若者は幻を見、老人は夢を見る

2015年5月3日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝メッセージ

27分間
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使徒言行録2章14−21節 (新共同訳)
 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
 『神は言われる。終わりの時に、
 わたしの霊をすべての人に注ぐ。
 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
 若者は幻を見、老人は夢を見る。
 わたしの僕やはしためにも、
 そのときには、わたしの霊を注ぐ。
 すると、彼らは預言する。
 上では、天に不思議な業を、
 下では、地に徴を示そう。
 血と火と立ちこめる煙が、それだ。
 主の偉大な輝かしい日が来る前に、
 太陽は暗くなり、
 月は血のように赤くなる。
 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』





ライブ録画:聖書と説き明かし(27分間)+分かち合い(33分間)=60分間

 
▼神の霊に酔う

 みなさん、1週間遅れになってしまいましたが、ペンテコステおめでとうございます。
 教会の誕生日と呼ばれているペンテコステですが、要するに、偉大な先生であり、また友であったイエスが亡くなって絶望の淵に落ち、リーダーを失った挫折感だけで無く、なぜ神がイエスを見捨てたのか腑に落ちず、そして自分たちも命を狙われるのではないかと恐れて隠れていた男性の弟子たちが、何かをきっかけに神からの霊を受けて、勇気を取り戻し、再び今度は自分たちの口と舌でイエスの良い知らせを告げ広める活動を再開した、という出来事を記念する日ですよね。
 今日お読みした聖書の箇所は、その出来事を象徴的に表した、燃える舌が弟子たちの頭の上に現れたという物語の続きに記されている部分です。
 イエスの良い知らせを語っている弟子たちを見て、ある人たちは「あいつらは新しい酒にでも酔ってるんやろ」と笑うわけです。するとペトロが代表として立って、「私らは酔っているんとちゃいますよ」と言い返して演説を始めるのですね。
 ここの部分、使徒言行録の2章15-16節。塚本虎二という著名な新約聖書学者の翻訳によれば、ペトロが「この人たちは……酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエル(酔える?)を通して言われていたことなのです」(使徒2.15-16)というのを、「神が預言者ヨエルをもって言われたことが成就して、神の霊に酔っているのです」と訳しています。
 「神の霊に酔う」というのはどういう状態でしょうね。神の霊に見たされて、しらふなのに最高にいい気分でハイになってべーらべらイエスのことについて話していたんですかね。
 こういう話を聴くとぼくは大学時代に友達を失ったことを思い出すんですね。バイクに乗っていてトラックと衝突事故を起こして亡くなったんですが、我々友人たちがお葬式のあと、ある友達の一人の家でお酒を飲んでいまして、当然悲しいはずの場面なのですが、だんだんと思い出話に花が咲き始め、亡くなった友達がいかに面白いやつだったかを話しては腹を抱えて大笑いをしていたわけです。その笑い声を聞いて部屋に入ってきたその家のお母さんに、「あんたら! 友達が死んだっていうのに、何をゲラゲラ笑ってるの!」と大目玉をくらいましたが、やっぱりそういうことってあると思うんですね。
 大切な人が亡くなった事自体はショックでも、その人の思い出を辿って行くと大笑いするようなことばかりだった。だから、イエスの弟子たちもだんだんとショックから立ち直ってくる中で、まるで大切な恩師を虐殺されたとは思えないような愉快な調子でイエスの思い出話を夢中になって人々に伝え始めたのかもしれません。

▼すべての人に

 さて、ここでペトロは、「私たちがこうして改めてイエスの良い知らせを宣べ伝えているのは、ヨエルの預言が成就したからだ」と言っているわけですが、ここで旧約聖書のヨエル書3章1-5節まで引用するのは、特にこのルカによる福音書の著者の独創ではなくて、ルカがこの福音書を書くずっと前から、ペンテコステの出来事を説明する預言として初代教会の人たちによって言い伝えられてきたのだとされています。
 初代教会の人々は、これまでも何度も言ってきたかもしれませんが、ほとんどが文字の読み書きできない人たちです。文字の読み書きができるのは、全人口の5%にも満たないエリートの人達だけでした。
 しかし、文字の読み書きできない庶民は、それでも歌や物語によって、聖書の言葉を憶えたり、シナゴーグでの礼拝で毎年通読される聖書の言葉を聞くことによって、先祖代々聖書の内容を伝えてきました。
そして、自分たちの間にイエスの霊が今も自分たちの間に生きて働いている!と感じ、その思いが共有できた時、彼らの心の中でハッと思い当たったのが、このヨエル書の言葉だったんでしょうね。
 それをルカはもう一度聖書を開いて……というのは、ルカはこんなに長い書物を書けるエリートですから、ちゃんと出典をしらべて、正確にヨエル書から写し取ったというわけです。
 ヨエル書というのは、イナゴの大群に襲われ、農作物をボロボロにされて、その上周囲の外国に戦争で叩きのめされて、絶望の淵にあったイスラエルの人たちを励ます預言を語ったヨエルの言葉を記録したものです。
 この引用されたヨエル書の部分の中で一番大事なキーワードのひとつは「すべての人が預言するようになる」というところでしょうね。17節に、
「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し」と書いてあります。
 預言というのは、神の言葉を預かってそれを民に伝えるということで、それまでは預言者というという特別な才能を持った特殊な人だけ、神に選ばれた特別な人だけがするものだとされていたのですが、これを「すべての人にわたしの霊を注ぎ込むよ」と神さまがおっしゃったぞ、とヨエルは伝えているわけです。
 この「すべての人に」という言葉は直訳すると「すべての肉に」です。つまり、神に作られた文字通りすべての存在が、という意味です。主に人間のことを指します。
 「すべての肉に中に、神の霊(つまり息吹との読み替えられますけど)息吹が吹き込まれる」という話を聞くと、私は「天地創造」の物語の「人の体の中に、神が花の穴から息を吹き込む。すると人間は息をするようになり、生きたものとなる」という記事を思い出します。
 そういう連想をすれば、ここは17節に、
「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と書いてあるのですから、これは「終わりの時にこそ、すべての人の創造がもう一度始まるよ」ということを言っているんですね。
 とにかく、特別な選ばれた人だけではなく、才能に恵まれた人というわけでなく、本当に小さな存在である誰でもが神の喜ばしいメッセージを他の人に語り伝えるようになる、ということですね。ですから、イエスという先生が亡くなったあと、意気消沈していた弟子たちが、もう一度立ち上がって、「今度は自分たち一人一人が良い知らせを宣べ伝えよう」と決心した、という出来事を預言する言葉としては、まさにこのヨエルの言葉がふさわしいと思ったのは自然なことだといえるでしょう。
 しかも、あなたたちの「息子も娘も」と書いてあるわけですから、「預言をする、神のことばを伝え、伝道するのに、男も女も関係ないよ」と、あの男性中心的な時代としては珍しく、男女平等な宣言だったんですね。「娘が預言する」「女性が預言をして人々の霊的な指導者になる」ということばが入っているのは、それを聞いた人たちにとっては驚きだったと思います

▼若者は幻を見、老人は夢を見る

 そして、もうひとつのキーワードは、先ほどのことばに続く「若者は幻を見、老人は夢を見る」ですね。
 
「若者は幻を見、老人は夢を見る」。いい言葉ですよね。未来に向かって希望にあふれていますね。
 ここでの「幻」というのは、煙のようなすぐ消えてしまうものという意味では無くて、たとえば英語の役で見ると「Vision」と書いてあります。「展望」ですね。「あなたには明確なヴィジョンがありますか?」と言われたりする時のヴィジョンです。
 「若者は幻を見る」というのは、若者は展望を抱く。つまり、若者たちが「これから私たちはどうしていこうか」というヴィジョンをしっかり持っているということです。
 また、「老人は夢を見る」。老人というのは、この世の様々な経験を経て、大体世の中や人間というのはこういうものだとよく悟っている人というイメージがあります。老人とは「翁」とも呼ばれ、優れた知恵者として大切にしなくてはいけないというのが、昔から色々な民族が伝えてきた考えでもありました。
 ここでは聖書に、「老人が夢を見る」と書いてあります。老人が夢を描けるというのは、若者たちがしっかりと後を継いで安心し切ることができるからではないでしょうか。成熟した人間は、後の世代の者の喜びを自分の喜びとすることができるといいます。後の者たちが未来を作っていってくれるからこそ、自分が世を去った後のことについても夢を描けるのではないでしょうか。
 ですから、「若者に幻がある」からこそ、「老人が夢を見る」ことができるので、この2つの言葉は2つで一組の言葉をなしています。若者と老人が共に尊い存在として仲良く暮らしていることが前提であり、ここで老人が描いている夢は、若者を通じて実現している未来の希望に、「永遠」というものを心に描いているということも想像されます。
 そして再び、「わたしの僕やはしためにも、そのときにはわたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」(18節)と出てきます。やはり、身分や地位とは関係なく、富める者やインテリだけではなく、貧しく学のない者もイエスの愛と癒しと食卓の活動を宣べ伝えることはだけでもできるんだ、という思いがここに込められています。

▼終わりの始まり

さて、このヨエル書の引用ではその後やや不吉な預言が続きます。読んでみますと…
 「上では、天に不思議な業を、
 下では、地に徴を示そう。
 血と火と立ちこめる煙が、それだ。
 主の偉大な輝かしい日が来る前に、
 太陽は暗くなり、
 月は血のように赤くなる。
 主の名を呼び求める者は皆、救われる。」

 「血と火と立ち込める煙が」というのは、明らかに戦争による破壊のことですね。そして、太陽が暗くなり、月が血のように赤くなる。超自然的な異変まで起こる。この世の終わりを暗に示しています。
 しかし、
「主の名を呼び求める者は皆、救われる」とあります。典型的な終末思想です。すなわち、「私たちを迫害する者は、皆、戦いと神の裁きによって滅びるけれども、私たち信仰者は生き残り、救われるであろうという物の考え方です。迫害があると必ずこのような思想が風潮として広がります。
 ここには、ルカにとっては、ペンテコステから既に世の終わりは始まっているという考え方が反映しています。ルカにおいては、終末というのは長〜い時間をかけてだんだんと実現していくもんなんですね。そうとでも説明しないと、「いつ終末は来るんだ、今日か? 明日か? 何年後か? ずっと終わりの時とキリストがもう一度やってくるのや、神の国がやってくるのを私たちは今か今かと待ってるんだぞ!」という人たちのしつこい質問に答え切れません。
 ですからルカは「終末というのはね、もう始まっておるんだよ」と言うんですね。「でもね、この終末というのは、徐々にエルサレムから始まって、徐々に徐々に教会がローマ帝国全体に広がっていくに従って、長〜い時間の果てに完成するもんなんだ」と言いたいんですね。
 その「世の終わり:終末」の始まりが、このペンテコステの出来事であり、それは老若男女、貧富地位の差も関係なく、誰もが神さまの愛に生かされていると預言するようになる現象なんだということです。
 終末とか、世の終わりというと、何か恐ろしい天変地異が起こって人類が滅亡してしまうというイメージを抱きがちですけれど、ここで「ペンテコステから始まって徐々に徐々に広がってくる終末」という言い方をすると、ちょっと違った意味になってきます。
 それは、同じ「終わりの時」でも「完成の時」という意味です。だんだんとこの世が完全なものになってくるという希望のことです。
 イエスが種として地に落ち、死んで全てが終わったように思ったけれども、そこから弟子たちにペンテコステの出来事が起こり、再び全てのメンバーがイエスの言葉を行いを語り始めた。そこから世界がだんだんと変えられてゆく、というイメージです。

▼原点……イエスの想い出

 ペンテコステは、選ばれた誰かがということではなく、誰もがその性別や年齢や資格や地位や貧富の差に関わらず、イエスのことを宣べ伝え、イエスの行いを引き継いでゆくことができるように、人間が変えられたという出来事です。
 そして、そのことによって世界が変わってゆくという希望を抱くことができ、若い人たちはこれからこの世をどう変えて行こうというヴィジョンを持ち、それを見て老人も未来に夢を描くことができるようになりましたよ、という知らせなんですね。
 私たちは、この「教会の原点」と呼ばれるペンテコステを思い出すことで、どんなに世の中が問題に満ちていても、もう一度原点に戻って、やり直す意志を確認しませんか。
 そして、教会というのは、建物があり、そこに人が集まっているから教会なのではなく、誰でもがそれぞれの持ち場で、それぞれのやり方でイエスの愛についてゆくということ、それが大切なのではないかと思います。
 イエスが死んだということは、悲しくてショックなことでした。しかし、そのイエスの思い出話をみんなで話しているうちに、だんだんと愉快になってきた、そしてもう一度勇気を出して、イエスの話を色々な人にしようとし始めた、というのが、平たく言えばペンテコステの実際の姿だったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。





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