人は何があれば生きてゆけるか

2014年11月16日(日) 

 日本キリスト教団枚方くずは教会 主日礼拝宣教

26分間
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ローマの信徒への手紙12章9-15節 (新共同訳)
 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。





ライブ録画:聖書と説き明かし=27分間

 
▼悩みを分け合う仲間

 さて、「人は何があれば生きてゆけるか」という随分大きな題をかかげてしまいましたが、これは、私自身がここ数日悩んで考え込んでしまうようなことがあったからなんですね。
 クリスチャンであっても、牧師であっても、何のために生きているのか、何故生きてゆかねばならないのか、何があれば生きてゆけるのか、そういったことに悩まなくてすむかというと、そういうわけではないと思うんですね。
 と言いますか、救われきってしまっている人とか、悟りきってしまったようなクリスチャンの方も見かけますし、それはそれで羨ましいような気もするんですけれど、一方で、ほんまにそんな人生すっきりハレルヤー! という風に解決するんかな? そういう人とでは一緒に色々苦労話を共にすることもできないんと違うかなぁ、それはつまらんなぁ、やっぱりあまり羨ましくないなぁと思ってしまうのであります。
 不思議なもので、私たちの中でわざわざ辛い人生を歩みたいと思っている人はいないと思うんですが、辛い思いをした経験のある人のほうが、何となく味があるものですよね。色々な痛みや傷を持っている人で、それを生き延びた人と出会うと、「この人なら話がわかってくれそうかなぁ」と思わされますね。また、苦労知らずに生きてきた人のは話よりも、色々な経験をした人の方が、話に説得力があるし、そういう人の話を聴きたいと通常私たちは思うのではないでしょうか。
 そして、お互いに苦労したことを話し合うと、たとえ違う内容の苦労であったとしても、自分だけが辛い思いをしているわけではないことがわかって、少しほっとしたりするのではないでしょうか。
 私たちは別に進んで苦しい思いをしたいわけではないのですが、不思議なことに互いに苦労の経験があるほうが、たった一人で幸福な思いを味わうよりも、その経験を分かち合い、受け止め合うことで、実は深い喜びを感じることができるようにできているようです。

▼病にいたるストレス

 私は心の病を患っています。双極性障害という病気です。俗に言う躁鬱病です。妙に元気になり過ぎてしまう時と、妙に気分が落ち込んでしまう時が、一定期間をおいて代わる代わる現れるので、両方の極端な状態があるということで、双極性障害といいます。
 そのなかでも、特に鬱状態のほうがひどいタイプで、同じ双極性といっても、上は普通の精神状態、下は鬱病と同じ状態というものです。
幸い、今は自分に合う薬を処方をしてもらっているので、ほとんど元気に暮らしていますし、何も言わなければ、誰も病気だとはわかりません。けれども、たまに薬を飲み忘れたり、あまりに強いストレスを感じると、非常に深い鬱状態に陥り、じっと寝転んだまましばらく何もできなくなります。
 私の経験的に言えば、自分が動けなくなるほどのストレスは、無意味感と孤独感ですかね。もちろん、強いストレスの原因というのはそれだけではありません。大切な人に先立たれた苦しみ、別れざるを得なかった苦しみ。仕事があまりに多すぎたり、あるいは逆に仕事を失ってしまったりする苦しみ。家を失ったり、明日の生活もわからないというストレス。人に攻撃されたり、いじめられたりする苦しみ。病気を抱えて生き続けるストレス。事故や災害に遭ったショックと、その後長く続くPTSDなど。人が味わう苦しみとそれによって与えられるストレスは様々なものがあります。
 皆さんも、なんらかの形で辛い思いやストレスを経験したことがあるのではないかと思います。それが私の場合は、孤立感:自分には味方が誰もいない、理解者もいないと感じることと、無意味感:自分のやっていることを誰にも評価されていない、誰のためにもなっていない、と感じることに特に弱いということなんですね。何に弱いかというのは人それぞれに違うと思いますが。

▼死に至る病

 キルケゴールという人が『死に至る病』という書物を残しましたが、非常に非常に乱暴に省略してしまうと、キルケゴールによれば、「孤独」だと言うんですね。
 私の場合、孤独感・孤立感を強く経験すると鬱状態に陥りますが、鬱がひどくなって職場を休まざるを得なくなったら、今度は自分の病気が他の人にどれだけ理解されているのだろうか、というもうひとつの不安が襲ってきます。
 鬱というものが理解できない人は多いです。これは経験しないとわかりにくいと思います。肉体的な病気で体調が悪いとか、痛いとかしんどいというわけではありませんし、疲れすぎたり、気分が悪いから動けないというのとも違うので、なかなか他の人には想像しにくいんですね。
そのため、自分のことを理解している人がいないとか、サボっている、甘えていると思われているんではないか、ともうひとつの孤立感が襲ってきます。
 孤独は人を殺すことがあります。
 誰も自分のことをわかっていない。理解はできなかったとしても、苦しんでいるということを誰も知っていない。私がここにいることを誰も思い出してもくれていない。私がここにいるということを誰も知らない。私がここで死んでも誰にもわからないし、悲しむ人もいないんじゃないかな……そう思うと、もう死んでしまおうかなと思えてくるんですよね。
 生きていても何もいいこともないし、何の意味もないし、生きていても死んでいても同じようなものだし、むしろ生きているほうが、こんなに苦しいのなら、死んじゃおうかなと思うわけです。
 それで死んでしまえば、自殺/自死という風に世間的には言われるでしょうけど、これは孤独、あるいは鬱というものに殺されたとも言えます。鬱による自死は、実は病死だと唱えている人たちもいらっしゃいます。
 まさに、キルケゴールが言ったごとく、孤独は「死に至る病」なんですね。

▼鬱を経験したパウロ

 今日お読みした聖書の言葉は、パウロによるものですが、私はこのパウロという人も孤立感や無意味感というものをかなり強く味わった人ではないかと思っています。
 もともとこの人はキリスト教を激しく迫害していた人です。ユダヤ教のファリサイ主義の優秀な学徒として、信念と使命感をもって、イエスを信じる者たちを捕まえ、投獄していたわけですね。神は自分の方についていると信じていたわけです。
 ところが、彼はある時、自分が信じて一生懸命にやっていたことが全く間違っていた。無意味であったどころではない。全くとんでもない過ちを信念を持って続けていたと気づいたわけです。その時の彼の絶望感、罪悪感は想像を絶するものであったと思います。
 その時、パウロは目が見えなくなり、3日間飲まず食わずだったと伝えられていますが、これは極度の鬱状態に陥ったことを指していると解釈するとも考えることができます。
 と言いますのも、聖書においては「3日間」というのは象徴的な数字で、人が行方をくらまして再び姿を現したり、死んでから復活するまでの期間などを表す暗号のようなものだからです。イエスが十字架で息を引き取って、それから復活するまで3日間であったというのも、事実3日間だったのではなく、イエスは確かに受難の死の苦しみを味わった、そして眠っていたのだということを表す象徴的な数字なんですね。
 ですから、パウロが3日間飲まず食わずでダウンしていたというのは、実際に3日間そうだったというのではなく、どれくらいの期間かはわかりませんが、とにかくパウロの鬱状態は相当しんどいものだった。まさにパウロは死んでいたといってもいいくらいの苦しみを味わったということを示していると考えられます。

▼孤独なパウロ

 おまけに、その死んだような状態から復活した後のパウロは、イエスの教えを宣べ伝える使徒になろうとするわけですが、それまで殺害の息を弾ませながらイエスを信じる者たちを逮捕し、迫害して回っていた男を、教会の人々がそう簡単に信用するはずがありません。恐怖に慄いた教会の人々に忌み嫌われ、同時にファリサイ派のスパイではないかと恐れられたでしょう。その孤立感、教会員たちの嫌悪や不信感に対抗する孤独感というのはいかほどのものだったでしょうか。
 彼は、シリアのアンティオキアの教会を本拠地としますが、あちこちの土地を旅行しながら伝道し、ある街でイエスを信じる人々の群れを立ち上げると、次はまた別の街へと旅をしてゆくという人生を歩みました。
 飛行機で旅行する現代の旅とは違って、日本列島縦断を何度もやるような距離を、何度も野宿をしながら、徒歩で旅をしたんですね。
 そういうわけですから、ずっと一緒に教会生活を営むような安定的、継続的な人間関係は結んでいません。また、旅の道連れはいましたが、毎回相手は変わります。おまけに、パウロとは信仰理解や神学が違うライバルと、どの街で先に伝道を始めるかという競争もあり、ライバルに先を越された街はあえて見捨てて次に進むといったこともしていたようです。
 つまり、パウロという人間は基本的には独りであったということです。

▼共に喜び、共に泣く仲間

 しかしパウロは、完全にはひとりぼっちではありませんでした。
 彼が時折、手紙の末尾に幾人かの人々に挨拶文を書いているように、あちこちの教会に何人かの頼りになる信徒がいました。そのような人々との手紙でのつながりを頼りに彼は完全な孤独には陥ることなく伝道の旅を続けることができました。
 たとえいつも一緒にいなくても、遠くにいたとしても、信頼できる人とのつながりがあれば、彼は生きてゆくことができました。そして、たとえキリスト教会が互いに顔も合わせたくないようなライバルもいるようなバラバラな状態でも、「目もいれば手もいる、頭もいれば足もいるけれども、それでも互いに違うままでキリストの体を作っているんだ」と言うことができたのでしょう。
 ともすれば、孤立感で潰れてしまいそうな中で、彼の伝道の戦いを支えていたのは、あちこちの教会の数少ないけれど信頼出来る仲間でした。
 そのつながりの実感が、今日お読みしました聖書の箇所に表れているのであろうと思います。
 「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」、あるいは「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」、あるいは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」といった言葉が散りばめられていますが、これは、パウロ自身が旅先の教会での信頼できる信徒の人々との兄弟愛、旅人としてもてなしてもらったこと、共に喜び、共に泣いた経験が背景にあるのではないでしょうか。
 たとえ、人数は少なくても、あるいは一人であっても、誰か自分の喜びを一緒に喜んでくれる人がいたり、自分の悲しみを一緒に悲しんでくれる人がいれば、人は生きて行けるのではないかと思います。
 また、誰かが喜んでいるとき一緒に喜び、誰かが悲しんでいるとき一緒に悲しむことができれば、その人を完全にひとりぼっちにしないで済む。そうすれば、その人を孤独のあまり死なせるということがなくても済むのではないでしょうか。
 孤独は死に至る病ですが、完全な孤独にはならないように、何らかの共感のつながりが保たれていれば、人を死から救うことができるのではないでしょうか。

▼互いに覚えていよう

 人は何があれば生きてゆけるか。
 食べるものがあっても、眠る場所があっても、孤独は人を殺します。
 食べるものも、着るものも、寝る場所もみんな必要ですが、それに加えて、誰かがひとりでいいから、共に喜び、共に泣く人がいることが必要ではないでしょうか。
 自分がここにいるということが誰かに認められている。ありのままに受け入れられているということがどんなにありがたいか。
 あなたのことを忘れていないよ。あなたのことを覚えていますよ。と互いに伝え合うことが、どんなに大事でしょうか。
 そして、私もあなたも神に覚えられています。神は私たちのことを決して忘れていません。ひとりひとりが確かに神に覚えられており、私たちは互いに異なっていても、共にキリストの体を構成している、ということを互いに確認したいと思います。
 私は神に覚えてもらっている。神はわたしのことを忘れていない。私だけではなく、あなたもそうです。そのことを信じましょう。
 そして、神がそうしてくださっているように、私たちも、互いに互いのことを覚えて忘れないようにいたしましょう。

 祈ります。




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