この世はいったい誰のもの?

2015年6月21日(日) 

 日本キリスト教団 枚方くずは教会 主日礼拝宣教

35分間
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 マタイによる福音書6章9-13節 (新共同訳)
だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、
 御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』





ライブ録画:聖書と宣教(35分間)

 
▼主の祈り

 今日お読みした聖書の箇所は、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、いわゆる「主の祈り」のもとになった聖書の箇所ですね。
 私が普段教えている学校でも、礼拝でこの祈りを唱えますので、別に試験などしなくても中学生の間にだいたい覚えてしまいます。
 しかし、大抵のキリスト教学校では、明治時代から続いている文語体で唱えていますし、教会でもそういうところは結構あると思います。
 このような祈りの言葉ですね……。
 「天にまします我らの父よ。
 願わくば、御名を崇めさせたまえ。
 御国を来たらせたまえ。
 御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。
 我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
 我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
 我らを試みに合わせず悪より救い出したまえ。
 国と力と栄えとは限りなく汝のなればなり。
 アーメン」
 ……となっています。私もこれで子どもの頃から憶えているので、現代風の新しい訳を見ても、なかなか暗記することができません。
 しかし、現代風の新しい翻訳を見ても、じゃあ意味がよくわかるようになったのかというと、そういうわけではないと思うんですね。  確かに現代の日本語になったわけですから、文語体独特の言い回しは無くなりましたが、それでも、噛み砕いて、たとえば中学生にわかってもらうようにするには、ある程度の解説が必要です。
 そこで、ひとつずつ上から解説して行きます。

▼なぜ神が「父」なのか

 まず、「天にまします我らの父よ」。この1行目からつまずきます。
 なぜ神は父なのでしょうか? 神は母かもしれません。あるいは、神を男とか女とかそんな風に規定してしまうこと自体が、人間のレベルに引き下げて考えていることであって、実は神は男とか女とか、そういう分類が当てはまらない存在かもしれない。
 では、なぜイエスは、神を「お父さん」と呼んだのか。また、自分の弟子たちに「天のお父さん」と呼ぶことを勧めたのか。どの人にも生物学的にはお父さんが存在していた、あるいは存在していたはずなのに、です。
 それには、イエスが生きていた当時の社会の状況を知らなくてはいけません。
 まず、当時は父権主義が非常に強い時代でした。父親が家庭の中で絶対的な権力を持ち、父親の命令に逆らう者は妻でも子どもでも家を追放される可能性がありました。そして、家を追放されたら行くところがありませんから、食べていくことができませんでした。
 旧約聖書の中には、父親に逆らってなかなか言うことを聞かない息子は殺してもよいという律法があるくらいですからね。生殺与奪の権利を父親は持っていたわけです。実際には跡取り息子が必要ですから、本当に息子を殺すということはほとんど無かったでしょうけれど、それでも、「父親に逆らったら何をされるかわからない」というのは、息子にとっては恐ろしかったでしょうね。
 また、女性は、父親または夫の許可なくして他の男と口を聞くことも許されませんでしたし、妻は離縁も簡単にされてしまいましたし、娘も自分の結婚相手を自分で決めることさえも許されませんでした。
 そういう世の中で、誰もが尊敬できるような慈愛に満ちた優しい父親だったらよろしいのですが、大抵の父親というのは、今の日本でもそういう家庭は少なくないようですが、自分の権威を笠に着て傲慢に振舞ったり、酒を飲んで怒鳴ったり暴れたり、妻や子どもに暴力や虐待を振るったりしている場合が多かったことは間違いないでしょう。
 イエスのところにはそういう家庭で傷ついて逃げてきた子どもたちや、女性たちがたくさんいました。
 そのようなイエスが弟子たちに、「もう地上のお父さんはいらないね。あなたたちの本当のお父さんは、優しい天のお父さんだけだよ」と語ったのは、不思議なことではないと思います。
 きっと、イエスのところに逃げてきた人たちは慰めを得たでしょう。

▼御名、御国、御心

 この1行目を乗り越えると、「主の祈り」の中身は、前半が神さまのこと、後半が人間のこと、という風に分類でき、わかりやすくできていることに気づきます。
 前半は、「御名」、「御国」、「御心」となっていますね。
 「御名があがめられますように」というのは、「神さま、あなたのお名前がすばらしいものとして高められますように」と言い換えることができますね。
 「御国を来たらせたまえ」というのは、「神の国が来ますように」ということになりますが、「神の国」とは一体何なのかということが問題になります。
 ここで「国」と訳されている言葉は、ギリシア語で「バシレイア」と言いますが、単に領土という意味ではなくて、「支配」とか「統治」という意味があります。確かに、イエスは、「神の国というのは、ここにあるとかそこにあるとか言えるものではないよ」という言葉を新約聖書に残しています。ということは、「神の国」というのは「神の支配」、「神が治めるところ」ということになりますよ、と。
 そうなると、「怖いよ、怖いよ」ということになるのですね。「神の支配」などというと、みんな洗脳されてしまって、自由も無くなって、神の命令に従って支配されるのか?」と、「いやいや、そういうわけではなくてね」と私は教室で言います。
 新約聖書の「ヨハネの手紙Ⅰ」という本には「神は愛です」と書いてあります。ギリシア語というのは、主語と述語が順番が決まっているわけではありませんので、これは「愛は神です」と訳してもいい言葉です。つまるところ、「神」と「愛」は同じもので、神を信じることは、愛を信じることなんですね。
 そうすると「神の支配」というのは「愛の支配」と読み替えることができます。愛が支配しているところ、それが神の国です。
 だからぼくは教室で言うんですね。「もし、このクラスの全員がお互いのことを大切に思い合って、いじめたり、傷つけたりしようとせず、愛情と優しさで接するようになれば、このクラスは神の国になるんさ」。
 そうすると、「そうかー。じゃあうちのクラスは神の国やなあ」という子がいます。それから苦笑しながら「そうかー?」という子がいます。温度差はありますが、「このクラスはいいクラスだ」と思っている子がいるということは嬉しいですね。
 そして、3行目の「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ」は、これは神の思い、神の願いが天において実現しているように、地上でも実現しますように、ということで、2行目と同じように、地上に神の愛が満ち溢れますようにという願いがこめられているわけですね。

▼楽で安心な暮らし

 さて、後半に入りますと、「我ら」という言葉で始まる願いが、やはり3個並んでいます。
 まず最初は「我らの日用の糧を今日も与え給え」ですね。
 「私たちの毎日の食べ物を『今日も』与えてください」と言っています。「今日もください」と言っているということは、今日食べるパンも手に入るかどうかわからない人を基準にイエスはものを考えているということです。これは極度の貧困に陥っている人目線の祈りです。「何とか今日食べるものをください」と。
 そして次に「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」とあります。
 これはなかなか難しいことです。自分に対して罪を犯した者、つまり、自分を傷つけたり痛みを与えた者に対し、それを赦せというのは、かなり難しい要求です。
 もともと旧約聖書には「目には目を、歯には歯を」という言葉が記されています。これは復讐を正当化する、復讐するべきだ、「やられたら、やりかえせ」という風に誤解されがちな言葉なのですが、そうではなくて、「もし他人の目を傷つけてしまった加害者は、罰として第三者の前で自分の目をえぐられなくてはいけない」とか、「もし他人の歯を折ってしまった者は、罰として第三者の前で自分の歯を折られなければならない」。そしてその後は互いに恨みっこなしで、その後は争うことのないように、という古代ならではの、多少荒っぽいですが平和を維持するための決まりだったわけです。
 これをイエスはさらに発展させて、「まず赦せ」ということを教えるようになりました。そして「あなただって自分が過ちを犯した時には赦してもらいたいだろう」と諭しました。
 こういう話をする時、私たちは自分がまず被害者だという立ち位置につきがちです。自分にまず被害者意識があって、「やられたら、やりかえさないと気が済まない」と思うわけです。
 しかし、旧約聖書の「目には目を」でも、イエスの「赦しなさい」でも、この点は同じなのですが、「自分が加害者になる可能性」というところに目をつけているんですね。そして、加害者になるというのは、意図的ではなくても、自分に悪意がなかったり、意図的ではなかったとしても、人を傷つけたり、人に痛みを与えていたり、人から何かを奪い取っていたりすることが存外あるものです。
 ですから、これは「まず自分が加害者であるかどうか気にかけておきなさいよ」ということが前提です。「もしそうなら赦してもらいたいだろう? ならば、あなたも人のことを赦しない」ということです。
 そして最後に、「我らを試みに合わせず、悪より救い出したまえ」。
 「試み」というのは試練のことですね。試練に合わせないでください、とは要するに、安楽に暮らせるようにしてくださいということですね。
 これもさすがはイエスですが、貧しくて、働いても働いても生活が豊かにならない。しかも職場でも私生活でも試練ばかりが待っている、という苦労の多い人生を送っている人の目線でものを考えています。
 そして「悪より救い出したまえ」。自分に悪いことをする人や、悪いことに誘う人、あるいは悪意のある出来事から救い出してください。これも、犯罪や暴力に近いところに住んでいる人たちの苦しみからものを見ようとするイエスの視線が感じられます。
 つまり、一言で言ってしまうと、イエスは「やっぱり人生は楽で安心なのが一番だな」と言っているわけです。実際の人生は苦労や危険に満ちています。しかしだからこそ、素直に「楽で安心な人生を与えてください」と祈ろうじゃないかと、イエスは優しく人びとに呼びかけたわけです。

▼支配と権力と栄光は誰のものか

 そういうわけで、こうして「主の祈り」の全体像をざっと見てきましたが、一般的に「主の祈り」と呼ばれている祈りの最後の1行が、もとの聖書の箇所には載っていませんね。
 「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」が元の聖書の箇所には載っていない。つまり、少なくともイエスは、この言葉を祈りに加えてはいないんですね。これはだいぶ後になってから付け加えられた言葉です。
 イエスが亡くなってから300年近く経って、ヒエロニムスという人が最後にこういう頌栄と呼ばれますけれども、賛美の言葉を加えようとしたんですね。それが徐々に広まって、聖書には書いてはいませんけれども、これを礼拝の中の祈祷文として献げる場合には、最後に付け加えようという風に、だんだんとなっていったんです。
 で、これを、「これはイエス自身が言った言葉ではないから、値打ちがない」と言って切り捨てたり無視したりする学者さんや牧師さんも多いんですが、しかしよく考えてみると、なかなか大事なことを言っているなあと思うんです。
 「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」。
 「国」というのは、先ほども申しましたように、支配のことですね。
 「力」(パワー)というのは、権力のこと、あるいは暴力のことかもしれません。
 また「栄え」というのは、栄光、栄誉、名誉といったものです。
 そういう、支配と権力と栄光は、どこまでも神さまのものであって、人間のものではありません、と言っているわけです。
 なんででしょうか? この世界は私たち人間のものではないのでしょうか? 私たち人間はこの地上に生きている生物のなかでも最高に進化した生物として、この地球を支配してもよいのではないでしょうか。そして事実、支配しているのではないか……。
 確かにいま、私たち人間はこの地球上を支配しているように見えます。しかし、その実態はどうでしょうか。
 地上を支配すると言いながら、森林を切り倒して砂漠化を進め、化石燃料を燃やして大気を汚し、挙げ句の果てには、自分たちでもコントロールのできないような技術で原子力発電所を作り、災害にあっては制御に失敗し、人の住めないような汚染地帯を作り出しています。
 また、権力や栄光を求めた人びとは、どうなっているでしょうか。権力や栄光を手にいれるためには、自分には都合の悪い勢力や敵対する国や民族や集団を力で抑え込まないといけません。つまり戦争です。しかし、いまは、国と国の戦争はほとんどなくなり、自由に移動する民族主義者や宗教・イデオロギーで動いている神出鬼没の人びとを相手に、大国が武器や兵士を投入し、間違って一般市民を大量虐殺したり、自分たちも悲惨な殺され方をしたり、といったことが続いています。
 ある世界最大とも思われる超軍事大国では、大統領がノーベル平和賞の受賞暦もあるというのに、いまや、世界のリーダーという名誉を保つために、また、兵器や武器を作って儲けている企業の利益でなんとか国が保たれているために、もはや国が滅びるまで戦争をやめることができないという体質になってしまっています。非常に皮肉なことです。
 これらすべての人類の悲惨な現状は、この地球が、この世が自分たち人間の好きな通りにしてもよいと思ってしまったところから来ているのではないでしょうか。
 私たち人類は、この世のすべてを自分たちのものにしても、それを上手に運営し、平和に活用し、共存することができないほど、あまり賢くはない動物なんですね。
 
▼この世は私たちのものではない

 ですから、私は、やはりこの地上の世界、そして権力や栄光といったものを、人間が自分のものにしたいと求めるべきではないのではないかと思っています。
 もし、この地球が、神に与えられた素晴らしいところで、本来は私たち人間のものではないのだ、これは借り物なのだと思っていたら、私たちはこんなに、地上の木々を切り尽くし、動物たちを狩り尽くし、空気や土や海を、そして自分たち自身をこんなに汚染して自ら死を招き寄せるなんていう愚かなことをするまで暴走はしなかったのではないでしょうか。
 また、この世を支配するのは人間ではない、この世は皆、神の世界なのだという謙虚さがあったなら、そして、私たちが与えられる力や栄光は、実は神の恵みによるものに他ならないのだというわきまえがあったなら、私たちは、自分の欲望や栄光を維持し、拡大するために、他人を殺し尽くしても構わない、殺さざるを得ないというような悲惨な世界を作らずにすんだのではないでしょうか。
 そういう意味で、私は自分はヒューマニストではありたくないと思っています。人間中心主義ではありません。人間が、あるいは自分がこの世の主役ではありません。この世の主役は神さまなんです。私たちは、神さまからいただいたこの地球で、神さまからいただいたわずかな期間の命を生きさせてもらうだけです。
 「この世はみな、神の世界」であり、私たちはそこに恵まれて住まわせてもらっているんです。そういう思いで、すべてのことに感謝しながら、神さまから貸してもらった、まだ素晴らしいところがたくさん残っているこの地球で、せめてこれ以上は、地球も他の生物も、他の人間も痛めつけることの少ないように、謙虚に生きて行きたいものだと思いますが、皆さんはいかがお思いになりますでしょうか。





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