生きづらい時代に生きる力を

2014年11月23日(日) 

 日本キリスト教団鶴川教会 主日礼拝説教

28分間
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ガラテヤの信徒への手紙2章20節 (新共同訳)
 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。





ライブ録画:聖書と説き明かし=29分間

 
▼太平洋はヤバい
 生きにくい時代になりました。
 でも、これから先、どんどんもっと生きにくい時代になってゆきます。大変な時代になってゆきます。日本はこのままじゃヤバいなと正直思っています。
 命が危ない時代になります。
 ただ生きてゆくというだけでも、目の前に危険がいっぱい。ぼんやりしていたら、殺されるかもしれません。
 例えば、福島では今でも、放射能に汚染された水がどんどん海へ流れ出しています。総理大臣が「汚染水は完全にコントロールされている」と世界を前に大嘘をついて、2020年のオリンピックを東京に呼び込みました。
 でも、実際には昨日も今日も汚染水は太平洋に流れ込んでいます。太平洋の最低北半分は放射能が広がっています。そこを泳ぐ魚はみんな汚染されています。魚はもう食べられない。回転寿しなんて行けないですよ。そう言いながらも放射能は見えないし、魚好きだから、結局食べちゃってますけどね。でも、ぼくみたいなおじさんはいいけど、これから子ども作る可能性もある若い人は、かなりヤバいことになる確率が高いでしょう。

▼関東も関西もヤバい

 太平洋に流れ込む汚染水だけではありません。汚染水は地下水脈を通って関東地方にたくさん染み渡っています。関東に住んでいる人には申し訳ないですが、皆さんはかなり既に被曝していると思います。2020年のアスリートたちも被爆するでしょう。
 かといって、ぼくが住んでいる関西もいつまでも安全というわけではありません。福島第一原発からここ関東までおよそ200キロの距離がある。実は私が住んでいる京都府の自宅は、敦賀・大飯・美浜・高浜・もんじゅ……という5基がズラッと並んでいる福井県の恐怖の原発銀座から100キロ圏内にあります。関西電力さん、えらいことをしてくれました。
 これらの原発銀座は一回の地震と津波で、複数の発電所に事故が同時に事故が起こる可能性が高いです。そうなると、ぼくの住んでいるところは壊滅です。
 しかし、ぼくは、たぶんここにいる皆さんのうちの多くの方と同じように、自分の住んでいるところが汚染されたから、それさっさと引っ越して逃げられるかというと、そうはいきません。だとすると、どうなるかというと、被曝して、癌になったり白血病になったりして、最初の予想よりはるかに短い人生を終えるんでしょうね。
 子どもたちはもっと放射能に弱いですから、ぼくよりも短い人生を終えるかもしれない。そして、その次の世代では生まれつきたくさんの体の症状を持つ子が生まれて……といった具合に、一気に滅ぶわけではありませんけれども、ジワジワと少しずつ滅亡に向かってゆくでしょう。
 それでも、世の中をコントロールしている金持ちや政治家は、原発を動かせ、動かせと圧力をかけてくる。一般市民が死のうが泣こうが、関係ない。自分たちがもうかったらそれでいいわけです。命より金、それが奴らの論理です。

▼お金もない

 ぼくは暗い性格です。なので、暗い時代に暗い話をし出したら、止まらなくなる傾向がありますが、もう少々おつきあいください。
 これからは、貧乏な人が増えます。
 まず就職するのが難しくなる。いや、仕事はたくさんあるけど、給料が安くて、健康保険も失業保険もないような、しかもいつでも簡単にクビにされるバイトやパートのような仕事ばかりがどんどん増えてゆきます。
 給料は安いし、不安定だから、結婚も子どもを作るのも難しくなる。単純に考えても、子どもが増えないんだから、国はどんどん人口が少なくなる。若いフリーターもいつまでたってもフリーターで、歳をとってもフリーターで、病気になって病院に行って高い医療費を払うこともできず、バタバタ死んでゆきます。
 子どもは増えない。年寄りは早死に。やっぱり日本はジワジワとゆっくり滅んで行きます。
 世の中では、お金を稼ぐことが成功だと言っている人が多いですが、そういう意味では、これからは成功する人は、ほんのひとにぎりで、ほとんどの人がお金持ちにはなれないでしょう。
 お金に困った人の中には、すぐに現金が手に入る日雇い労働者になる人がいるかもしれません。お金も住む場所も無くなって、ネットカフェくらいしか泊まるところがなくても、携帯だけは手元に残しておくわけですよ。そして、携帯で指示された時間に指示された場所に行って肉体労働です。
 建築や土木の現場で働くわけですが、同じ汗水垂らしてしんどい仕事をするんだったら、もっと割のいい、もっと現金がたくさんもらえる仕事のほうがいいと思うかもしれません。そういう人を、いつでも待っているのが原発での仕事です。普通の肉体労働の2倍から3倍の給料がもらえます。ただし、原子炉の中に入ってやる作業もありますから、確実に被曝します。だいたい3年以上やると、癌か白血病かその他の病気、現場で血を吐いて突然死ぬ人もいます。
 あるいは、もっと危険でもいい、「お国のために役立つ大事な仕事だ」という誇りが欲しいなら、軍隊に入る道があります。また総選挙が行われるようですが、いまの政府の方針が続けば、やがて自衛隊が国防軍に格上げされて、兵隊さんをたくさん募集するようになるでしょう。兵士というのは最終的には。そうしたら、身体や頭を弾丸で撃ち抜かれ、血まみれの穴だらけ、内臓も飛び出た状態で、殺される。あるいは殺す。爆弾やミサイルで吹き飛ばされ、引きちぎられ、焼かれて、もがき苦しみながら、殺される、あるいは殺す。そういう世界に送り込まれるということです。
 一部のお金持ちや政治権力を持った人たちにとっては痛くも痒くもありません。彼らは戦争が起こった方が儲かるんです。命よりもお金。それが奴らの論理です。

▼未来を変える方法

 このように、日本に待ち受けているのは、一部のお金持ちのために、労働者が安い給料で危険な仕事をやらされる、新しい奴隷制のような暗黒の未来……ではないかと予想しているのですが、これらが全部ぼくの取り越し苦労で、全部この暗い暗い予想が外れてくれたらな、と願ってはいます。
全部ぼくの予想が外れて、もうちょっと明るい未来に変わってくれたらな、と思います。未来なんか大体予想通りにはなりませんからね。予言というのは必ず外れますから。ぼくの予想も、細かいところは大抵外れるでしょう。ただし、予言というものは、不幸な方向に外れる可能性もありますからね。
 そして、多分放っておいても、良い方向には変わらないでしょう。みんなが変えようとしなければ、多分無理です。じゃあ、変えるためにはどうすればいいのか。それはみんなが選挙に行かないといけません。選挙に行くしか方法がありません。だから、若い人には「選挙にはサボらずしっかり行けよ!」と言いたいと思います。
 黙っていたら、暗黒の未来が口をあけて、すぐそこに待っています。

▼乾いた心に水を与えてくれる場所

 さて、こんな、ぼんやりしていたら自分の命さえも国から奪われかねないような、放っておいたらその国自体も滅んでしまうような、そんなヤバい時代に生きていて、いろんな情報が目や耳から入ってきます。悪いニュースばかりで、すっかり気が滅入ってしまいます。
 ぼく自身、ここ数週間、いろいろな悩みや不安で頭や胸がいっぱいになってしまって、時々うずくまって何もしたくなくなってしまうような精神状態でいました。
 こんな世の中で、先々生きてゆく希望もはっきり見えていないような中で、聖書の言葉、教会で牧師が話している言葉、そして教会の存在、そんなもの何の役に立つんだろうか。何の役にも立たないんじゃないだろうか。そんな風に迷ってしまうんです。おそらく世の中の多くの人も、聖書の言葉はどう役に立つと思いますか? なんて聞かれたら、首をすくめて苦笑いするだけでしょう。
 でもぼくは、あえて、そこに希望がある、そこに聖書の言葉、教会、礼拝がぼくらの乾ききった心に水を与えてくれると感じています。
 ここにある聖書、これ自体はただの本です。神と布と糸で作られた塊です。けれども、これを読んで、実際に生活の中でこの言葉を人間が生きることで、この言葉はぼくら人間を生かしてくれる力となってくれます。
 生きるのに疲れた時や、この世に何の希望も持てなくなった時、ぼくは教会に行って、教会の人に会いたいなぁと思います。なぜなら、教会に行くと、自分のありのままを受け止めてもらえて、休ませてくれるからです。

▼休ませてあげよう

 教会に行けば休ませてもらえるというのは、世間一般の人にとっては理解しがたいことかも知れません。教会というのは、分厚い本を読んで、長くて難しい話を聞いて、重苦しいお祈りを献げるものだと思っている人が多いかも知れません。
 しかし例えば、ぼくが通っている教会は、本当にぼくを休ませてくれます。
 ぼくは、学校の教師をしている傍ら、1ヶ月に2回、徳島北教会という教会で牧師の代務者をしています。代務者というのは、牧師代理のようなものです。近くに住んでいたり、教会に住むことができたら代理ではなくて正式に牧師になれるのかもしれませんが、車で高速道路を使って2時間半ほどかかる所に住んでいるので、月に2回で勘弁してもらっています。
 京都府から大阪府・兵庫県を経由して、明石海峡大橋を渡り、淡路島を走り抜けて鳴門海峡を渡って四国に入りますので、まあこちらから見れば、千葉県まで橋がかかっていたらそこを渡って房総半島の教会まで行くという感じでしょうか?
 代理とは牧師ですから、ちゃんと礼拝の説教も用意して、礼拝のご奉仕や聖餐式などの各種の典礼、そしていくつかの集会にも参加しますし、そこで自分のやるべき仕事はするのですが、その集会の合間合間にしんどくなる時がありますね。
 職場で抱えたしんどさ、世の中に対する不安、プライベートなことの悩み、そんなこんなで生きているのがしんどくなる時がよくあるじゃないですか。そういうものを抱えて教会に来ているわけですから、時折本当にじっと寝ていたくなるんですね。で、「すいません、ちょっと横になっていいですか?」と言うんです。すると、すぐに横になって休ませてもらえます。
 聖書には、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11.28)と書いてありますけど、本当に休ませてくれるんですね。
 まあ、牧師が昼間からゴロゴロ寝ている教会というのもちょっと極端で珍しいかもしれませんが、別に誰がしんどいと言っても休ませてもらえるような教会なんです。要は無理をしなくていいよということなんですね。

▼わたしが包まれる場所

 あるいは横になって眠っていなくても、心が安らぎを得られる集まりがあります。
 たとえば礼拝では、牧師の説教のあとに、「分かち合い」という花んシイあがあります。みんな疑問に思ったことや思いついたことを自由に話し合うのです。
 またや「こころの会」というグループカウンセリングの会があるのですが、そこで、自分の疲れていること、悲しいこと、悩んでいること、困っていることなどを打ち明け合うことができます。もちろん嬉しかったことも分け合います。
 そこで、自分がひとりぼっちではないということが感じられます。また、自分の疲れや傷が何か温かいものに包まれていることを感じます。
 誰も「もうちょっと頑張れ」とか、誰も「苦しんでいるのはあなただけはないんだよ」なんてことは言いません。ぼろぼろになったぼく自身、あなた自身をそのまま受け止めてもらえます。
 誰かが励ましてくれるわけでもないし、誰かが生き方の正解を与えてくれるわけでもないんですが、何だか疲れていた自分を癒してもらえる。そして、教会から帰って家路につくとき、「また一週間を生きてみよう」という元気を与えられるのですね。
 ぼくの友達や職場の同僚、上司は、月に3回も海の向こうの教会に行って、しんどくないのかとよく言います。しかし、ぼくはこの教会に通うからこそ心が支えられていると思うんですね。この教会をぼくから奪ったら、ぼくはもっと精神的に病んでしまうでしょう。いや、この教会だけではなく、どこに出かけていっても、こうして教会があることが自分の人生を地に足のついたものにしてくれている、生きる拠り所があるという感覚を与えてくれているのだと思います。
 教会は、どこに出かけてもぼくの心の土台なのです。

▼なぜ教会は土台なのか

 なぜ教会は心の拠り所であり、土台であり、また安心して休むことができる場所なのでしょうか。
 それは、この教会という場所が、世の中のほとんどの場所と違って、競争や利益の奪い合いや、腹の探り合いや、足の引っ張り合いなどとは関係のない、別の論理が支配している場所だからではないかと思います。
 教会というのは自分の損得勘定とは関係のないところで人が集まっているところです。だから、教会に来ると安らかになれるのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
 教会に来て、特段、金銭的にも物質的にも得をする人などいません。その一方で、金銭的にも物質的にも自分を犠牲にすることが強制的に求められているわけでもありませんし、奉仕についても、自分にできることできる範囲ですればよいのであり、また何も奉仕できないという人も、そこにいるだけで結構ですよ、ということになっているはずです。
 みんな自分の献げる献げ物については、自分の良心で納得できるようにしていればよいのであり、また、無理のない範囲で、自分も自分以外の人も居心地よくもてなし合うような配慮をしあう、それが教会という場所であろうと思います。
 なぜそんな場所を作ることが可能なのかというと、それは、ひとりひとりが自分一人のために生きているのではないからではないでしょうか。

▼生きているのはわたしではない

 今日読んだ聖書の箇所が、ちょっと不思議な言葉が書いてあります。
 「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)
 「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きている」なんて読むと、何だか自分の中に何かが乗り移って、乗っ取られてしまうような感じに読めるかもしれません。
 でも、ここでこの言葉を書いた人が言いたいのは、
「もう私は自分のために生きるのはやめようと思っているんですよ」ということなんですね。
 さらにこう書いてありますね。「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。
 「わたしが今生きているのは、わたしを愛してくれて、わたしのために身を献げてくれた方を信じる気持ちが、その生きる力になっているんですよ」ということです。
 自分を投げ打ってわたしを愛してくれた人がいる。その愛を伝えたいと思った人がいる。そんなことをしても何の得にもならないはずなのに、おまえが大事だよ、おまえを求めているよ、おまえを愛しているよと伝えようとした人がいる。
 この損得勘定だらけの油断のならない世の中で、こんな裏表のない、すっぴんの愛がそうそう見つかりますか? 
 教会にはこの「すっぴんの愛」があります。気取ってもいないし、飾ってもいない、特別上品でもないけれども、かといって無作法でもない、ただ、「あなたがここにいてくれて嬉しいよ」という思いがあるんです。

▼すっぴんの愛

 この世界においては、あなたは、ひょっとしたら誰かの道具として利用されているだけの存在かもしれないし、何かの歯車でしかない存在かもしれない。でも、教会では違います。教会ではあなたは、愛された者、大切な人です。
 かといって、王様やお姫様のようにチヤホヤしてもらえるというわけではありません。特別扱いはないのです。
 あなたがここにいていいのと同じように、他の人もみなここにいていい、みんなでお互いを迎え合う、受け入れあって一緒に生きるのが教会です。そういうことができて、初めてお互いさまの居心地の良い場所になるのでしょうね。そうして、そうすれば、教会は心休まる場所となり、体も休めることができる場所になり、そして生きる力を互いに分け合う場所になるでしょう。
 その生きる力になるのは、自分の意欲ややる気、気合ではなく、自分を愛されている、包まれている、守られているという安心と喜びです。
 自分は愛されている。その愛を、今度は自分の原動力にしてみよう。自分のためではなく、誰かのために生きてみよう。
 この、自分の利益のことしか考えていない人々があふれ返り、そんな人々が支配している世の中で、あえて逆らって愛のために生きてみようじゃないか。
 また、愛のためじゃなかったら、生きていて何の意味がありますか?
 愛のために、生きてみましょう。




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本文内写真は、鶴川教会説教壇より。

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