いつ実がなるかわからない木を育てる

2014年10月26日(日) 

 日本キリスト教団八尾教会 献堂58年記念特別礼拝説教

58分間
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ルカによる福音書13章6−9節 (新共同訳)
 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」





ライブ録画:聖書と説教(58分間)

 
実のならないいちじく

 今日は、「実のならないいちじくの木」のたとえの箇所をお読みしました。これは私のたいへん好きな聖句の一つです。
 このたとえ話は4つある福音書の中で、ルカによる福音書だけに収められているエピソードです。
 マタイによる福音書とマルコによる福音書には、イエスがいちじくの木を呪って、いちじくの木が根元から枯れてしまったというお話は載っています。イエスの御心に適わないいちじくの木は枯れてしまうぞ、という警告のように読めますが、ルカの福音書のエピソードでは、「切り倒してしまえ」という主人の命令に対して、園丁が「今年もこのままにしておいてください。来年は実がなるかもしれません。そしそれでもだめなら、切り倒してください」と言って、いちじくの木を庇います。
 他の福音書とはひと味違う物語なのですね。
 このお話で私が面白いと思うのは、「何年まで待ってください」という話ではないところですね。「今年もこのままにしてください。来年は実がなるかもしれません」と書いてあります。来年になれば実がなりますと約束しているわけではありません。実がなる「かもしれない」と言っているだけです。
 そして、私たちは、いつこの聖書の箇所を読んでも「今年はこのままにしておいてください」という御言葉を読むことになります。今年も、来年も、再来年も、「今年はこのままにしておいてください。来年は実がなるかもしれません」という希望的観測のもと、いつまでも引き延ばされるわけです。
 私は、この聖書の箇所を読むたび、「教育というものはこういうものだなあ」と思いを新たにされます。教育とは何かということを見失いそうになるとき、この聖句を読むと、基本に巻き戻される思いがします。

徒労に賭ける

 1992年に96歳で亡くなった、森信三という哲学者・教育者の方が遺した言葉で、こういうのがあります。
 「教育とは、流水に文字を書くように果敢ない(はかない)業である。だが文字を巌壁に刻むような真剣さで取り組まねばならぬ」。
 「教育とは、流水に文字を書くように果敢ない業である。だが文字を巌壁に刻むような真剣さで取り組まねばならぬ」。
 教育というのは、何年やっても徒労に思えることを、一心に真剣に取り組む業であるということを、私もあまりに疲れたり、挫折感を味わった時に忘れそうになるのですが、やはり教育というものの原点、その徒労に敢えて賭けるということなのだろうと思います。
 これは教育でも教会における牧会でも、伝道でも同じことでしょう。
 教育でも牧会でも伝道でも、私たちの業は意識の下に刻もうとするものです。意識の下に刻むと言えば、まだ恰好いいですね。要するに忘れ去られてゆくものです。今日語った言葉をその日の夕方まで憶えていてもらうということさえも、まずないのです。
 しかし、自分が文字を刻み付けようとしていた、その時に効果が現れるものではなく、10年後、20年後、あるいはもっと歳をとってから、やっと気づくようなこともあるかもしれない。
 そのために、いつ実がなるかわからないけれども、今年も肥やしをやってみよう。そのことを本日の聖書の箇所に教えられるわけです。

芽や実はいつ出るかわからない

 教育や伝道のことをたとえる際に、他に、種を蒔く作業が引き合いに出される場合もあります。私たちは日夜種を蒔くわけですが、聖書のたとえ話で載っている種まきのたとえは、場所によってはカラスが種を食べてしまうし、場所によっては干からびてしまうし、どれが芽を出すかはわからんぞ、という話ですよね。私たちの教育もそうで、芽が出るかどうかは人によって違うし、それは種を蒔いている本人にはわからんのだよということです。
 そして、付け加えて言うならば、その芽がいつ出るかということも、教育や伝道においてはわからないんですよね。
 私たち学校で働く教員は、自分たちを種まきの農夫になぞらえますが、その種から芽が出るのは、自分の学校に在学中ではない場合が多い、卒業してからであろうと腹をくくっています。種が子どもの間に芽を出すということは稀です。特に、知識の教育ではなく、人間性とか人格の成長というのは、そういうものです。
 子どもや若者が自分の教育によって早々と効果を現してくれるように期待し、その成果を見ようとするとするのは、大人のエゴでしかありません。
 これは伝道でも同じで、子どもたちや若者に一生懸命伝道を施したからといって、子どもたちや若者がたくさん教会に来てくれるように期待するのは難しいでしょう。
 
若者の教会

 子どもや若者が教会に来なくて悩んでいる教会はたくさんあります。その一方で、若者がたくさん集まっている教会もあります。日本基督教団に属する教会では、若者がたくさん集まっている教会は珍しいですが、福音派の単立の教会などでは、若者で会堂があふれかえっているところもあります。そのような教会は全体から見れば数は少ないですが、確かに若者中心の教会になっています。
 そのような教会では、私たちが歌っているような伝統的な讃美歌ではなく、ロック調やポップ調の讃美歌が歌われ、神学的な根拠を踏まえた知的な説教というよりは、親しげな語りかけ、感情を揺さぶったり、慰めたり、あるいは興奮させたりといった短いメッセージが美しい映像と共に語られたりします。私たちが描いている礼拝のイメージとは異なり、どこか観客と一体化したコンサートのような雰囲気の礼拝です。
 しかし、そういう礼拝を行い若者を集める教会が話題を集めるようになってから、およそ10年近くが経ちました。かつての20代が30代になり、その同世代の人たちが教会を運営しているのですが、その人たちよりも若い世代が継続的に集まって来ているかというとそういうわけではなく、同世代の牧師と信徒が一緒に歳をとってゆくという現象が起こりつつあります。
 これは、ある程度予想されたことです。私たちの教会がそうだからです。私たちの仲間の多くの教会が、戦後から高度成長期、そして安保闘争の時代に教会に来た人が多いのではないでしょうか。そして、教会で若者の時代を謳歌し、そして、一緒に歳をとってきたけれども、その下の世代が思うように続かないということを現在経験しているのではないでしょうか。
 ですから、現在、若者の集まっている教会がいくつかあるからと言って、私はそれをあまり気にする必要はないのではないかと思うのです。
 今の時代に流行している文化は、時代が変われば使い捨てられて廃れます。今の時代に流行している形を積極的に礼拝に取り入れようとしても、悪いことではないでしょうが、そういう流行はいずれは古びてしまいますし、その都度また新しいものを、と追いかけても空しいイタチごっこに疲れきってしまうだけです。
 むしろ、私たちは、礼拝の形式がどうであれ、人間の命や人生の本質を深く見つめ、いまここに生かされてあることの意味を深く味わい、自らの命が神に造られた聖なるものであり、私たちの体が神の霊を受け入れる神殿であるということの意味を知り、本当の自分、本当の人生、イエスの道を生きる人生を歩むために神と出会いなおす礼拝が、きちんとできるているかどうか、またその礼拝から押し出されて、この世において、神を愛し、人を愛する生き方ができるかどうかが、結局は問われるのだろうと思います。

いまどきの若者

 今時の若者というのは、一体どうなっているのか? さっぱりわからん。そのことを知りたい方もいらっしゃると思います。今時の若者は、かつての若者とどう違うのでしょうか?
 かつての若者と今時の若者は、実はあまり変わってはいないようです。多くの若者がエネルギーを持て余して爆発しそうになっていて、そのエネルギーをスポーツや恋愛や音楽や友達とのバカ騒ぎにぶつけて発散したいと思っています。
 しかし、明らかに違っているのは、彼ら彼女らを取り巻く環境です。
 一言で言うと忙しすぎるんですね。もちろん勉強が忙しいのはひと昔前もそうだったかもしれません。しかし、日本の親の教育熱心と言いましょうか、学校の勉強だけでなく、塾・習い事が子どもたちのゆったりしたり、若さを発散できる時間を奪っています。
 何より子どもたちの自由な時間を奪っているのは、スマホなどのIT機器ですね。学校の勉強も部活もあまりぱっとしない、塾や習い事に行かせる経済力も無い家庭の子どもは何ををしているのかというと、時間はあるのですが、ほとんどスマホかゲームの画面を見つめています。部屋にこもっているか、街を歩いているかの違いはあっても、スマホを手放さない点では変わりがありません。
 スマホで何をやっているのかというと、LINEかTwitterかFacebook、つまりソーシャルネットワークサーヴィス(略してSNS)というものに没頭しています。SNSと言っても大したことはない、ただのコミュニケーションの道具なんですけど、これに色々楽しい遊びの要素がついてきて、面白おかしく友達とやりとりができるので、これにハマってしまう。スマホ1台あれば友達と一緒にいなくても、一緒にいるかのようにおしゃべりに夢中になれるわけです。また、離れた場所で一緒にゲームをすることになります。1対1ではなく、複数の人数でおしゃべりしたり、ゲームをしたり……。そうなると「私、今から抜けるね」ということが言えなくなるんですね。仲間はずれにされるんじゃないか。陰口を言われるんじゃないか。
 そして、やがて、常にネットにつながってSNSをやっていないと、孤立感、孤独感で居ても立ってもいられなくなって、スマホ依存になってしまうんですね。もう自分の睡眠時間も削って深夜までスマホを触っています。それでスマホを握りしめたまま眠ってしまって、睡眠不足で学校に来たら、そりゃあ授業なんて頭に入るわけありませんよね。

正解の無い問い

 そういうわけで、今時の子ども、若者は、暇をつぶす暇もないという状況ですので、もちろん「自分とは何だろう?」とか「何のために生きるんだろう?」とか、そういう問いを抱く時間もありません。問いを抱かないのではなく、抱けない状態に追い込まれているのですね。
 教育の内容も、ただ知識を詰め込んで記憶させ、その記憶力をテストで試し、テストが終わると全部忘れて、次のテストに向けてまた知識を記憶してゆく。その連続に追い立てられています。
 そもそもテストのための勉強というのは、正解を憶えたり、正解を数式で導き出したりするのですが、人間とは何かとか、いかに生きるのかといった「正解の無い問題」を指導してくれる教師が1人もいないのが普通の学校です。
 ですから、例えば私が担当している聖書科という授業で、「正解はありません。自分の考えを深めて書いてみてください」なんて問いかけをやると、生徒さんたちは非常に戸惑うんですね。聖書科、あるいは宗教科の授業がない学校にいる子は、正解のある問題しか解いたことがないまま大学に進学する、あるいは社会に出ます。
 あるいは大学でも、正確な知識や正解を求める方法ばかりを学んで、正解の無い人生の問いと対決しないまま社会に出てしまうかも知れない。学校というシステムから出てみて初めて、世の中には正解の無いことだらけなんだということに目覚めるのかも知れない。
 あるいは、自分の実存や生き方にまで正解を求めずにはおれず、「これが正解だ」、「これが真実だ」と言い切るカルトに絡めとられてしまう若者もいます。
 もし、私たちが個々の人間の現実を踏まえないで、十把一絡げに「正解は教会にある!」、「正解を得たいなら洗礼を受けなさい!」と言い切ってしまうならば、それはカルトと同じことをやることになるでしょう。
 しかし、そうではなく、ひとりひとり異なる個性に創造された神の作品が、それぞれのありのままの自分を肯定して生きるチャンスを奪うのではなく、ひとりひとりが神さまとの出会いを通じて、本当の自分、本当の生き方を自分なりに発見して欲しいというのが私たちの願いではないでしょうか。

全ての世代へと

 ひと昔前なら、いわゆる思春期に悩むような、「自分とは何だろう?」とか「どう生きればいいんだろう?」とか、そういう正解の無い問いに向かう時間やチャンスを、今時の子どもたち、若者たちは学校教育やIT機器に奪われてしまっていまい、体だけが大人になっていくのだけれど、精神は子どものままという子が増えてきています。
 今の若者世代が、我に返って立ち止まり、自分の存在や人生を振り返る時というのは、実は若者とは言えない年齢になった時ではないかと、私は思っています。
 それは、今の若者を放っておけばいいという意味ではありません。若者に対しての呼びかけは必要ないと言っているのではありません。種を蒔き続けるのはもちろんのことです。しかし、その種が芽を出すのは、近年いよいよ遅くなっているということを知っておいたほうがいいと思うのですね。
 また、若者が教会にもし来たならば、そのこと自体は喜ばしいけれども、ひょっとしたらその若者は、やっと自分探しの旅を始めたばかりで、その後どんどん変化と成長を続け、やがてその教会を経由して別のステージに行ってしまう可能性がある。その時には笑って送り出す気持ちも必要です。
 若者が、それまで見向きもしなかった正解の無い問いに向き合うのは、もう若者ではなくなった時かも知れない。また問いを抱き始めても、自分なりの答を出せるようになるのは、10年後、20年後、やはり若者ではなくなった時期かも知れない。
 人間の心の成長が遅くなってしまった現代、若者であるかないかというのは、あまり重要な問題ではないような気がしています。
 その人が何歳であるかどうかに関わらず、人生に立ち止まりたくなった時、教会にいらっしゃい。教会とはそういう人が立ち寄ることができる場所なんだよ、という呼びかけが一般社会に対してどれくらいなされているかということの方が重要ではないでしょうか。
 もし、体の成長のことではなく、人生に思い悩む時期、心の成長の段階のことを「思春期」と呼ぶならば、いまの時代、心の「思春期」は全ての世代に広がっているのだと思います。私たちは、何歳の「思春期」の人に対しても、優しく向き合いたいと思うのですがいかがでしょうか。

再びいちじくの木

 最後に、再びいちじくの木のお話に戻りたいと思います。
 先程来から申し上げていますように、子どもや若者に蒔いた種は、その子どもが子どもであるうちに、また若者が若者であるうちに芽を出し、実を結ぶことはまずないと思って、私たちは種を蒔きます。
 ですから、実を結ばなくても、「今年はこのままにしておいてください。来年には実がなるかも知れませんから」と懇願する園丁に共感します。また、この園丁の後ろ姿を見て、私たちはなんとか仕事を続けていられます。
 来年は実がなるかもしれない。実がならないかもしれない。また、園丁自身が忘れた頃に、あるいは園丁自身が死んだ後に、実がなるかもしれない。
 またあるいは、皆さんは既にお気づきだったかも知れませんが、この物語の舞台はぶどう園です。ぶどう園にいちじくの木が植えられていたのです。
 ぶどうを育てる専門家が一生懸命世話をしているけれども、いちじくの専門家ではないために、いちじくはいつまでたっても実がならないのだということに、いつの日かこの園丁は気がついて、この木を別の場所に引っ越させて、いちじくの栽培の専門家に任せたほうがよいと思い当たるかもしれない。
 同じように、人の世話というものも、ひょっとしたら自分よりもこの人の教育や伝道には他の人の方が向いているかも知れないという可能性も含めて、いろんな教育者、いろんな伝道者が連絡を取り合って、チームワークで協力し合いながら、新しいアイデアがあったらそれを共有し、いつ実を結ぶかはわからないけれども、この先どうなるかはわからないけれども、いまやれることをコツコツとするより良い方法はないのだと思うのですが、いかがでしょうか。
 いまの若者は、少し経てば若者ではなくなります。いまの若者が芽を出し、また実を結ぶのは、この若者が若者ではなくなった時かも知れないということを覚悟して、種を蒔き、水をやり続けましょう。

 祈ります……。




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