クリスマスの香り

2014年12月28日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 歳末礼拝 説き明かし

30分間
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ルカによる福音書2章1−7節 (新共同訳)
 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。





ライブ録画:聖書と説き明かし(30分間)+分かち合い(25分間)=55分間

 
▼今こそがクリスマス

 みなさんクリスマスおめでとうございます。
 街中の百貨店やショッピングモールなどでは、12月24日のクリスマス・イヴの夜を過ぎると、もう25日からお正月商品が並んで「トンテンシャン〜♫」と箏の音が聞こえてきたりするわけで、「はい、クリスマスはもう終わり」というムードになってしまうわけですが、私のキリスト教では、24日の夜までが待降節(アドヴェント)といって、キリストの誕生を待ち望む日、25日の朝からが降誕節(クリスマス)といってキリストの誕生を祝い喜ぶ日なんですね。そして、このクリスマスをもって新年の幕開けを祝う時を持つわけですので、本日クリスマスについての説き明かしをしても何の問題もないのではないか……というのはちょっと言い訳めいておりますが、先週まで体調を崩していて、先週予定していた説き明かしのタイトルをそのまま今週に持ち越しても、何の問題も私が感じていなかったのは、いまもクリスマスの真っ最中、私たちプロテスタント教会においては、1月6日の公現日まではクリスマス:降誕節ということですので、いくら世間が門松としめ飾りを掲げておりましても、私たちは1月6日までクリスマスツリーを飾っているというのが、私たちの流儀であるからであります。

▼クリスマスの匂い

 それで、「クリスマスの香り」というタイトルを今日の説き明かしに当てておりますけれども、最初「クリスマスの匂い」という言葉と非常に迷ったんですね。
 でも、まあ教会の看板にも、インターネットにも公開するし、人様に見せる言葉としては「匂い」よりも「香り」のほうがいいかな、なんて柄にもない配慮をしてしまいまして、それで「クリスマスの香り」となりました。しかし元々は「クリスマスの匂い」という言葉にしようかなと思っていた内容です。
 といいますのも、クリスマスのイエスのお誕生というのは、いい匂いの話ではない、ということなんですね。「香る」と言うよりは、どちらかというと「匂う」。はっきり言って「臭い」という状況だったわけです。
 臨月のマリアとそれに付き添うヨセフの夫婦がベツレヘムの街に来て、今夜泊まる宿がない。しかし、もうマリアの陣痛が徐々に始まっている。そういう切羽詰まった状況で、マリアは飼い葉桶に産み落とした赤ん坊を寝かせるしかなかった。
 宿屋に泊まる場所がない。そこで飼い葉桶:家畜の餌の藁を置いておくような桶の中に赤ん坊を寝かせたということで、その後、これは宿屋の裏の家畜小屋のことではないかとか、当時のベツレヘムは洞窟で家畜を飼っていたから、洞窟の中ではないかとか、さまざまに想像されて、馬小屋だったり洞窟だったりする様子を人形で表現したもの(クリッペと言いますけれども)があちこちの教会などで飾られていたりいます。

▼家畜小屋でのお産

 家畜小屋、あるいは家畜を飼う洞窟でありますから、もし冬場で多少はマシだったとしても、やはり臭うわけですね。動物そのものの体臭もさることながら、動物は立ったままウンチもおしっこもしますから、結構家畜を飼っている場所は臭うわけです。
 私もある農業高校の早朝の牛小屋の作業を体験させてもらったことがありますが、最初に入った時は「うっ」と思いましたね。で、ボトボト落ちている牛のウンチをハケでドボドボっと流水が通っている溝に落とし込んで掃除したり、牛のお尻や体をホースで水をかけて洗ってあげたりするんですね。牛のお尻をウンチを洗った水が跳ね返って顔にかかってきたりして、「うわーっ!」と思うわけですが、それをいちいちわーわー言っていては仕事にならないわけです。
 そういうわけですから、私が家畜小屋のような場所で、家畜たちが食い残した藁をかき集めて、ちょっと暖をとれるような場所をなんとか隅っこのほうに作って、そこで妊婦がお産をするというような情景というのは、ちょっと想像を絶するなという気がするのですね。
 確かに牛や馬も家畜小屋でお産をします。世話をしている職員が何人もかかって手伝って、うんしょ、こらしょとお産の作業をします。それでも、母親も赤ちゃんも共に命を落としかねない大変な作業です。
 その家畜小屋で、人間の母親が、医療器具も消毒薬もなく、医者も看護師も助産師もいない、厩舎の職員さえもいない状態で、しかも、今以上に女性のお産というものを、おそらくよくわかっていない男性であるヨセフがいるだけの状況でお産をしたわけです。

▼「自然」分娩?

 病院ではない、自然の状態で子どもを産みたいと望んで、それを実践した人のビデオの記録をYouTubeで、そのお産の一部始終を見たことがあります。父親は何をすることもできず、おろおろ周りを歩き回っているだけです。(歩き回っている親父が写っているということは、ビデオを撮っているのは別人なわけで、そういう意味でもこのお母さんはなかなか度胸のある人だと思いますが、とにかく本当の自然の分娩というものをちゃんと記録したいという使命感にあふれていた方だったんですね)。それで、このお母さんが唸り声をあげながら、うずくまったり、仰向けになったり、立ち上がって歩いたり座ったり、いろんな姿勢をとりながら出産の瞬間を待っているのを見ました。
 きれいな川沿いだったので、水は豊富にありました、ですからそれだけでも見ている方は、なんとなく安心感がありました。家畜小屋でそのまま生むよりは清潔だよなーと思いながら見ました。そして、長い陣痛のあと、出てきた真っ赤な、しかし身体中に白い膜や脂肪をつけた赤ん坊を、お母さんが自分の両手で取り上げた瞬間を見た時は、何か言葉に表せない衝撃を感じました。こうやってみんな生まれてきたのか……と驚きました。
 赤ん坊という存在は、本当に生まれてきた瞬間は、可愛いというより、ちょっとグロテスクな感じです。お母さんのお腹の下から、大きなもう一つの臓器が出てきたような感じです。その臓器の一部のようなかたまりを水で拭いて、そして皮膚が乾いて、そしてだんだんと人間の子どものような様子になってきます。

▼家畜のように産み落とされた

 清潔な川沿いでのお産を見ただけでも結構衝撃を受けた私なので、家畜小屋の糞尿の匂いにまみれ、水といれば家畜が飲むための水とか、糞尿を洗い流すための水しかないようなところで、よく産んだなあと、この物語のすごさを思うのですね。
 とにもかくにも赤ん坊を産み落としたマリアは、藁の中に寝そべって休むしかなかった。マリアが自分でやったのか、ヨセフがやってくれたのかはわかりませんが、生まれた赤ん坊を布に包んで、飼い葉桶に載せたんですね。
 この飼い葉桶というのが、よくあるクリッペで表現されているような、木工品や、ツルを編んで作ったバスケットのような桶ではなく、たんなる浅い石臼のようなものであったのであろうと、最近の学説では言われています。
 そりゃそうですよね。木を組んで作ったり、バスケットのような飼い葉桶でしたら、洗うのが大変ですからね。水をかけてジャッジャッと磨けるようになっているのが理にかなっています。そこで、この石の上に寝かせられた幼子キリストと、墓穴の石のベッドに寝かせられた十字架で亡くなったキリストが文学上つながってくるのですが、今日はそのお話は割愛したいと思います。
 とにかく、下手をすれば失敗して、母子ともに命の危険にさらされながら、そんなに清潔でも暖かくもないところで、まるで家畜の子のように産み落とされたのがイエスだったわけです。

▼羊飼いたちの匂い

 さて、ルカによる福音書では、さらに臭い人たちがこの臭い場所にやってきたという物語を描いています。
 8節以降の羊飼いたちの物語です。
 羊飼いは野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていました。
 日本でも、生臭い動物の世話をする人たちは、一般社会の人間とは違う人たちとして差別されていましたが、この点では古代のユダヤ社会でも似たところがありまして、羊飼いや漁師といった、なまものを扱う商売の人間は、動物の命をやりとりしていると共に、近づくと独特の匂いがするので、「臭い人間」として、一般社会の人びとからは一段低く、見下げられておりました。
 羊飼いの場合、なまものを扱う臭さに加えて、野宿生活を続けているということで、本人たちも衛生的でないという目で見られていました。また、これも日本の野宿生活者に倒して向けられる視線と似ていますが、住所不定で貧しいので、一般人を襲って略奪するんじゃないか、食料を求めて畑を荒らしにくるんじゃないかという恐怖感でも見られていたんですね。ですから差別と恐怖の対象だった。
 しかし、ルカは、そういう人たちのところに、天使の大群がやってきて、「あなたがたのために救い主はお生まれになったんだ。天には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」という賛美と祝福を与えたわけです。
 神の使いたちは、世の中で一番貧しくて、一番見下げ果てられていて、体が垢と動物の臭いでプンプン臭っている人たちに所にまずやってきて、救いを知らせにきたということです。

▼キリストの香り

 そして、プンプン匂う人たちが、プンプン匂う家畜小屋に、「どれどれ我々を救ってくれる救い主ってのはどんな人なんだ?」とやってきたわけです。
 しかし、プンプンなんて言っても、この羊飼いさんたちにとっては別に特別ではないというか、普通の自分たちの体臭でありまして、同じような匂いのするところにやってきたというだけでのことです。
 でも、それだけに、「自分たちのような一番の汚れ仕事をやっているような人間のところに救い主が来てくれたんだなあ」と、しみじみ嬉しかったんじゃないですかねえ。普段は「おまえらみたいなやつが……」と見下げ果てられている人たちは、「ああ、地位のある人の宮殿や、立派なお金持ちの屋敷ではなく、また一般の人たちでもなく、我々のような人間のところに救いが最初に来たのか……」と、この出来事に感動したのではないかと思います。
 「キリストの香り」とは「家畜小屋の糞尿の匂い」、「羊飼いの垢だらけの体臭の匂い」です。
 ここにクリスマスのメッセージのひとつがあります。
 救いは、何か立派な善いことをした人、賞賛を受けるようなことをした人、また民の代表者として天からの救いを受け取るような役割を果たしそうな地位のある人のところでもなく、まずは汗だらけになって働いている人、体を汚したり、いろんな匂いをつけながら、疲れてもなかなか休めず、怪我をすることもあり、いろんな悩みに頭をかかえながら伏してしまうこともあり、そんな様々な重荷をかかえた人生を生きている人のところにまずやってくる。それをこの物語は教えてくれます。
 そして、救い主はその生活の匂いに満ちた中で、様々な動物……まあ多くは宿屋に泊まっている旅人の乗り物となるロバやラクダが多かったのではないかと思いますが……その動物たちの赤ん坊でも、生まれてから数時間で自分で立ち上がることができるのに、その中で、生まれて何ヶ月も1年もたっても立ち上がることさえできないような、動物の中でも最も弱い赤ん坊として生まれてきたのが、私たちの救い主なんだということを、深く心のに覚えたいと思います。
 もっとも弱い立場の、もっとも汚れた人々の間に、もっとも弱い姿で神さまがこの世に姿を現わすということです。神はそういう姿でご自分をこの世に投げ出したということです。
 神がこの世にこのように生まれた、救いが私たちのもとに生まれたというのは、神が「私もあなたがたと一緒なんだよ。いや、むしろあなたがたの中でも最も弱い者なんだよ」という思いで、ご自身をこの世に投げ出して、私たちと共に寄り添って生きてくださるということです。
 神が私たちと共にいつもいてくださる。しかも、最も弱い時にそばにいてくださる。そのために神は私たちの間に我が身を投げ出してくださった。それがクリスマスの意義であります。
 説き明かしはここまでとさせていただきます。




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本文内写真は、とわの森三愛高校・大中隆先生撮影のお写真より。

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