宗教による差別、信仰による家族

2015年7月5日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝説き明かし

21分間
礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る



 テトスへの手紙1章12−16節 (新共同訳)
 彼らのうちの一人、預言者自身が次のように言いました。
 「クレタ人はいつもうそつき、悪い獣、怠惰な大食漢だ。」
 この言葉は当たっています。だから、彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。
 清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。





ライブ録画:聖書と説き明かし(21分)+分かち合い(64分)=85分間

 
▼聖書のなかのヘイトスピーチ

 今日お読みした「テトスへの手紙」は、体裁としてはパウロが書いた手紙というように出だしから書いてありますが、実は「偽名書簡」と呼ばれておりまして、実際にはパウロが書いたわけではなく、むしろパウロの名を使って、パウロの影響をちょっと修正しようという意図で書かれた手紙だというのは、専門家の間では定説になっています。
 今日お読みした聖書の箇所にある「クレタ人は嘘つきというのは本当です」というのは、もうこれは「部落の人は嘘つき」とは、「徳島県人は嘘つきというのは本当です」というのと同じような差別発言ですよね。
 ところで話が少しズレますが、「私は嘘つきです」というのは、これは差別発言でもなんでもありませんね。よくTさんが使われるギャグですが、「私は嘘つきです」と言ってしまうと、それ自体が嘘かもしれないので実は嘘つきではない可能性もあるというジョークですよね。だから、自分で言う場合は別に日常会話の冗談としては問題ないわけです。
しかし、他の土地の住人、他の民族を「あいつらは嘘つきだ」と言うのはこれは明らかにネガティブなレッテル貼りです。
 この「クレタ人は嘘つきで、悪い獣で、大飯食らいだ」という言葉がカギカッコで囲まれていますね。これは、この手紙が書かれた当時、こういう言葉が一種の決まり文句というか、流行語のように他の地域に広まっていたということを表しています。つまり、クレタ島に住んでいる人たちに対する差別意識は地中海の周辺の地域のかなり広くに広がっていた可能性があります。
 これは一種のヘイトスピーチですね。事もあろうに、聖書のなかにヘイトスピーチが紛れ込んでいるわけで、しかも「それは本当です」と肯定している。これは聖書を愛する私たちにとっては非常に残念なことですけれども現実にそう書かれてあるから仕方がありません。
 少なくともパウロ自身が自分で書いた手紙ではないのが、せめてもの救いかなと思いたいところですが、パウロ自身も問題発言と取られかねない所があって、ガラテヤの信徒への手紙で、「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」という言葉を残しているますので、微妙なところです。
 この言葉が、ガラテヤの教会の人たちだけをとって、「あなたがたはなぜ物分かりがわるいのか」と言っているのか、基本的にパウロの中にガラテヤという町に対する差別意識があったかどうかは、ここだけではわかりません。
 しかし、たとえば、教団議長か誰かが「ああものわかりの悪い徳島の人たち」と言ったとしたら、これは「徳島北教会の人はものわかりが悪い」と思っているのか、「徳島の人はものわかりが悪い」と思っているのか……範囲が違うだけで差別発言であることには変わりがありませんよね。ですから、これはやっぱりパウロのなかにもある特定の人々に対する偏見が存在していたということなんですね。

▼宗教による差別

 さて今日のテトスへの手紙に戻りますが、このヘイトスピーチの問題点は、ただヘイトスピーチを「こう言われていることは本当です」と言うだけではなく、それを宗教的な意味で、神の名を使って差別を肯定しているという点ですよね。
 ここでは、「清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています」と書かれています。
 これを書いた人は「自分たちは清い者だ」と無言のうちに前提にしていますね。そして、クレタ人は「汚れている者、信じない者」だと言っています。そして、「信じない者は、なにひとつ清いものはなく、知性も良心も汚れている」。よくここまで言えるかというほど、信者ではない人に対する差別意識ですね。
 このように信仰を持たない人に対する差別意識を持っている人は、クリスチャンのなかには案外多いです。
 よく私のところにメールで相談に来るのは、「信者でなくては天国に行けないのですか?」というものです。
 長年連れ添ってきた配偶者が亡くなった時、自分はクリスチャンだけれども、亡くなった方はクリスチャンではなかった。それでも教会でお葬式をさせてくれないかと牧師にお願いしたら、牧師が「洗礼を受けていない方の葬儀は受け付けられません」とにべもなく突っぱねたとか。「亡くなった人の魂の平安のために祈ってくださいますか」とお願いしたら、「残念ですが、洗礼を受けられなかった人は天国には入れません。いまその方の魂がどこを彷徨っておられるのか、私にはわかりません。悪しからずご了承ください」と言って断られたとか、そういうケースが多々起こっています。
 以前、徳島キリスト教霊園で説き明かしをさせていただいた時にもお話ししたのですが、イエスに言わせてみれば、天の神の住むところは無限に大きく、住めない人などないくらい広いのです。この言葉が、住む場所を失って死んでゆくホームレスの人々の目線に立った言葉であることは明らかです。イエスはこの世で雨風をしのぐ場所が無かった底辺の生活をしている人でも、誰でも、亡くなったら神のもとに居場所が無いなんてことがあるはずがない。そうでないと本物の神ではないと言い切ったのです。
 これから洗礼式が後に控えているというのに、こんな事をいうのもどうかと思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、洗礼を受けているから救われている、洗礼を受けていないから救われていないという差別はイエスにおいては一切ありません。そのことを証するためにも、私たちは聖餐式においても洗礼を受けているかどうかで差別をしません。イエスは宗教的な資格によって人を分け隔てしたのではなく、文字通り誰でも集ってよい食卓を設けたからです。

▼洗礼による恵み

 洗礼もイエスは授けていません。イエス自身が洗礼者ヨハネから洗礼を受け、ヨハネの弟子になっていた時期があるにもかかわらず、イエスが洗礼を授けなかったというのは、イエスが敢えて洗礼を授けることを拒否していたということを示しています。
 なぜ、イエスは洗礼を授けなかったのか、やはり、「洗礼を受ければ救われる」と思って勘違いする信徒が洗礼者ヨハネの弟子たちの中にいて、それに納得がいかなかったのでしょう。
 それでは現在の私たちにおける洗礼の恵みとはなんでしょうか。
洗礼を受けていても、受けていなくても同じように神に愛され、同じように救いの可能性を持っているのに、なぜ洗礼を受けるのでしょうか。
洗礼の恵みというのは、簡単に言うと、ひとつには、キリストによる家族になるということです。あとの洗礼式の式文にもこれは、象徴的な言葉で「キリストの体に加えられる」と言い表されています。
 キリストにある家族というのは、この世の家族とは違い、神とのつながりに生き、神の思いを自分の生き方にしようとする人びとのつながりです。
 「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」というたとえも聖書の中には記されています。ぶどうの枝というのは様々な方向に伸びてゆき、あちらこちらで実を結びます。私はこの枝であり、彼はその枝であり、彼女はあの枝でそれぞれの実を結んでいる。そんな風にして違うところで違うことをしていても、みなひとつのぶどうの木。それもこの家族の姿です。
 もちろん神の思いを自分の生き方にするといっても、私たちは失敗ばかりです。でも、私はクリスチャンだという自覚が、再び生き直そうとする原動力になるんですね。その時にひとりぼっちでは、なかなか力が出ません。同じキリストにつながっているという信頼感で結ばれた家族がいること、実際に家族で顔を合わせて一緒に食べ、話すこと、それが生きる力になります。
 事実、この徳島北教会も神にある、そしてキリストにある家族ですし、またぼく自身、教会は違っていたり遠くにあったりしても、兄や姉、弟や妹、またありがたいことに細々と心配してくれるお母さんがあちこちに何人もおります。そして、このあと行われる洗礼式においても、一人の弟が産声をあげる予定です。

▼すべての人を歓迎する

 この洗礼は特にクリスチャンが少数派である日本でこそ意味が大きいと思います。イエスを信頼し、イエスと共に人生を歩みたいと願う人が少ない中ではなかなか見えてこないものが、その家族に迎えられることで、見えてきます。新しい世界への視野が広がります。
 また、この家族に加えられることは、もとからその家族の中にいた人にとっても新しい子どもが生まれたような喜びです。周りに家族のメンバーが少ないだけに、その喜びは大きなものです。
 イエスは敢えて人に洗礼を授けませんでした。私たちは人に洗礼を授けます。イエスと私たちの違いは、神という存在が当たり前の世界で生きていたか、それとも、全く神という存在が見失われている世界に生きているかの違いです。
 イエスは神を知るすべての人を受け入れるために洗礼を授けませんでした。
 私たちは神を知らない世界の中で生きているので、神と共に生きる家族に入りたいと思う人になら誰にでも洗礼を授けます。
 イエスと私たち、それぞれの時と世界でできることをしましょう。
 洗礼は人を分け隔て、選別したり、差別するためのものではありません。洗礼を受けたいと思う人には、しち面倒臭いことは言わず、要求せず、できるだけオープンに洗礼を授けるべきだと私は思っていますし、洗礼を受けたから何かの特権を得るでもなく、何かの負担を負うべきでもなく、本人が神さまとつながっているという喜びと慰め、そして励ましのために授けられるべきです。
 私たちはどちらもすべての人を歓迎する恵みであるということを忘れたくないと思います。
 洗礼は聖餐と同じく、神が私たちを歓迎し、清め、慰め、励まし、支えてくださるということを味わう体験です。
 改めて神さまがどんな人でも区別なく受け入れて、愛してくださっていることを思い起こしましょう。そして、家族お互いで仲良くすると共に、ゆっくりでよいから家族が一人ずつ増えることを願いつつ、共に歩みましょう。





Clip to Evernote

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール