神は父でなくてはいけないか

2015年5月3日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝メッセージ

30分間
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マルコによる福音書10章29−30節 (新共同訳)
 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」





ライブ録画:聖書と説き明かし(30分間)+分かち合い(45分間)=75分間

 
▼母の日

 今日は母の日にちなんだお話をしようかなと思っていました。本来の母の日は5月の第2週日曜日なので、来週の日曜日なんですね。でも、来週は私は来れないので、強引に今日、母の日の説き明かしをしようかなと思ったわけです。

▼父なる神への抵抗

 よく「父なる神」という表現に抵抗を感じる方がおられます。「天の父なる神よ」とか「天のお父様」という祈りの始まりを聞いた瞬間に、「どうして神さまが父なんですか?」、「神が男だなんて誰が決めたんですか?」と反射的に嫌悪感を持って抵抗する方もおられます。
 このような嫌悪感の背景には、おそらく父権主義、あるいは男性優位主義や権威主義に対する強い抵抗感があるのだろうと思います。
 特に男であること、父親であるというだけで自分は偉いような顔をして、威張ったり、命令や支配をしたり、命令に従わないものを罰したり、言葉の暴力や物理的な虐待をしている男性に育てられたとか、今も一緒に住んでいるとか、そのような体質の上司にパワーハラスメントを受けているとか、そういった経験を実際に持っていれば、なおさらのこと、「父なる神」と聞いただけで「なぜ神が父なのか」、「男なのか」と反射的に反感を持つ人がいても全くおかしくありません。
 たとえば、そのような考えをお持ちの方が、徳島北教会に初めて来た時に、礼拝で「主の祈り」を献げることになった時、徳島北教会の「主の祈り」でさえも「天にいます我らの父よ」となっているのを見ます。
 反射的に抵抗を感じる人は必ずいらっしゃるでしょうね。
 これはなぜなのか、笠置牧師時代にこういうことになったのだと思いますが、きっと根拠があってのことでしょうから、どういう風に説明がなされていたのか、この後の分かち合いで皆さんからお聞かせいただければありがたいなと思っています。

▼「親父」

 イエス自身は神さまのことを、「アッバ」つまり「お父ちゃん」あるいは「親父」、「パパ」という呼び方をしていたようですね。
 これは、当時の人たちの習慣の中では異例だったようですね。シナゴーグなどで、ユダヤ人が日頃よく行う祈りの中でも神に呼びかける時というのは、たとえば、「主よ、あなたは讃むべきかな。われらの神、われらの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、偉大にして力強く、また恐るべき神、いと高き神、……助け主、救い主、そして楯なる王よ。……アブラハムの楯よ……」というような呼びかけから始まるわけですね。
 ところが、イエスは非常に簡潔に「お父さん」、「親父」と呼んだわけです。これは、先ほど紹介したような、ものすごい権威や栄光の頂点にあるような王様のような神さまではなくて、本当に親しげのある「お父ちゃん」だったわけですね。
 これは当然、他のイエスのあらゆる行為においてと同じように、周囲の人々、特に男性の支配階級の人からは嫌われたはずです。事実これは非常に反抗的な態度です。大いなるいと高き王なる、そして父なる神の権威を叩き落としている、神に対する冒涜である、と怒りに燃えた人たちも少なくなかったでしょうね。
 (だいたい、21世紀の今になっても、一介の高校教師が書いた本が「あまりにも深みがなさすぎる」と言われて出版停止に追い込まれそうになったりするくらいですから、今から2000年前のゴリゴリの保守的なユダヤ教の人たちから見たら、神を単に「親父」と呼び捨てることなど言語道断であったと思われます)。

▼誰も「父」と呼ぶな

 そして、事実イエスもただ単に神に対する親しみだけではなくて、明らかに反抗的な意図を持って、あえて神を「親父」と呼んでいた節もあるのですね。
 たとえば、マタイによる福音書の23章には、おそらくイエスが言ったであろう言葉が残されています。
 
「地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」(マタイ23.9)
 地上の誰をもあなたがたの父と呼んではならない。あなたがたの父は天の父ただおひとりだけだ、というわけです。
 地上の者を誰をも父を呼ぶな、ということは、自分の実の父親をも「父」と呼ぶなという、さらっと言っていますけれども、かなり厳しい言葉ですよね。そんなこと言ったって、実の親父は親父としか言いようがないじゃないかと、こっちだって言いたくなる。
 しかし、たとえばイエスは別の場面では、「敵を愛せ」と言う。敵が愛せたらそれはもう敵ではありません。そして身内の者も自分をも殺しに来るのが敵です。しかし、敵を愛せよとイエスは言う。
 このように、イエスは時々無茶なことを言う。これがイエスの言葉遣いです。ですから、今回のこの言葉も実にイエスらしい。
 実の親父も含めて、誰をも「父よ」などと呼ぶな、と。
 これは、最初に紹介したような、神を大いなる権威のように祭り上げて、「天にまします我らの父よ」と呼びかけるのに対して、反射的に拒否感を感じるのと同じ感性です。
 つまり、家庭の中でも当時は当たり前だった、父権主義、家父長制に対する反抗心丸出しの人間だったということです。
 加えて、当時はローマ帝国の皇帝崇拝が全土に強制されていた時代でした。ローマ帝国に支配されていた国々の国民は、みんな皇帝を神、あるいは神の子であるとして拝むことを強制されていましたし、生きている時は「神の子」であり、死んだら「神」になることを望んだ皇帝もいたそうですから、たとえば現役の皇帝が「私は父なる神の子である」と言う宣言をすることもできたわけです。
 つまり、ローマ帝国においては、神は父であり、皇帝は神の子、あるいは皇帝自身が父なる神ということが声高に叫ばれていたわけです。その皇帝が世界最大の軍事力を持って各州を統治していたわけですから、父なる神の力というのは非常に暴力的だったわけです。
 これに対してユダヤ人たちは「神はおひとりである」と主張して、皇帝崇拝を拒否しました。しかし、拒否すると同時に、「私たちの神こそが本当の父なる神であり主である」と言って、ローマの皇帝崇拝に対抗しようとしたんですね。その結果、ユダヤ人の神も、大いなる権威と支配力を持つ父なる神となり、結局は民族の父であるアブラハム、イサク、ヤコブの神、そして現在も父親の権威を裏付ける神、だから家族は皆、父親の言うことは絶対に聞かなくてはならない。父親に対する反抗は神に対する反抗である……というような父権主義の根拠になっていってしまったわけです。
 イエスは、そんなローマ帝国の「父なる神」も、当時のユダヤ教の「父なる神」も、両方とも拒否しました。だから「地上の誰をも『お父様』とうやうやしく呼んで仕えるな。父権主義なんてまっぴらだ。お父さんと呼べるのは神さまだけなんだ」と、この世の体制に対する反骨精神丸出しで言ったわけです。
 そういうイエスが、弟子たちに祈りを教える時に、まず「天にいます私たちのお父さん」と呼びかけなさいと教えたとしたら、それは納得がいきます。
 「主の祈り」の中の「天にいます我らの父よ」という言葉は、イエスと同じように、地上の誰をも(権威的な意味で)「父」とは呼ばないぞ! という、この世に対する問題意識・父権主義に対する反骨精神を受け継ぐ、そして「自分も父権主義に屈しないぞ」、あるいは「自分は父権的にはならないぞ」と決意する。そういう姿勢をもって初めて意味がある呼びかけなんですね。それがあって、初めて「主の祈り」の中でも「父よ」でも、まあいいかということになるんですね。
 しかし、往々にしてほとんどの教会では、ユダヤ教の権威的で、父権主義的な「大いなる王たる父なる神よ」という呼びかけの意味に解釈が戻ってしまっているでしょうね。

▼「父」なんていらない

 ですから、やっと先ほど読んだ聖書の箇所に戻ってくるわけですが、
 「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ10.29-30)
 とありますね。
 もうお気づきの方もいらっしゃるでしょうが、福音:つまりイエスの良い知らせを実行し、告げ広めようとする人が、もしそのために家・兄弟・姉妹・母・父・子供・畑の全てを捨てても、ちゃんとイエスの神の国の交わりの中で全てが戻ってくる。それどころか、もっとたくさん与えられるようになる。ただし、「父」だけが戻ってこないんです。
 イエスにおける交わりの中では「父」はいらないんです。なぜなら、この世にはもう「父」は必要ないからです。お父さんは天のお父さんおひとりで十分。そしてこの天のお父さんは、人間を自由にしておいてくれます。何をしても罰を与えることなく、何かを強制したりすることなく、理不尽な命令をすることなく、あるがままの自分でいることを許してくださっている。これ以上のお父さんはいません。
 ですから、お父さんは天のお父さんだけで十分です。

▼母なる神

 さて、ありゃりゃ? という感じですね。母の日のお話なのに、天のお父さんの話ばかり長々と話してしまいました。どうもすみません。
 実は、イエス以前のユダヤ教の神は、先ほども言いましたように、ローマ帝国に対抗する必要から非常に「父なる神」というものを強調しましたが、実は、ユダヤ人の聖書を紐解いてみると、案外神さまを母親のように描いているところもいくつも見つかるんですね。
 たとえば、
申命記の32章18節(旧約333ページ)には「お前は自分を生み出した岩を思わず、産みの苦しみをされた神を忘れた」とあって、これは神を岩にたとえていますが、「産みの苦しみをされた」というのは、直訳すると「陣痛に身もだえされた」と読めるんですね。
 それから、
ホセア書の11章8−9節を開けていただけますでしょうか(旧約の1416ページです)。ここにはこんな風に書いてありますね。
 
「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。
 イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。
 アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。
 わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。
 わたしはもはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。
 わたしは神であり、人間ではない。
 お前たちのうちにあって聖なる者。
 怒りをもって臨みはしない」(ホセア11.8-9)

 これも翻訳によって、まるで男性の神のように感じる日本語ですが、8節の終わりの「憐れみに胸を焼かれる」というのは、「わたしの子宮は熱く柔らかくなります」と訳せます。
 また9節の3行目の「わたしは神であり、人間ではない」という言葉も「人間」と訳されているのは、天地創造の時に男と女に作られたという場面でも使われている「男」(イーシュ)という言葉です。ということは、「わたしは神であって、男ではない」と言い切っているんですね、本当は。
 そういう女性であり、母のようなイメージでこのホセア書の箇所を読むと、もう恐ろしい父親のように厳しく罰さない、赦して受け入れ、抱擁してくれるお母さんの言葉として読むことができるわけです。翻訳というのは怖いですね。
 他にも、イザヤ書には
「今、わたしは子を産む女のようにあえぎ、はげしく息を吸い、また息を吐く」(イザヤ42.14)とか、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親は自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」(イザヤ49.15)とか、「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」(イザヤ66.13)とか、母親的なイメージの神さまの描き方が何度か出てきます。

▼男でもあり、女でもある

 つまり、昔のユダヤでも、民族のリーダーが男であるために、またあちこちの他の王国に対抗するために、荒々しく戦争に強い王様のような神のように、神さまが描かれることが多かったのですが、それをかいくぐって時々、神さまを女のように、母のように描く人々もいて、ちゃんとユダヤ人の伝統の中に細々とではありますけれども、生き残ってこうして文書の中に残っているということなんですね。
 考えてみれば、私たち人間の中にも、男性の中に女性的な面が存在していたり、女性の中にも男性性が存在していたりするんですから、人間を創造した神の中に、男性性と女性性の両面があってもおかしくないですよね。混じっているほうが実は自然です。
 だいたいそもそも、人間にも他の生物にも、確かに大部分はメスとオスに分かれてはいますけれども、中にはそうではない人間もいるし、動物もいるし、環境に応じて性転換する動物もたくさんいるし、植物の中にはメスとオスという風に分けることのできるものもあるし、両方備えているものもザラにあります。
 そういう生命を作り出した根源である、命そのものである神が、男か女かどっちかでしかないなんて、貧しい論議だと思いませんか?
 男か女かどちらかだというのは想像力の貧困であり、人間の政治的な必要から生まれてきた勝手なイメージの押し付けであり、人間を超越した、人間には把握できるはずもない神さまがどうなのか私たちにわかるはずもありません。
 あえて言うならば、この世のすべての生命があらゆる性の多様性に満ちている限り、その産みの親である神さまも、男でもあり、女でもあり、それ以外のものでもあり、そのすべてである、すべての可能性を秘めておられるのが神であるとしか言いようが無いのではないでしょうか。
 すべての産みの親であるということは、「母なる神」と言っても全く差し支えないわけですし、また「父なる神」でもあり、その他のものすべてを併せ持つ神、「命なる神」とも言えます。
 このように私たちは神をどのようなイメージで表現することも許されている。ただ、イエスは、この世における父権的な「父」というイメージだけは拒否しようとしていたのだということは、覚えておきたいと思います。
 これで本日の説き明かしを終わります。皆さんが感じることを自由にお話しください。





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