牧師だって日曜クリスチャンになることがあります

2015年7月19日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝説き明かし

23分間
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 コリントの信徒への手紙(一)15章55−58節 (新共同訳)
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。
 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。





ライブ録画:聖書と説き明かし(23分)+分かち合い(36分)=59分間

 
▼パウロにとっての「死」
 
 今日は聖書に書かれていることに基づいて、「生きる」ことと「死ぬ」ことについて考えてみたいと思います。
 と言いますのも、聖書の中で、「私は罪に死んでいる」とか「私はキリストと共に復活した」という言葉遣いが、わけのわからないものになってしまうからなんですね。
 「死んだ」と言っても、生きているじゃないか。だからお前はそうやってしゃべっているんだろう、ということになるわけですね。
 ですから聖書的な、特に死の力と対決するということを明確に打ち出したパウロさんの言葉に耳を傾けたいと思います。
 ここで、パウロさんは「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」と、2回「死」に対して呼びかけていますね。
 私たちは、「死」というものを状態でとらえますよね。死んでいるというのは、生き物の一切の生命活動が停止した状態だ、と。
 ところが、ここでパウロさんは、「死」というものを、呼びかける相手のように思っているわけですね。難しい言い方で今風に言うと、「死を擬人化している」わけです。
 「死」という何か霊のような見えないけれども悪魔のような、それこそ死神のような奴がいて、それが人間の中に入り込んで、最終的にはさきほど申し上げたような完全な死をもたらしてしまうんですが、まずは人間の中に「死」というやつが入ってきて、それを放っておくとジワジワと人間の中に毒を撒き散らしてゆく、という考え方をしていたわけです。古代人の発想ですね。
 生きている状態と死んでいる状態がはっきりと分かれているのではなくて、まず「死」が入り込んで、人間を乗っ取り、心を殺し、魂を殺し、やがてだんだんと生物としての死にまで至らせるわけです。

▼原罪と死
 
 そう考えると、たとえば、「アダムが罪を犯したから、人間は死ぬようになった」と別の聖書の箇所でパウロが言っているのもわかりやすくなりませんでしょうか。
 「アダムが罪を犯したから、死が人間の中に入り込んだ」といきなり言われても、「はあ?」という感じで、ちょっと理解不能ですが、要するにパウロさんは「死」というものを、悪魔から送り込まれた死神のような使いだと考えているわけです。
 そして、「罪」というのは、何か犯罪をおかすという意味ではなくて、「神から離れる」とか「神さまとは別の方向にそっぽ向いている」という意味ですけれども、最初のアダムが神様との約束をやぶって神さまとの距離を作ってしまったから、そこに悪魔が死神を送り込んで、それから人間というのは、ずっと死神に捕らえられているのだ、ということをパウロは言っているわけですね。
 後になって、アウグスティヌスという人がこれを「原罪」という言葉で呼んだみたいですけれどもね。
 要するにパウロさんが言いたかったのは、人間というのは誰でも、神さまとの距離を作ってしまったら、ふと死神に入られる隙を作ってしまうよ。あるいは、人間というのは死神にずっと昔から死神に囚われているから、なかなか神さまに近づくことができないのだよ、ということだろうと思います。
 パウロさんは今日の聖書の箇所で、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と言っていますね。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。お前のとげはどこにあるのか」。つまり最初は人間は死神に乗っ取られているので、死が勝利している状態です。
 しかし、その死のとげはどこにあるのか。それは罪である。つまり神から離れることである。死神が取り付いていると神さまから離れてしまうよということ。
 そして、その罪の力は律法にある、とパウロさんは言います。

▼律法主義とは
 
 で、クリスチャンの人たちはよく「律法主義」はいけない、と言いますけれども、これは要するに、律法というのはそもそも人間がお互いに気持ちよく秩序ある神さまに喜ばれるような生活をするために作られたルールのはずなのに(といってもあくまで古代のユダヤ人なりの気持ちのよい暮らし方ということなので、今の日本人にとって気持ちがよい暮らしかというとそれはまた別の問題ですけれども)、だんだんと神さまその関係がどうなっているかうんぬんよりも、律法を守ることのほうが大事だということになってくるんですね。本末転倒といいますか、本質と手段が逆になってしまうんですね。
 最近腹の立ったことがあるんです。
 中学1年生の期末試験ですけれども、ぼくがよく小論文とか「説明しなさい」とか「あなたの考えを書きなさい」という問題を出すんですね。それで、ある程度の文章の量が書けないと、自分の意見というものを詳しくは説明できないだろうし、かといってある程度の長さ以内でまとめる能力も身に付かないと、ダラダラとまとまりのない論述になるわけです。そこで、たとえば「3行以上6行以内にしてください」という問題の注意事項を書いておくわけです。
 中学1年生というと、そういうぼくの試験問題の出し方自体が初めてで慣れていませんから当然戸惑うのでしょうけれど、「3行以上」と書いてあると、「先生、『3行以上』というのは、3行全部書かないといけないんですか?」、「3行の途中で終わったらダメですか?」、「先生、3行目の最後にこれくらい隙間が残ってもいいですか?」、しまいには一人一人が手を上げて呼びつけて自分の答案を指差して、「先生、これくらい書いたらいいですか?」、「これくらいの字の大きさでもいいですか?」
 「どんだけ文章書きたくないんじゃい!」と怒鳴りたくなりましたですね。もう最低限の労力しか費やしたくないというか、一文字でも自分の書く文字をケチりたいんですね。まあ、それだけ作文が嫌いになってしまったとか、最低限の努力で効果を出す価値観が身についてしまったとか、それまで受けてきた教育にも問題があって、一人一人が悪いというわけでもないんでしょうけれど。
 たとえば、律法主義というのは、そういうことですよね。自分が何を言いたいか、何を考えたか、何を思ったかを、深く、わかりやすく書くということが本来の目的なのに、生徒たちの頭にあるのは、とにかく3行目までを埋めればOKということばかりなんです。
 同じように、ユダヤの律法においても、その律法に表された神さまの願いということを全く考えないで、その律法の細かい規則を守っているか、守っていないかのほうが大事になってしまい、しまいには、守っている人が守っていない人、あるいは守れる生活を送っていないを嘲ったり、差別したり、「お前は神に呪われるぞ」と攻撃したりする材料に使ってしまうわけです。
 こうなってしまったら、もう律法は用をなしていません。律法が役に立たないどころか、逆に人間を神さまの無限の愛から引き離す役割しか果たしてないじゃないか。これがつまり、律法によって「死」がもたらされるということですね。律法はもう死神の道具になってしまっているんです。

▼死に対する勝利
 
 でも、続いてパウロは言っています。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」。
 かつては「死」が勝利していた。「死」は律法を利用して人間の心を殺していた。しかし、今はイエス・キリストによって私たちは「死」に対して勝利をおさめている、と言っているんですね。
 イエスは律法の本当に願いを実現しようとした。だれもが分け隔てなく、気持ちよく自由に互いに支え合いながらイキイキと生きる、「神の国」のモデルを現実の世の中に示して見せようとしたんです。一人一人が神さまに愛されて、生かされているということを、実感できるような人と人の関係や集まりを作っていこうとしました。
 つまり、イエスと共に生きてゆけば、私たちは神さまとの正常な関係を取り戻して、もうそこには死神の入る隙は無い。私たちは神さまとのつながりを取り戻して、イキイキと生きることができるんだ、ということですね。

▼牧師だってサンデー・クリスチャン
 
 さて、私たちは、本当に毎日神さまとのつながりを意識して、イキイキと生きていることができていますでしょうか。
 「はい、もちろんできていますよ」とおっしゃる方はOK。ぼくは人を裁くために質問をしているわけではありませんので。
 ぼく自身のことを省みてみると、牧師でありながら、そう毎日がイキイキというわけでもないことがよくあります。
 それこそ死神にとらわれたようになって、心の自由が縛り付けられ、感受性が鈍って、感情も感動も無くなって、人への愛情も温かい思いも無くなってしまって、凍りついたような、あるいは砂のような精神状態で日々を過ごす……なんてことによく陥ります。
 牧師や聖書科の教師なんて肩書きは何の役にもたちません。むしろ、その肩書きのために、肩書き通り形だけ振る舞おうとしてしまします。形だけ振舞ってクリスチャンや牧師らしくする、これ、さきほどもお話ししました律法主義です。生きた心から動いてないんです。
 そんなぼくも、日曜日の教会に行くと、教会の仲間に会って、一緒に聖書を読み、讃美をし、分かち合いを行うことで、息を吹き返します。文字通り、死んでいた状態から蘇ります。教会によって自分は復活させられるわけです。
 しかし、月曜からまた死んだ人間に戻ります。ウォーキング・デッド:歩く屍です。いつかも、営繕の仕事をしているおじさんから声をかけられて「あんた今にもダウンしそうな歩き方しとんな」と笑われました。ダウンしそうですが、体がダウンするのではなくて、心や魂や霊がダウンしそうだったんですね。
 その時に気づきました。「俺は日曜だけのクリスチャン、サンデー・クリスチャンになってしまっているなあ」と。
 もちろん、週に一回でも、息を吹き返す場があることは大切です。じっさいこの世の中には、死の力が満ち満ちている場もありますし、死を目の当たりにせざるを得ない日々を送らなくてはいけない人もいるし、生きる力をそぎ落とされるような場所で生きている人もいます。ですから、息を吹き返す場や交わりが一、二週間にでも一度あれば、それはとても幸せなことです。
 しかし、できればウィーク・デイもイキイキと楽しく生きていたいものだなあと、そのおじさんの一言と苦笑いに気づかされました。あのおじさんはあの時、ぼくにとって天の使いだったのかも知れません。

▼ウィーク・デイ・クリスチャン

 ぼくは日曜日には救われているけれども、ウィーク・デイにはまた死神さんに囚われていたわけです。
 体にも脳にもしっかり死神さんが取り付いて、「もう終わりにしたい。もう終わりたい。死にたいわけじゃないけど、死んでしまったほうが楽かな? じゃあ早く死にたいな」と思うことがしょっちゅうありました。ただ自分が存在しているというだけでヘトヘトになってしまっていたのですね。それで「神さま、もう勘弁してください。そろそろ終わらせてくれませんか」と。
 しかし、それは結局、自分が死神さんに囚われてしまっているからそうなってしまうんだなあ、と客観的に自分を見つめ直してみました。
 パウロ流の古代の言い方で言えば、「死のとげである罪」に負かされていたんですね。つまり、死がぼくに入り込んで、神さまから遠ざけていたということです。確かに自分は神を見失っていました。
 聖餐のパンとぶどう液によって、神の霊に包まれながら、イエスの霊を体内に入れたはずなのに、月曜日になるともうこぼして落としてしまっていたんですね。
 だから、ぼくはウィーク・デイも死神さんに自分を明け渡すのではなく、しっかりと神の霊を迎え入れるような精神状態にするメンタル・トレーニングが必要だと思いました。
 確かイエスの言葉の中に、「家を中をちゃんと掃除しなかったら悪霊どもが入ってくる」というのがあったと思いますが、まさとそういうことで、ちゃんと自分の心の中を掃除していないと、虫がわいてくるように死の力が入り込んでくる。ちゃんと心の中を掃除して、整えておけば、神さまを迎え入れることができる、というものではないかと思いました。
 いつでも神さまの霊をご招待できるように、死神さんが忍び込まないように、自分の内面を掃除し、整理整頓していなければいけないのだなと最近は常々思うのですが、皆さんはいかがお感じになりますでしょうか。





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