはいくつかの神学校・神学部がありますが、東京神学大学の出身者のみ、いくつかの試験科目の免除をそのままにしておき、それ以外の神学校・神学部については試験科目を増やすという方針での制度の改変も進んでいるそうです。
 明らかに、牧師への道を、悪い意味での「狭き門」とし、東京神学大学出身者を有利に、それ以外の神学校・神学部の出身者を排除し、また聖餐についての理解が東京神学大学とは異なる者も排除するという組織的な動きが進んでいます。
 悲しいことですが、世界の教会が聖餐を通して、ひとつのキリストの体であるということを確かめようとしている時に、日本キリスト教団ではこの聖餐を巡って分裂と対立が深刻化していることをご報告しなければならないのは残念です。
 
主の晩餐:作られた物語

 聖餐の起源とされている聖書の箇所はいくつかありますが、今日は、その中の一つ、マルコによる福音書の14章の22節以降の「主の晩餐」の記事を読みました。
 「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』
 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。』
 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」
 ここに、弟子たちにパンを与えた、また杯を渡したと書いてあるので、かの人々は、洗礼を受けた者しか聖餐のパンと杯に与ってはいけない、と言うのですね。
 まず、単純に考えてもこの考え方はおかしいです。と言いますのも、イエスは生前、誰にも洗礼を授けていません。この場面でイエスがパンと杯を与えている弟子たちも、全員洗礼を受けていないんですね。ですから、洗礼を受けた者しかパンと杯を受け取ってはいけないというのは意味不明です。
 それから、この主の晩餐に12人の弟子たちだけが招かれていたというのも眉唾です。と言いますのも、この「主の晩餐」の場面が、はめ込み合成である可能性が高いからなんですね。こういうことは聖書の中には時々あります。
 聖書をもう一度観ていただきますと、14章の後半は、「ユダ、裏切りを企てる」、「過越の食事をする」とありますね。その次に「主の晩餐」があって、ページをめくると「ペトロの離反を予告する」、「ゲッセマネで祈る」、「裏切られ、逮捕される」……と続いて行きます。
 もう一度ページを戻して、14章の21節までの辺りを観ると、イエスと12人の弟子たちが過越の食事を食べています。そして、18節以降イエスが、イエスと一緒に食事をしている者が私を裏切ろうとしている、と言います。すると、弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた、と書いてありますね。するとイエスは、12人のうちの1人で、イエスと一緒に食べ物を鉢に、つまりパンをぶどう酒に浸している者がそれだ、と言いますよね。
 そこから、一足飛びに次のページにめくって、27節から読み続けてください。イエスは弟子たちにこう言います。「あなたがたは皆わたしにつまづく」、「羊飼いが打たれると、羊は散ってしまう」。するとペトロが、「みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言います。こに対してイエスは、「いや、あなたは明日の朝までに私のことを3度知らないと言うだろう」と言います。ペトロを始め皆の者も「そんなことはありません。死ななくてはならなくなっても、あなたを裏切りません」と言います。
 いかがでしょうか? スムーズにつながりますでしょう?
 主の晩餐の部分をすっ飛ばして読んだ方が、物語のつながりがいいんですね。食事の場面で、イエスが裏切り者の存在をほのめかす……弟子たちが皆、動揺する……イエスは1人が裏切る。そして皆も散ってしまうと言う……弟子たちは「自分は決して裏切りません」と主張するが、イエスはペトロの裏切りを予告する……。
 こうして読むと、一連の食事の場面で、イエスが弟子たちの中から裏切り者が出て、弟子たちは皆去って行くと言ったので、弟子たちが動揺するというひとまとまりの物語としてすっきりまとまるんですね。
 そうすると、ひょっとしたら、この聖餐のパンと杯の話は、マルコがはめ込んだものではないかと考える可能性が出てきます。

主の晩餐:儀式の定型文

 さらにもう一つ理由がありまして、このマルコさんがこの福音書を書くずっと前から、この主の晩餐の言い回しは決まり文句のように唱えられて来たらしいんですね。それは、私たちも聖餐式の中で聞いている、私が朗読している聖書の箇所ですけれども、パウロによるコリントの信徒への手紙(一)11章の23節以降です。ページを開いてみましょうか。314ページです(違う版組の聖書をお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんが、第一コリント11章23節です。
 読んでみます。
 「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これはあなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(1コリント11.23-26)。
 マルコが書いた主の晩餐の記事と非常に似通っていますよね。
 そして、これはパウロ自身が主から受けたもので、あなたがたに伝えたものだと23節でパウロが言っています。パウロは生前のイエスに直接会って、パンと杯の場面に居合わせていたわけではないけれども、「主から受けた」と言っています。ということは、つまり、パウロが先輩のキリスト者の人たちから礼拝を通じて、特にその中の聖餐式を通じて受けたのであると。聖餐式というのは、主から直接、主のからだと血を受けることなんだと。そして、それを私もあなたがたコリント教会の人たちに伝えたでしょう? と言っているわけですね。
 そこで、ここでのパウロの言葉は、主の晩餐の儀式、すなわち聖餐式の式文から取られたものだろうと言われているわけです。
 礼拝の式文というのは、紙やインクなどとても一般人の手には入らない、それ以前に文字が読めない人が圧倒的に多いという時代の人たちにとっては、非常に有効な記憶装置だったんですね。
 たとえば、私たちも「主の祈り」や「使徒信条」(ここの礼拝では使っていませんけれども)を唱えるじゃないですか。あるいは、献金の前の讃美歌、派遣の讃美歌、「いただきます」の前の讃美歌など、いちいち見ないでも覚えていますよね。こういう式文や讃美歌を通じて、古代の人たちは、文字が読めなくても、割と正確に先代からの伝承を後々まで伝えることができたんですね。
 だからこそ、イエスが亡くなって40年以上も経っても、福音書記者たちはイエスに関する情報を使って、福音書を書くことができたわけです。パウロも、イエスが亡くなって20年近く経ってから、コリント宛の手紙を書いています。その20年、さらにマルコまで20年、ほぼ忠実に言葉が伝わっているということは、これは礼拝で使われた式文だという証拠です。
 ということは、マルコは、自分が書いている食事での場面に、式文をもとにした文章をはめ込んだということが推測されるわけです。
 それで結局何が言いたいかといいますと、要するに今日お読みした聖書の箇所:主の晩餐の場面の記事は、式文からの引用に過ぎないのであって、選ばれた特別な人たち(たとえばここでは12人の弟子たちだけ)だけが聖餐にあずかることができた、という証拠にはならないということです。
 ただマルコが、イエスが亡くなって40年も後になって、自分の物語を書く際に、12人との過越の食事の場面にこの式文をはめ込んだというだけのことで、本当に12人との食事という閉じこもった空間の中で、イエスがこういう事を言ったのかどうかも本当はわからないのですね。

「広き門」としての聖餐

 では、本来の聖餐とはどういうものであったのでしょうか。
 その細かい所は、まだ私も不勉強で分からないことがたくさんあります。しかし、先程開きましたパウロによるコリントの信徒への手紙(一)の11章を読みますと、ある程度の情報は得られます。
 まず、19節と20節、「あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです」とあります。
 ということは、ここで適格者かどうか、仲間争いがどうかということは、主の晩餐を食べるかどうかということとは関係なく、みんな食べているということです。
 そして21節、「なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」とあります。
 ということは、主の晩餐というのは食べようと思えばお腹いっぱい食べ、酔っぱらうことができるほど飲める場だったということで、夕食も兼ねていたということがわかります。そして、その夕食の場で、不公平が起こっているということです。
 そして23節以降、パウロが式文を引用しながら言っていることによれば、食事の始めに記念のパン裂きがあり、食事の後に記念の杯の分かち合いがあったわけですね。
 続いて27節以降、「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです」。
 「ふさわしくないままで」、「主の体をわきまえずに飲み食いする者」がいるために、弱い者や病人が出て、多くの者が死んだと。つまり、食事の不公平のために体を壊したり死んだりする人たちが出て来たということで、これはかなり深刻な事態です。
 教会での主の晩餐の食事で何とか体を保っている人たちがいたということ。それがなければ体を壊したり死んだりしてしまう、ギリギリの生活をしている人たちです。そういう人たちの食事まで先に来て食べ尽くしてしまうとは、どういうことか、とパウロは怒っているんですね。そんなことでは、全く主の晩餐を受けるにはふさわしくないと。主の体のことをわきまえてないじゃないかと。
 すなわち、ここでパウロが言っている「主の体」というのは、豊かな人も貧しい人も飢えている人も、みんなが揃って食卓について腹一杯食べることができる場所というイメージなのですね。
 この点では、パウロはイエスの食卓のイメージを意外に的確に受け継いでいると言えるのではないでしょうか。

イエスの食卓

 イエスは罪人と呼ばれていた徴税人や娼婦と食事をしました。当時「罪人」という言葉は、「神の国から追い出される者」という意味と同じでした。病気にかかっていたり、悪霊にとりつかれていると言われた人たち、貧しい人たちもそうです。「罪」というのは、「神から離れる」、「神に見捨てられている」という意味ですから、罪人や汚れた人、不幸に遭い続ける人は皆、神の国からの追放が決まっている人なのです。
 そのような状況でイエスは、「神の国は近づいた」と。神の国は行くところではなく、向こうからやってくるものなんだと。それが今近づいて来たんだと宣言し、罪人だからと排除されている人たちの所に自分から訪ねて行き、話し、その体に触れ、一緒に食事をしました。
 イエスのたとえ話の中でも、「ぶどう園の労働者のたとえ話」はイエスの神の国の思想を実にわかりやすく伝えています。イエスにとっては、職について仕事ができる人も、雇用が少なくなりすぎて、仕事につくことができない失業者も同じだけの収入があって、みんな食べるのに困らなかったらいいのにな。それが神の国というものじゃないか、と言ったわけです。
 「神の御心にふさわしい」とか、「御心に適っている」とか、あるいは「神に見捨てられている」とか、「神に呪われている」、「罰を受けている」とか、そういうことを言う宗教観に真っ向から反対し、全ての人が共に神からの恵みを食することができるのが、神の国だと宣言しました。
 イエスが生きていた時、イエスは誰にも洗礼を授けませんでしたし、もちろんキリスト教会さえありませんでした。しかもイエスは、「神から見放されている」と裁かれていた人たちを積極的に招いて、「神の国」を宣言しました。そんなイエスの食事は、ただ観念的に罪深い人というだけではなくて、社会から排除されているために生活に困窮している人もいたはずです。そのような人にとっては、イエスの食事への招きによって命をつないだ人もいたはずです。肉体的にも霊的にも生かされるわけです。
 パウロもそのようなイエスの食事の主旨をよく理解していたのでしょう。だから彼は、教会の中で、食べられる人と食べられない人がいることを批判したんですね。それも、洗礼を受けているか受けていないかではなく、恵まれた人が食べて、貧しい人が食べることができていないで、健康を害したり亡くなったりするような事態が起こっていることが、教会として「主の体をわきまえない」行為だと言っています。
 イエスの食卓、主の晩餐が本来どういうものであったか、その本質は明らかなのではないでしょうか。

アンパンマンの哲学

 最後に、今日は『アンパンマンの哲学』と題した説き明かしであったはずなのに、なかなかアンパンマンのお話に入らずに申し訳ありませんでした。
 かなり以前から、アンパンマンというのはキリストがモデルではないかと噂されていたんですね。しかし、風評のレベルであって、本当に作者のやなせたかしさんが、そういうつもりでアンパンマンを作ったのかはわかりません。やなせたかしさんが、聖公会の信徒であったという噂も聞いていますが、実はクリスチャンではないという話も聞いていますので、この辺りもはっきりしません。
 ただ、確かにアンパンマンは、お腹が空いている人、悲しんでいる人、打ちひしがれている人に、自分の顔をちぎって「これをお食べ」と与えます。自分の体を食べさせて人を救うというところが、キリストが自らの体を食べなさいと言った主の晩餐の出来事を下敷きにしているという噂があるのですね。先程まで申し上げたような、主の晩餐とは肉体的にも霊的にも人を養うものだという主旨から観れば、そういう見方も的外れではないように思います。
 やなせたかしさん自身が、アンパンマンに込められた哲学について語っていた文章がありましたので、その一部を抜き取って読んでみたいと思います。アンパンマンの根底にあるのは、やなせさんの戦争体験だということです。
 「行軍したり、泥だらけになってはい回ったりするのは、一晩寝ればなんとかなる。ところが、飢えはどうしても我慢できない。
 食べられないというのは、ものすごくきついですよ。
 飢えれば人肉だって食べようという気持ちになるんだから。
 仕方がないんで、その辺の野草を煮て食べたりしたんです。まずいのもあるんだけど、大体は酸っぱいんです
 内地に残っていた銃後の国民のほうがよほどつらい目を見ている。たとえ、戦火に逢わなかったとしても飢えに苦しんでいる。
 正義のための戦いなんてどこにもないのだ。正義は或る日突然逆転する。正義は信じがたい。
 逆転しない正義とは献身と愛だ。それも決して大げさなことではなく、眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、その人に一片のパンを与えること。
 〔中略〕
 困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても国が違っても「正しいこと」には変わりません。絶対的な正義なのです。
 なんのために生まれて、何をして生きるのか。これはアンパンマンのテーマソングであり、ぼくの人生のテーマソングである」。
 人のために食べ物を差し出す行為こそが絶対的な正義なんだ。そして、それは自分の顔をちぎって食べてもらうような、痛みを伴う行為でもあるわけです。そして、それが人の生きる意味でもあると。
 私たちの「主の晩餐」と重なり合うところがあるのではないでしょうか。
 主の晩餐を通じて、霊的にも肉体的にも養われ、また世界の人々と食べ物と生きる力を分かち合うのが、神さまの喜ばれることではないかな、と思わされたわけです。
 いかがでしょうか。みなさまの思いをお聴かせください。
 




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