自己チューよりタコチュー

2014年11月2日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝説き明かし

22分間
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ローマの信徒への手紙14章7−8節 (新共同訳)
 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。
 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。
 従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。





ライブ録画:聖書と説き明かし(22分間)+分かち合い(46分間)=68分間

 
他己紹介ゲーム

 さて突然ですが、皆さんはキャンプやパーティなどのゲームで「他己紹介」というのをやったことがあるでしょうか? 自己紹介の代わりに、他人を紹介するんですね。いろんなやり方があると思いますけど、一番簡単なのは、2人一組になって、限られた時間の中でお互いのことをインタビューし合って、それから、相方の人になりきって、「わたしは◯◯です。わたしは普段は△△をしています。私の性格は……」という風に、あたかも相方の人のことを自分のように紹介するというものですね。時々はデタラメや嘘や拡大解釈も含めて面白おかしくやる人もいます。
 キャンプの始まりなどにやりますと、お互いの紹介になると同時に、少なくとも1人はお互いに自分のことを詳しく知らせ合う相手ができるので、友達づくりにも役立ちます。
 自分のことよりも他人のことをよく知って、他人のことを人の印象が良くなるように、そして仲良しになってもらえるように紹介するというのは楽しいですし、紹介されている側からすれば、紹介する人が「そんな解釈をしていたのか?!」と勘違いしていることもあって、結構笑えることもあります。
 そういうわけで、私はこの「他己紹介」という簡単なゲームが好きで、よく自分のところの生徒たちのサマーキャンプなどの導入で使います。

自分の評価を他人任せにする

 このゲームを私はお気に入りなんですが、なぜ好きなのかをよく自分で考えてみると、たぶん自分という人間が他人からどう思われるだろうかということを、自分で自分のことを言うよりも第三者的に客観的に見ることができるような気がするのが面白いからではないかと思いました。また、自分を他者に認めてもらうための作業さえも、他者にお任せしてしまうことのちょっとスリリングな感覚を味わうのも面白いのかな、と思いました。
 ふだん私はついつい何事も、自分の存在意義を確認したり、自分の業績や達成感のために行なってしまうことがあります。そして、自分が努力した結果を他人が正当に評価してくれなかったり、全く顧みてくれなかったりすると、非常に気分を害したり、大いに落胆したりして、自分のやっていたことが全部無意味にされてしまったような気がしたり、やりがいを失って、こんなに必死にやらなければよかった、バカらしい。もうこれからは手を抜いてやろうか、と落ち込むことがあります。
 私は性格上と言いますか持病の性質もあって、感情の盛り上がりと落ち込みの波が激しいところがありますので、そういう風になってしまうのかもしれませんけれども、一生懸命に完璧に仕事をこなそうとするけれども、それがちゃんと評価されないと、「アホらしくて、やっとれんわ」という気分になって何もする意欲がわかなくなってしまったりすることがありますが、皆さんはそんなことはないでしょうか?
 私ほど感情の起伏が激しくなかったとしても、一生懸命にやったことが誰にも評価されなくて、凹んだことがあるという経験をお持ちの方は多いのではないかと思います。
 ところが、この他己紹介ゲームというのは、普段自分が自分の印象を良くするためにやるべき自己紹介を他人がやってくれて、自分の評価を他人任せにするというゲームなので、なんだか自転車をこぎながらハンドルは他人が操作しているような不安定な感じというか、やはりスリリングな感じが新鮮なんですね。

自己チューからタコチューへ

 私は高校生のころ、「自分の人生のハンドルは自分で握るものだ」という作文を書いたことがあり、これが生徒会が編集している作文集に載ったことがありました。そして、意外にこの作文が気に入ったと言って声をかけてくれる友達もチラホラいました。
 人に流されず、何事の自分の考えで判断し、自分の責任で人生を歩んで行こうというような主旨で書いたと思います。自分の人生は他の誰でもない自分のものだから、と思っていたわけです。
 しかし、最近その価値観が少し問い直されているような気がしています。
 もちろん、人に流されずに自分の心で感じ、頭で考えて言動することは大切ですけれども、そのようにして生きる人生は、果たして最終的に自分のものなんだろうか? 自分の人生の自分のために生きるものなのだろうかという疑問がわいてきたわけです。
 つまり、「自分の人生の主役は、本当に自分だろうか?」という問いです。自分は自分の人生においてさえも主役ではなく、他者は主役であって、自分はその主役を引き立てたり、助けたりする脇役なんじゃないか。そういう生き方ができるようになってもいいんじゃないか、と考えるようになってきたのですね。
 その背景には、自分という存在に限界を感じたり、自分に失望したりという経験も何度か重ね、自分が主役の人生がつまらなく感じてきたという、けっこう身勝手な感覚があるのも確かです。もう少し恰好よく言うと、自分の評価を自分で勝ち取ろうとするハングリーな生き方に空しさを感じるようになりました。
 そして、自分以外の人を引き立てたり、陰で支えたり、できれば幸福になってもらえたほうが、嬉しいかなと思うようになりました。
 もちろん、それさえも一種の自己満足には違いないのでしょうけれど、自分で自分の幸福感を勝ち取ろうとするよりは、人が喜んでくれたり、和んでくれたりしたほうが、自分自身も幸福かもしれないなと思い始めたのですね。
 今までの自分は、自分がいかにすごいことをやり遂げているかということで評価を高めることばかり考えている、たいへん自己完結といいますか、自己チューな人間でしかなかったんでしょうね。
 もうすぐ50歳になろうというのに、最近になってやっとそういうことに気づき始めたということで、大変精神的な成長が鈍いのかもしれませんが、少しずつ他者を人生の主役とする生き方にシフトしてゆければなと思っています。
 すなわち自己チューからタコチューへの転換です。
 私よりもこの人を。私よりもあの人を。そんな風に人に譲る生き方ができたら素敵だな、と。まあ、まだまだ自己犠牲をしてまで人に尽くすということまでは行かないかも知れませんが、少なくとも自分が主役ではない、主役はあなただと思えば、そのほうが実は楽ですし、人に対して今までよりも丁重に、親切に接することができるような気がします。

私たちは神の欠片か

 他者と出会うことが精神的な成長のステップだとすれば、究極の他者は神さまです。
 昔から、ある神学者たちは、神のことを「絶対他者」と呼んでいました。私たちは様々な人間界の他人と接して生きていますけれども、神さまというのは、そのまた先にある、究極の他者というわけですね。
 最近、私自分が「他者性」というものに注目しているので、この「絶対他者」、「究極の他者」という考え方は実はとても大事なのではないかと思うようになりました。
 これまで私は、実は神は自分の中に住んでいるのではないかと思っていました。自分の心の深い深い奥底ですね。自分の意識の届かない、無意識と呼ばれる広い領域の、更に一番深いところに存在する、私たちの心や愛の根っこにあたるところに存在しているもの、それが神ではないかと想像していました。そう考えるようになったのは、「人の無意識の底には、個人を超えた共通のつながりの部分がある」としていたユングという人の心理学を少しかじった影響もあります。
 ですから、私たち一人一人の心は、みな神の一部、神の分身なのではないかと思っていました。私たちは神の欠片ではないかと思っていました。
 神は私たちの目を通してこの世界を見ていて、私たちの耳を通してこの世の声を聴き取っているのではないか。そして、神の思いが、物理的に何かを動かすわけではないけれども、私たちの心に無意識の領域から何らかの影響を与えて、私たちを動かしているのではないか、と思っていました。そう考えることによって、「自分や自分以外の人間は、皆、神の分身なのだ。だから互い貴い存在なのだ」と思うことができていました。

わたしをあなたの道具にしてください

 しかし最近は、やはり神は他者なのではないかと考えるようになりました。
 「人間の体は、神の霊が宿る神殿なのだ」と、パウロはコリントの信徒への手紙で何度か述べているということを、以前説き明かしで述べさせていただいたことがありました。神の霊は私たちの体に入って、私たちの中で生きてくださる、とパウロは考えました。人は自分の魂だけで生きるのではなく、神の霊に充満されて生きることができる、とパウロは言いたかったのですね。
 このパウロの考えによれば、やはり神さまは他者です。自分ではない何者かです。しかし、自分の身体を神、あるいはキリストという他者に開け渡すのだというわけです。これをパウロはガラテヤの信徒への手紙(2章20節)でも、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」とも表現したんですね。
 もちろん、神という他者の霊が私の肉体の中に入る、というのは科学的には何の根拠もありません。霊というものの存在など、誰も客観的、物理的に証明した人はいませんし、多分証明できないでしょう。
 むしろそれは古代人の感性で、息や風といった空気の流れ、気の動きに宿るものとしてイメージされたものだろうということも、いつかお話ししました。
 ですから私たちも、自己暗示と言ってしまえば身も蓋もないかもしれませんが、霊というものを、物理的に存在するものではなく、古代人と同じようにイメージで思い描けばよいと思うのですね。自分のエゴで生きるのではなく、神の霊に、あるいはキリストの霊に私の中に入っていただいて、そして私自身を神さまの、キリストの道具として献げよう。そのために、どうか私の中に入ってください。私を開け渡します、どうかハンドルをあなたが握ってくださいと思い描くのです。
 誤解の無いように言いますけれど、これは何かに意識を乗っ取られたり、マインドコントロールされたらいいということではないんですね。そうではなく、あくまで自分の中に神の霊が、あるいはキリストが入って来ることをイメージする。イメージトレーニングの一種です。瞑想のようなものです。
 ですから、実際の日常生活において、ちゃんと自分の意識も自己決定する意志もあります。しかし、その自由意志において、自分が主役ではなく、神さまを主役にする生き方を選び取ろうというのが、このイメージトレーニングの目的なんですよね。
 
靴屋のマルチン

 最後に、みなさん『靴屋のマルチン』というトルストイ原作のお話をご存知でしょうか? 「神などいない」と落胆していたマルチンという靴屋さんが、ある老人に聖書をもらい、それを毎日読んで「神さま、もし本当におられるのでしたら、私のところに来てください」と祈るようになった。すると、ある夜「マルチン、マルチン、明日おまえの所に行くからな」と声を聞くんですね。ところが、一日通りをにらんでいても、いっこうに神さまや天使らしい者はやってこない。その代わりに、雪かきのおじいさんや、赤ん坊を連れたお母さんや、リンゴ泥棒の少年やらをお世話しているうちに日が暮れてしまう。
 その夜、「神さまはやっぱり来なかったな……」と思いながら、聖書を開くと、「マルチン、マルチン、おまえは私がわからなかったのかね?」という神さまの声を聞く……というお話ですね。読んでない人のために、これ以上は詳しく言いません。
 私たちが自分自身のために生きるのではなく、目の前の他者のために自分の時間と労力を施すとき、つまり、愛するとき、そこに神は存在しているという話です。
 自分ではなく、目の前の他者が人生の主人公であり、自分はこの人のために自分の人生を使おう。
 また、自分ではなく、神が、キリストが物語の主人公であり、自分はその物語の登場人物として仕えよう。
 そのように自分の人生を開け渡すことが、案外本当の人生の満足感に近づく道だったりするのではないかなと思うのですが、皆さんはいかがお感じになるのでしょうか。




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