イエスと共に今を生きよう

2015年4月19日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝メッセージ

25分間
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マタイによる福音書5章13−16節 (新共同訳)
 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」





ライブ録画:聖書と説き明かし(25分間)+分かち合い(43分間)=68分間

 
▼地の塩

 春というのは、卒業や入学・入社などの節目の季節で、ぼくのような学校で働いている者にとっては、特に感慨深い季節です。
 また色々な草花や木が花を咲かせたり、青葉を一斉に芽吹かせたりして、美しい変化を次々に見せてくれる季節なので、毎日が目に楽しい日々でもあります。
 今日お読みしました、「地の塩、世の光」の聖句は、毎年ぼくが勤めている学校の高校生の卒業式で読まれる聖句です。これから、各方面に出かけて行く卒業生たちに対して、「地の塩、世の光」として生きていってくれよと願いを込めて聖書を朗読してきました。
 しかし、毎年読んでいるうちに、どうも違和感を感じるようになったというか、何気なく読んでいても、なんとなく語感が引っかかると言いますか……特に前半の「地の塩」の部分の言葉が、どうもはなむけの言葉としてはふさわしくないような気がしてきたんですね。読んでいて、読んでいる本人であるこちらもあまり喜ばしい気分にならないんですね。
 ここの聖書の箇所は、後半の「世の光」に関する言葉とワンセットのような読み方をすることが多いので、つい人に対する励ましの言葉なんだと思い込んでしまいがちなんですね。「あなたがたは世の光である。その光を世の中に輝かしなさいよ」と言うのは、わかりやすいです。
 ところが、試しに「地の塩」の部分だけ読むと、こんな風になります。
 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」
 やっぱり、あまり前向きな言葉ではありませんよね。要するに、「塩に塩気がなくなれば捨てられるだけだ」ということを言っているだけです。役に立たない奴は捨てられるだけなんだよ、ということですよね。

▼イエスらしい言葉

 それなのに、長いこと私たちは、「地の塩のような人間になりましょう」と言われて教えられてきました。
 それは、さっきも申し上げましたように、「世の光として輝きなさい」という言葉とワンセットにされてごまかされてしまうということと、やはり「塩」というものが前向きな意味で使われている箇所も聖書の中にはあるんですね。
 たとえば、新約聖書の372ページにある、コロサイの信徒への手紙の4章6節にこういう言葉があります。
 「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人どう答えるべきかが分かるでしょう」(コロサイ4.6)
 これだと、わかりやすいですね。クリスチャンたるもの、この世ではちゃんと証になるように、常に知恵とウィットのある賢い言葉で話をしなさいよ、と言っているわけですね。なるほど、これなら、かなりもっともらしいです。実際に一人一人のクリスチャンがそんなに賢い、聞いていて快い言葉ばかりをうまく使えるかどうかは別にしておいて、いかにもといったおすすめですよね。
 でも、それに対して、「その塩の塩気がなくなったら、外に捨てられて人に踏みつけられるだけだ」というネガティブというか、どこか自嘲気味というか、自虐的というか皮肉な響きのする言葉。こういう皮肉を口にしそうな聖書の中の人物といえば誰だろうかというと、もう一人しか思い浮かびませんね。
 そうです。イエスですね。
 「右の頬を叩かれたら、左を出してやれ」とか、「ローマ兵が1ミリオン荷物を運べと言われたら、2ミリオン行ってやれ」とか、そういう自虐的とも受け取れるような皮肉。
 虐待される庶民の怒りを吐き捨てるようにぶつけるイエスらしい言葉ですよね。「塩のついた人間として生きろなんて言ってるけれども、塩味が無くなったら捨てられるだけだよ」。
 これはたとえば、「持っている奴はいよいよ持つようになって(つまり肥え太って)、持っていない奴はいよいよ奪われていくんだよ」というような言葉と同じ貧しい庶民の悲しさを表した言葉ですよ。
 「塩味を失ったら、捨てられる」というのは、「一生懸命雇い主の気に入られようとしてあれこれ工夫して働いてはみるけれど、雇い主から気に入らないと思われたら、さっさと首になるだけだ。あとは誰も助けちゃくれない。情けないもんだよ」という厳しい庶民の現実を、「地の塩」というたとえで表したわけです。

▼塩の効用

 イエスが言った皮肉の中でも「塩」そのものは良いものであるという捉え方はなされています。
 そもそもはイエス以前からヘブライ語聖書:ユダヤ人の聖書の世界では塩というのは、良い意味で捉えられる場合もあれば、悪い意味で捉えられる場合の両方があります。
 まあそれにしても、どちらかというと、塩は大切なもの、有用なものという捉え方の方が主流ではあります。
 ヨブ記の中にも「塩がついていないのに、味のないものが食べられようか」 という言葉があるくらいで、塩は最低限必要な調味料、他に何も味をつけるものがない状態でも、とりあえず塩さえあれば食べられるだろうというわけですよね。塩もないという状態ではあまりにも味気ない。
 それから、塩には防腐剤としての作用がありますね。ですから、この時代の人たちは、魚を食べる時というのは、よほど湖岸や海岸の地方でないかぎり、塩漬けの魚を食べます。塩漬けにしておけば、遠方にも運ぶことができますから貿易の商品にもなります。
 また、赤ちゃんをお風呂に入れる時には薄い塩水を肌に擦り込んだり、殺菌作用も期待されました。
 そういうわけで、塩には防腐作用、殺菌作用があるということの延長線上に、霊的にも清める効果があると信じられて、神殿で捧げられる献げ物の肉にも塩をかけるという風習があったようです。
 そういうわけで、塩というのはユダヤにおいては、食事に欠かせない生活の必需品であり、衛生的にも宗教的にも清めの意味を持つ大切なものでありました。そしてそれが、ユダヤ地方には塩の海、別名死海という湖があり、。その周辺地区に岩塩としてたくさん採れていたんですね。
 しかし、その反面、死海が文字通り「死の海」(ヘブライ語ではヤム・ハッメラフ〔塩の海〕)と呼ばれていますように、この湖は塩分が海水の6倍でとても生物が住めない世界です。
 その周辺の岩塩の多い世界も、とても植物が育たない。死の世界です。よくユダの荒野、荒れ野とかいいますが、ただ単に厳しい自然条件、寒暖差の激しさや乾燥地帯であるということだけでなく、それに加えてこの土の中の塩分、すなわ地の塩、岩塩があるから、荒れ野になっているわけですね。
 旧約聖書(士師記9章)には、戦争に勝った軍隊が負けた国の土地に塩を撒いて、わざと草も木も生えないようにした、つまり二度と農耕ができないようにしたという記事もあります。
 そういうことで、塩には肯定的な意味と否定的な意味があります。

▼イエスの見つめていたもの

 そういう背景を考えた上で、イエスがどちらの意味でこの「地の塩」という言葉を使ったかというと。それは、やはり「塩は良いものだ」、「塩味を持った人間になりましょう」という意味を前提にしているんでしょうね。たぶん、イエスの時代より前からずっと、ユダヤの人々の間で「塩の効いた人間になろう」、「塩味を持ちなさい」という言い方がことわざや子どもへの教育の中で言い習わされてきたんでしょうね。
 そして、最初の方で引用したコロサイの信徒への手紙を書いた著者も、同じような意味で「塩味のついた快い言葉を使う、良い人になりなさいよ」と、そういう意味では昔からユダヤ人の間で言い習わされていた徳目を繰り返したわけです。
 そして、現代のクリスチャンの多くも、「地の塩になろう」と呼びかけるのは、そういう塩味の効いた人間としてこの世で証になる生き方をしなさいという意味だと思っているでしょう。
 実は、私もそういう結論になることを予想してこの説き明かしを作り始めたわけです。
 ところが、こういうのを「聖書の言葉に躓く」と言うんですかね?
 イエスは全然別の現実を見つめていたんですね。
 みんなが「世の中で気に入られる人になろう、人から評価される人間になろう」と言っている時に、「そういう他人の評価によっていい人だと思われたところで、人の気持ちはうつろいやすいものだし、人の気持ちが変わってしまったら、あっという間に見捨てられてしまうんだよ。人が自分のことをいい味のするやつだと思ってくれることを頼りにしていると、逆にその人の関心が他に移ったり、その人が評価してくれなかったら自分がダメになったような気がしてしまう。やめとけよ、そんな生き方は、と。
 そして、実際に自分と同じような貧しい労働者が雇い主の気まぐれでクビにされて失職して困り果てている状況を何度も見て、雇い主たちへの怒りと、何の身分の保証もない、そして生活の不安定な庶民の苦しさを見つめて共に寄り添おうとしていたのでしょう。

▼イエスによって今を生かされる

 というわけで、今日は「イエスと共に今を生きる」というタイトルでお話をしていましたが、私自身、イエスの「地の塩」を巡る言葉によって考えを改められざるを得ませんでした。
 「イエスと共に今を生きる」とは、イエスがガリラヤの食うや食わずの無辜の民衆と共に食べ、癒そうとしたように、私たちも今を苦しみ悩みながら生きる人と共に、その苦悩を分かち合い、食卓に招くことなんですね。
 世の中に対して評価してもらうために、クリスチャンだからいい格好をしようとか、そんなことはさらさら気にする必要はないわけです。
むしろ塩味のないような、何の取り柄もないような人のことをイエスは見つめていました。人から捨てられて何の取り柄もないと思われるような人こそが最も神に愛され、神の国の食卓に招かれる。それがイエスの説いた、そして実践したことでした。
 ですから私たちも、誰からも評価されないような、何の取り柄もないように思われているような人こそが、実はいちばん神様が愛されていて、実はそういう人がイエスは大好きだった。そういう人と共にイエスはおられるということを証すればいいわけです。
 もちろん、自分自身が取るに足らない人間だなとがっかりするとき、そういう私こそイエスは見つめてくださっている。ダメな私だからこそ神さまは愛してくれているらしい。不思議な、もの好きな神さまですが、神さまってそんな方らしい。イエスってそんな人らしい。そう思って安心しましょう。
 そうやって、毎日をイエスに支えられて生きて行きたいものですね。そうやって生かされて生きることができるのを感謝したいと思います。





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