イエスはパンを口に押し込む

2015年2月15日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝メッセージ

32分間
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ヨハネによる福音書13章21−26節 (新共同訳)
 イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。
 イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。
 その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。





ライブ録画:聖書と説き明かし(32分間)+分かち合い(21分間)=53分間

 
▼『サン・オブ・ゴッド』という映画

 みなさん、最近『サン・オブ・ゴッド(Son of God)』(直訳すると「神の子」)という映画が1月上旬から封切られていたのをご存知でしたか? 調べたところ、徳島県内どころか、四国全域の映画館で上映されていませんね。非常に残念です。
 もともと一昨年にアメリカの『ヒストリー・チャンネル』というシリーズで放送されていた『ザ・バイブル』という番組の中の、イエスの生涯の部分を編集してできた映画なんだそうですね。しかし、もともとテレビ作品だったといっても、非常に映像の美しい見応えのある映画でした。
 もちろん、イエスの受難の場面は、鞭打たれたり、十字架に釘で打ちつけられたりするんですけれども、それにしても、11年前に公開された『パッション(The Passion of the Christ)』のドロドロの血なまぐささに比べたら、はるかにソフトな描き方だったので、見る人もそんなにショックを受けなくて済むと思います。
 四国では上映されていないということで、ご覧になった方はおられないのではないかと思うのですが、いつかDVDかブルーレイが出たら、みんなで見てもいいかなあと思ったりします。
 で、今日はこの映画を観た私の印象を中心にお話をしますので、はっきり言ってネタバレになってしまうのですけれども、これは去年でしたか、『ノア(Noah)』という作品が公開された時も、ほとんどあの映画の見どころを見逃しておられたクリスチャンの方々が多かったので、見る前に予備知識として知っておいていただきたいなあと思うこともたくさんあるということに気づいたのですね。
 同じように、この『サン・オブ・ゴッド』も、DVDなどで見る前に、予備知識として持っておいたほうがよいことがあると思ったんですね。ですから、今日はネタバレなど気にせずお話をしたいと思います。

▼聖書のとおりの映画

 この映画を観たクリスチャンの満足度は97%だという情報があります。つまり、聖書の物語を素直に忠実に描いている。「うん、これでいい。これこそ聖書物語だ」というわけです。ですから、私もFacebookなどで、いろんなクリスチャンの方の友達の反応を見ていましたけれども、みんな大したことは書いてないんですね。
 『ノア』の時はひどかったです。「全然聖書と違う。全然面白くなかった。戦いのシーンが多すぎて疲れた」という反応で、非難轟々でした。ところが、今年の『サン・オブ・ゴッド』は、「こんなもんでしょう」というおとなしい反応なんですね。
 で、私も観てみました。
 すると、確かに一見、聖書の福音書に書かれている、というより絵本のようなイエス様物語がそのまま実写版になったような、きれいな映画なんです。
 イエスの生涯を実写版の映画にする時、一番難しい課題になるのは奇跡の場面だと思うんですね。でもこの映画は、実に素直に、イエスが病気で動けない人を助け起こしたり、5枚のパンと2匹の魚しかカゴに入っていないのを、空に向かって掲げて、下ろしたらカゴがパンと魚でいっぱいになっていましたし、嵐のガリラヤ湖の水の上に立っていましたし、死んだラザロを生き返らせましたし、ちゃんと復活もしました。手に穴が開いたまま、疑うトマスを抱きしめてました。
 「うん、確かに聖書に書いてあるとおりだ」ということになるわけです。
 ところが、どんな映画でも文学作品でもなんでもそうですが、元にある原作(この場合は聖書)を別の作品に作り変えると、必ず作者の解釈というか、考え方がやはり混じってきます。その部分を注意深く観察すると、やはりその映画の独特のイエスに対する考え方が浮かび上がってきます。

▼無垢な青年イエス

 まず、この映画でのイエスは、いつもニコニコ笑っている心の純粋な優しいイエス様です。いつも人の良さそうな微笑みを浮かべて、ユダヤの荒れ野をスタスタ歩いて行く、その無垢で気楽そうな姿を見ているだけで、なんだかホッとするようないい感じの青年です。
 ところがそのニコニコしている顔が、ギョッとしたような驚きの表情に変わる場面があるんですね。それは、イエスの奇跡に喜んだユダヤの人々が、イエスに向かって「メシア!」「メシア!」と叫び始める時です。その歓声を聞いた瞬間に、イエスはギョッとした顔をして、うろたえ始めるんですね。まるで、「ぼくはメシアなんかじゃないよ」と言いたげなんです。
 そこから、イエスが弟子たちに「君たちは私を何者だと思うか?」と尋ねるというシーンにつながってゆきます。
 ですから、イエスは自分が「メシア」つまり「救い主」だと思っていなかったということになります。これは本当ならもっと神学的に論議になってもいいところですよね。
 この映画の中では、「メシア」というのは、あくまでユダヤ教における「メシア」で、ローマ帝国の占領を撃退して、ユダヤ人国家を実現するための指導者のことだとしていて、それと「神の子」という言葉を注意深く別々に分けて使っていました。
 つまり、イエスは確かに「神の子」だけど、ユダヤ人が言っている意味での「メシア」ではないんだよ、ということを割とはっきりさせているんですね。

▼聖餐のパンを口に押し込む

 それから、なんと言っても注目すべきなのは、「主の晩餐」の場面ですね。聖餐式のモデルになったと言われている、イエスが逮捕される夜の前に、弟子たちと共にパンとぶどう酒を食べて、聖餐の言葉を制定したという話ですね。
 これはこの映画の変なところなんですけど、この映画、一応年老いたヨハネの回想という設定で描かれています。つまり、ヨハネによる福音書が元になったイエス物語である、と説明されています。
 しかし実は、ヨハネによる福音書には「主の晩餐」の場面は無いんですね。聖餐の言葉の制定の場面もありません。
 ですから、この映画がヨハネによる福音書に忠実に作られた、というと正確にはウソになるんですけれども、さすがに『ザ・バイブル』というシリーズですし、最後の晩餐の場面がありませんというわけにはいかなかったんですかね。矛盾ですけれども最後の晩餐、すなわち「主の晩餐」の場面があります。
 ここで、イエスは自分を裏切る者がいるということをみんなに話すということは皆さんご存知だと思います。
 ところがですね、この映画ではイエスは、そのことを、食事の場面になってから初めて、隣に座っているユダが自分を引き渡すんだ、と直感的に知る、という描き方になっています。
 その時も、安らかで和やかな食事の時のはずなのに、イエスの顔がギョッと変わるんです。「初めて気づいた!」という驚きです。
 しかし、イエスは弟子たちのみんなにパンを配り、ぶどう酒の杯を回しています。ユダが自分を敵に引き渡すとわかったからと言って、パンを与えないということはありません。
 イエスは自分の手で直接、パンをユダの口に入れようとします。
 ユダは自分が既にイエスを裏切るということを知られているわけですから、なかなか口を開けようとしません。しかし、イエスはそのなかなか開かないユダの口にパンを押し込んで、入れるんです。
 私はこの場面を見て、聖餐論における革命的な表現を見た思いがしました。
 私たちの教団では、「誰が聖餐に与るべきか」とか、「聖餐に与ることができないはずの者に聖餐のパンを与えている」とか、バカバカしい主張をしている人々がたくさんいますし、それに対して、「聖餐は誰に対しても開かれている。誰が与ってもいいんだ」と主張し、それを実践している人々もそれなりにたくさんいるわけですが、この映画のイエスは、「誰でも受けて良い」どころではなくて、罪人の口に聖餐のパンを「押し込む」んですね。
 ユダのように、これからイエスを死に追いやるとわかっている裏切り者に対しても、イエスは自分の食卓のパンを、その口に押し込むのです。そして「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言います。
 イエスを信じる者、信仰を告白した者が聖餐を受けることができます、どころの話ではありません。これからイエスを裏切るという人間の口に、イエスは聖餐を押し込む。これまでの罪だけではなく、これから犯そうとする罪に関しても、既にイエスは赦してしまっているわけです。すごい場面だなと思いましたが、多くのクリスチャンの観客の方はそこまでは気にしてなかったんでしょうかね。

▼あまりにも人間的なイエス

 さて、ユダが食事の場から走り去った後、イエスも自分が殺されるという運命を知って、悲しみのあまり食事の場から立ち去って、夜の街をさまよい始めます。
 それをペトロが追いかけます。そして、イエスを立ち止まらせ、「私はあなたについて行きます。あなたのためなら命を捨てます」と言います。それを聞いてイエスは、「ああ、友よ」と言わんばかりに喜びの表情でペトロを抱きしめるのです。
 ところが、ペトロを抱きしめた瞬間、またギョッとした顔をして驚愕します。その瞬間、ペトロが自分のことを3度知らないと言って逃げるだろうということを知るのです。
 逆に言うと、それまで彼はペトロの裏切りも知らなかった……と。
 何も知らなかった、純粋で無垢で人を愛することしか知らなかった青年イエスは、自分で予想さえもしていなかった運命に呑み込まれてゆく……というのが、この映画のイエス像なのですね。
 全てが最初からわかっていて、天から降りてきた救い主、ではなく、生まれてみたら自分が神の子だった。そして、地上で予想もしなかったひどい目に遭うという、実に気の毒な人として描かれています。
 そして、イエスはゲツセマネの園で逮捕され、大祭司と最高法院の裁判を受け、ピラトの尋問を受け、バラバの代わりに死刑の判決を受け、十字架を背負ってゴルゴタの丘を登らされ、十字架に打ち付けられて無残な死を遂げます。
 十字架についた時、イエスは、これもヨハネによる福音書にはない言葉なのですが、「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのですか」と叫びます。これ、本当はマルコとマタイにしか書かれていない言葉です。
 次に、イエスの両側で同じように十字架につけられていた犯罪人たちが、それぞれ「お前が神の子だったら自分と俺たちを救ってみろ」、「俺たちが罰を受けるのは当然だ」と言い合ったり、「あなたの御国に入るときには私を思い出してください」という犯罪人の言葉に、イエスが「いま、あなたはわたしと共に楽園にいる」と答えるという場面が出てきます。これは実は、ルカにしか書かれていません。
 そして「成し遂げられた」と言ってイエスが絶命する。これはヨハネにしか書かれていません。
 ということで、これもヨハネだけでは観客が満足しないので、総花的に全ての福音書から十字架上のイエスの言葉をまとめて作ったのでしょうけれど、これまでのイエスの描き方とつなげて観ると、まるで、イエスは、十字架にかけられて死ぬまでの時間の間に、やっと自分がこうして死んでゆく意味を悟った……という風に見えるのですね。
 ですから、本当に可哀想です。自分で神の子として生まれようとして生まれたのではなくて、生まれてみたら神の子だったというだけなのに、気の毒な生涯です。犠牲者と言ってもよいと感じました。

▼聖餐と復活

 最後に、イエスの復活の場面が描かれます。これも、お墓が空っぽだったというのは、定番のシーンです。あえて映画として新しい部分はといえば、最初に空の墓を発見したのはマグダラのマリアであり、彼女がイエスと直接言葉を交わしているということくらいでしょうか。しかし、これは、マグダラのマリアの地位を高く評価しているヨハネ福音書に従えば普通のことのように思われます。
 私が面白いと思ったのはその次の場面ですね。
 マグダラのマリアに呼ばれて、ペトロとヨハネが空の墓を見に来ます。彼らは、墓の中に誰もいないのを確認しただけで、イエスには直接会っていません。
 彼らは不思議に思いながらも納得せずに他の弟子たちのもとに帰ります。他の男性の弟子たちは、マグダラのマリアが「イエスは復活したのよ」という言葉や、ペトロたちが「墓が空っぽになっていた」と言うのを信じません。
 ところが、次の瞬間、ペトロが「ハッ」と気づいたように、みんなの前にあるパンを手にとって、それを破って、他の弟子たちに分け始めるんですね。そして杯にぶどう酒を満たして、それもみんなで分けようとします。つまり「主の晩餐」を再現しようとするわけです。
 そんなことは、どの福音書にも書いていません。この映画の製作者の独創的なシーンです。
 「主の晩餐」つまり聖餐を再現しようとした時に、そのペトロの背後からイエスがニコニコと笑顔で入ってきます。聖餐を行う時、そこに復活のイエスが現れるのだ、という主張をこの映画は主張しているんですね。
 私たちは、聖餐のパンをイエスの体であるとしています。そしてぶどう液をイエスの血であるとしています。そうして、イエスの体と血を私たち自身の体の中に迎え入れる、そこにイエスの復活が起こっている。イエスは私たちの体の中に入ってくださる。聖餐や復活というのはそういう意味なんだよということを映画で伝えようとしてくれているんですね。
 これも、よくそういうことをしっかりを描いてくれてよかったなあと思いました。
 しかも、繰り返しになりますが、この聖餐においてよみがえるイエスは、たとえ悪を犯した人でも、これから悪を犯そうという人でも迎え入れるどころか、「どうぞ私の愛を受け入れなさい」と口に押し込まれる。それほどにイエスが積極的に相手を選ばず迫ってきている。そういうものなんだということに思い至らせてくれたわけです。
 そういう意味で、多くのクリスチャンがこの映画の聖餐の描き方が、いかに革命的かということを見落としてしまっているようですが、私はいよいよ感謝と喜びをもって、ぐいぐいとイエスが押し込んでくる聖餐のパンを自らの口に受け入れたいと思わされたわけであります。
 本日の説き明かしは以上です。




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