聖餐もオープン、洗礼もオープン

2015年8月30日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝説き明かし

38分間
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 使徒言行録8章26-40節 (新共同訳)
 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。
 折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。
 フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。
 彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」
 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」
 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」  そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。
 彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。
 フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。





ライブ録画:聖書と説き明かし(38分)+分かち合い(32分)=70分間

 
▼宦官とフィリポ

 今日読んだ聖書の箇所は、性的少数者を受け入れる教会の姿を描いた箇所としてよく引用される箇所です。
 ここに登場するのは、まずフィリポという伝道者です。
 この人は初代の教会で、12人の使徒とは別に立てられた7人の福音伝道者の1人です。12人の弟子たちがもっぱらエルサレムの教会の指導者として活動したのに対して、この7人の伝道者たちはエルサレムから出て、様々な他の地域にイエスのことを宣べ伝えに行ったようなんですね。
 最初に
「主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である」と書いてありますね。「そこは寂しい道である」。彼はあまり人が歩まない道を進んでいったということですね。「狭い道を行きなさい」ということとも通じる点があります。彼は決して信仰の王道を進んだわけではなく、誰もがあまり見ようとしていない場所に進んでいったということが暗示されているのではないでしょうか。
 その、進んで人が進まない場所に、
「フィリポはすぐ出かけて行った」と書かれています。彼は人からあまり注目されない、評価されにくい道にすぐに迷わず進んで行きます。
 さて、彼がその寂しい道を進んでいると、自分の先を行っている馬車が目に入ります。そして「あの馬車と一緒に行け」というインスピレーションを受けます。
 フィリポが馬車に近づくと、中からはイザヤ書を朗読している声が聞こえてきます。あとからわかるのですが、エチオピアの女王に仕える高官で宦官の人だということで、おそらくギリシャ語に訳された旧約聖書(「70人訳」というのですけれども)のイザヤ書を読んでいたんでしょう。
 エルサレムに来て神殿で礼拝をしていたといいますし、聖書を読んでいるということで、ユダヤ人ではないけれどもユダヤ教に関心を持っている、改宗をすることも考えていた人だということですね。
 その宦官の様子を見て、フィリポは「どこかわからないことがありますか」と声をかけます。すると宦官は「いやー、解説してもらえないとなかなかわかりないです」と言いました。そこでフィリポは馬車に乗せてもらって、宦官が読んでいた聖書の箇所を見せてもらいます。
 それはイザヤ書の53章でした。
 「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」
 これはイザヤ書53章の要約です。
 イザヤ書53章というのは、イエスが十字架にかけられることを予め預言していたとされる部分ですね。もちろんそれは、本当のことを言いますと、イエスがあまりにもあっけなく残虐に殺されてしまったために、「なぜ神はイエスを見捨てたのか」という謎にぶつかって途方にくれてしまった弟子たちが、聖書を必死に研究するうちに「これだ!」と見つけたのがこの聖書の箇所だったというのが本当のところなんですけどね。
 イザヤ書53章では「主の僕」と呼ばれる人が、「毛を刈る者の前で黙している羊のように」逆らうこともなく、逃げることもなく、人びとの罪の身代わりとして、人びとの罪を償うために、その人びとの前で殺されたのがという様子が描かれています。これは「イエスのことを言っているのだ!」と弟子たちは考えたのですね。その箇所をこの宦官の高官は読んでいたわけです。
 そしてフィリポは、この当時のキリスト教の核心とも言える部分について、「それはイエスが死んだ意味を示しているのですよ」と教えたのでしょうね。

▼教会もない、告白もない

 やがて馬車は水のあるところに来ました。するとこの宦官は言います。
「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」
 これ、面白いですね。
 ぼくが面白いなと思うのは、まずここは教会ではないということですね。そもそもおそらくフィリポが活躍していた時代は、きちんとした教会堂ができた頃ではなく、信徒の家々を使って礼拝を行なっていた、いわゆる家の「エクレシア」と呼ばれる集まりの時代だったと思われますけれども、ここで宦官が「洗礼を受けるのに何も問題ありませんよね?」と行ったのは、エクレシアでさえもない川か泉だったんですね。
 洗礼というのは、どこでもやれると、初代教会の人びとの中にはそう考えていた人もいるということですね。
 もうひとつ面白いなと感じましたのは、フィリポは信仰告白というものをしていませんね。
 実は、聖書というのはたくさんの写本があって、この2000年ほどの間にあちこちの教会や修道院で手書きで写されて保存されてきたので、写本を書いていた人が「ここはおかしいな」と思ったり、「ここは言葉が足りないな」と思ったりしたところに勝手に言葉を付け足したり、あるいは書き飛ばしたりしまったり、書き間違えているのがあったりするんですね。
 それで、あちこちで発掘された写本の中には、こういう記事が入っているものがあるんですね。
 <底本に節が欠けている個所の異本による訳文>  
「フィリポが、『真心から信じておられるなら、差し支えありません』と言うと、宦官は、『イエス・キリストは神の子であると信じます』と答えた」†
 それだけが加わっている写本があります。たとえ信仰告白があったとしても、非常に簡単ですね。しかし、世界中の多くの聖書学者は、この簡単な信仰告白さえも無かっただろうと考えているわけです。
 そして38節に続き、2人は馬車を停めて水の中に入り、フィリポは宦官に洗礼を授けます。
 3つ目に面白いのは、これは多分エルサレムの12使徒だったらまずこの宦官には洗礼を授けなかったと思うんですね。
 というのは、当時のイエス派の人びとというのは、まだはっきりとユダヤ教と別の宗教というふうにはなっていません。特にエルサレムの使徒たちはユダヤ教寄りの考え方をしています。そして、ユダヤ教では宦官というのは汚れた存在で、こういう人間を仲間に入れてはいけないとレビ記に書いてあります。男じゃないような男を仲間にするな、と。
 そういうことで、今日の聖書の記事を見ると、フィリポは、今の時代で言う同性愛者や性転換者を含む性的少数者の差別を一切しなかった。彼にとっては何の問題も生じなかった、ということが明らかです。
 私たちはこのフィリポの姿に、私たち自身も全ての人に開かれたエクレシアでありたいという思いを強くするのですが、いかがでしょうか。

▼喜びにあふれて旅を続ける

 さて洗礼式が終わって2人が水から出てくると、
「主の霊がフィリポを連れ去った」(39節)と書いてあります。これは、旧約聖書のエリヤという預言者がそうなったと書いてあるので、それを真似て書いたんですね。そういうことでフィリポというのはまことに神さまの御心にかなった良い預言者だったということを言っているわけです。
 その後、フィリポはアゾトという街に姿を現したと書いてありますが、ここで彼は4人の娘を預言者として活動させる新しいエクレシアを作っています。これも当時のように男性が優位になるの当たり前の時代に、女性の聖職者のみで形成された教会を作ったということですから、非常に画期的。しかし、そのような世の中の慣習をぶちやぶって、女性や少数者を中心とした仲間を作っていくというのは、まさにイエスがやっていたことを受け継いでいるわけですから、このフィリポという人は非常に注目すべき存在です。
 こういう人たちの活動は、やがてキリスト教がローマ帝国の国教になったときには、全部追放されたり潰されたりするわけですから、本当にイエスに忠実な運動が最初の頃は行われていたんだという貴重な記録をこの聖書の箇所は残してくれているんですね。
 さて、フィリポが去ったあと、この宦官は
「喜びにあふれて旅を続けた」(39節)と書いてあります。
 これも面白いですよね。
 先ほど、どこのエクレシアあるいは教会でもない、たまたま見つけた水辺で洗礼を授けたということとも関連しますが、この宦官さん、洗礼を受けたあとも、どこのエクレシアに所属したとも書いていないんですね。ただ「喜びにあふれて旅を続けた」。
 そして、おそらく他の聖書に関心を持つ異邦人(つまりユダヤ人ではない人)にも、どんどんフィリポに教えてもらった一番基本的なことを伝えたのでしょう。何せ「喜びにあふれて」いますから。

▼たかが洗礼・されど洗礼

 そういうわけでまとめますと、まず、教会ではない場所でも洗礼を授けることはできる。そして、信仰告白がなくても洗礼は受けることができる。それから、洗礼は人を選ばない。どんな人でもウェルカムであるということ。さらには、洗礼を受けたからといって特定の教会に属さなければいけないということもない……そういうことが、この宦官とフィリポの物語から浮かび上がってくるんですね。
 これは非常にオープンな洗礼の考えだと思いませんか?
 もちろん、イエス自身は誰にも洗礼を授けませんでした。自分自身は洗礼を受けたのに、です。おそらく、洗礼を受けた人に、受けたことで満足したり、受けたことで自分は救われた、自分は清いなどと勘違いをしたり、何か人よりも偉くなったような、神さまに選ばれた特別な人間にように振る舞う人たちを見て、つくづく嫌になったんでしょうね。実際、そういうクリスチャンってよくいるじゃないですか。
 だからイエスは、自分は洗礼を授けることはしなかった。誰でも何の資格もないままに、全ての人を食事に招いたわけです。それが私たちのオープンな聖餐の原点です。
 しかし、イエスが亡くなったあと、残されたイエスの弟子たちのグループは、イエスと一緒に討ち死にをすればいいとは考えませんでした。イエスという存在がどういう意味を持っていたのかを語り、イエスの言葉が何を伝えようとしていたのか、またイエスの癒しや食事の行いを受け継いでゆくために、エクレシア(呼び集められた者たちという意味ですが)を作ってゆく、それも周りは敵だらけという状況で作っていくということになると、やはり誰がエクレシアに賛同して参加する仲間なのかというメンバーシップをはっきりさせないといけません。それで復活したのが洗礼という儀式です。
 したがって、洗礼というのは、それを受けたら人間が変わってしまうとか、完全に救われるとか、そもそもそういう意味を持つものではありませんし、洗礼を受けたから聖餐を受ける資格ができるというものでもありません。そういうものではなく、要するにエクレシアの入会式だったわけです。
 なんだ、たかが入会式か……といえば、たかが入会式です。しかし、たかが入会式、されど入会式。この入会式は、神さまから「あなたは恵みを与えている」ということを体で体験させてもらえるしるしなんですね。
 水は神の霊を象徴し、「あなたは私の愛する子である。あなたの汚れを洗い流そう。そして、他の私の子たちと共にこれからの人生を歩みなさい」という神の思いが流れてくるということをあらわすしるしです。
 だから、ご大層にえらい先生が言うような大したものではない。しかし、その大したものの中に実は聖なるものがある、というようなものなんですね。どこかのお店のパンであり、ウェルチのジュースに過ぎないものなんですが、その大したことのないものの中に、私たちは聖なるものを見るというようなもの。
 そして、それは望む人全てに開かれているんですね。

▼告白などいらない

 したがって、言葉で長い信仰告白文を暗唱しなければいけないとか、原稿用紙何枚に書いてきなさいとか、そういうことを要求する教会もありますが、そういうことは実は洗礼にはあまり関係ない。
 聖書や神学の知識を身につけることも洗礼の条件ではないし、だいいち信徒だからみんな知っているかというと、実はそうでもない。そういうことは自分が興味を持ったりすれば、あるいは趣味であれば学べばいいし、そういう趣味を仕事にしているような牧師に任せておけばいいわけです。
 なぜ言葉による信仰告白が必要ないのか。それは、人間というのは知的な言葉だけで生きているわけではないからです。
 言葉で論理的にものを考える人もいます。それはそれで結構です。でも、世の中には必ずしも論理的にものを考える人ばかりではありません。それに、言葉ではなくもっぱら感情とか、感覚や直観を主に物事を捉えている人もいます。
 また、知的障がいや発達障がいと呼ばれている人のことについて最近わかってきたことをちょっと考えても、人の認知の仕方というのは実には様々で、とても統一した言葉や文章で表現出来るようなものではないとわかります。
 パウロは自分の手紙の中で、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)と書いていますが、この人はたぶん口でしゃべれない人や、公の人の前でしゃべることができない人のことを想定してなかったんじゃないでしょうか。現在でも「信仰告白! 信仰告白!」とぎゃあぎゃあうるさい牧師や神学者たちもやはり考えていないでしょう。
 くりかえしますが、人は言葉でうまく表現できる世界だけで生きているわけではいけません。だから、言葉で信仰を告白できなくても、何の知識もなくても、ただ、その人が神さまの愛を受けたいと望むなら、そしてエクレシアの人たちと一緒に生きて行きたいと思うなら、もうその人が洗礼を受けても全く問題はないんです。
 あるいは、この宦官のように、教会のメンバーにならないことがわかっている人に対しても洗礼を授けることも可能です。

▼オープンな洗礼

 そういうわけで、ぼくは洗礼も現在よりもかなりオープンに行われるべきだと思います。
 それでは洗礼のありがたみがなくなるという人がいるでしょう。また、教会の伝統が継承されないという人もいるでしょう。しかし、そんなこと言っているから教会に人が来ないんでしょうね。教会に来た人が教会を作っていくのであって、教会のために都合のいい人だけ来て欲しいというのはまったく筋違いです。
 聖餐と同じように、洗礼の恵みも大判振る舞いすればいいのですね。恵みというものはケチってはいけません。神さまは既にすべての人を愛しておられるのですから、これに応えたいと思う人にはどんどん授けたらよいと思っています。
 少なくとも私が聖書のこの箇所を読んでみたところは、聖餐も洗礼もオープンにするべきだという結論にいたります。
 みなさんはどのようにお感じになりますでしょうか。ということで、本日の説き明かしを終わります。






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