誰とメシを食ってはいけないか

2015年9月6日(日) 

 日本キリスト教団 徳島北教会 主日礼拝説き明かし

16分間
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 箴言23章1-8節 (新共同訳)
 支配者と共に食卓に着いたなら
 何に直面しているのかをよく理解せよ。
 あなたが食欲おうせいな人間なら
 自分の喉にナイフを突きつけたも同じだ。
 供される珍味をむさぼるな、それは欺きのパンだ。
 富を得ようとして労するな
 分別をもって、やめておくがよい。
 目をそらすや否や、富は消え去る。鷲のように翼を生やして、天に飛び去る。
 強欲な者のパンを食べようとするな。供される珍味をむさぼるな。
 彼はその欲望が示すとおりの人間だ。「食べるがよい、飲むがよい」と言っても
 心はあなたを思ってはいない。
 あなたは食べたものを吐き出すことになり
 あなたが親切に言ったことも台無しになる。





ライブ録画:聖書と説き明かし(16分)+分かち合い(43分)=59分間

 
▼支配者と共に食事についたなら

 今日は珍しく、旧約聖書の箴言から礼拝の聖句として引用してみました。
「支配者と共に食卓についたなら、何に直面しているのかをよく理解せよ」(1節)と厳しい言葉から始まります。
 「支配者」つまり権力や富を握っていて、人々を命令ひとつで動かすことのできる権力者、あるいは地位のある人ですね。その人と一緒に食事をすることになったら、何が起こっているのかよく自分で考えなさいよ、と突き放したような口調でこの聖書の言葉は述べています。
 まあ普通、そういう地位のある人とご飯を食べ、一緒に飲むということは、下々の人間からは望むことはできないわけで、大抵そういう場合は上から招待されるという形になることがほとんどだと思います。
 そして、当然その食事はワリカンではなく、地位の上の人が太っ腹でご馳走してくれる場合が多いでしょう。
 その場合、地位のある人、権力者、支配者、上の人というのは、ある意図を持っている場合が多いです。
 タダほど怖い者はないと言いますが、これは本当のことで、タダ飯ほど美味しいけれども、これより怖いものはないですよね。飯をおごってもらったら、その人の言うことは聞きなさいという暗黙の命令です。
 そしてもしその暗黙の命令に従わなかったり、何が起こっているのか気づかずに何も恩に報いなかった場合、どんな恐ろしい報復が待っているかわかりません。
 そういうことが、あなたにはわかっていますか? ということを、この聖句は厳しく問いかけているのですね。

▼欲望の奴隷

「支配者と共に食卓に着いたなら
 何に直面しているのかをよく理解せよ
 自分の喉にナイフを突きつけたも同じだ。
 供される珍味をむさぼるな、それは欺きのパンだ。
 富を得ようとして労するな
 分別をもって、やめておくがよい。
 目をそらすや否や、富は消え去る。鷲のように翼を生やして、天に飛び去る。」

 「富を得ようとして労するな」とありますが、当然、地位の下の者も支配者に招かれるのは嬉しいわけです。なぜかというと、その支配者に協力した場合、さらに何らかの報酬が与えられるのではないかと期待できるからです。それは単に褒められるとか、名誉を与えられるということであったとしてもです。
 そういうことを、この「富を得ようとして労するな。分別をもって、やめておくがよい」という言葉は教えてくれているんですね。自分の欲望に流されて、何か得があるのではないかと思って支配者と一緒に飯を食うなと言っているわけです。
 そして、「目をそらすや否や、富は消え去る。鷲のように翼を生やして、天に飛び去る。」
 つまり、ちょっとでもその支配者に対する忠誠を裏切ったりすれば、たちまちあなたは自分の立場も財産も何もかもを失ってしまうほど、この世は恐ろしいんだぞ、と戒めています。

▼日本の支配者の食卓
 
 ここまで読んで、支配者の食卓とその場に同席して胃袋をつかまれたある人々のことを思い出さないでしょうか。
 いま、日本のメディア、特に新聞やテレビは、安倍内閣が推進する集団的自衛権を含む安保関連法案を巡って、はっきりと反対派と支持派に分かれてきています。
 賛成するか反対するかはともかく、2つの傾向に分かれた報道が流れているということ自体はいいことではないかと思います。私たちが両方を見て、自分の頭で考える材料を得ることができますよね。
 しかし、最初の頃はだいたいどこの新聞も似たり寄ったりで、安倍内閣を指示するような、おべんちゃらの太鼓持ちばかりやっていました。
 それはなぜかというと、各メディアの社長さんや重役さんたちが、総理大臣の食事会に招かれちゃったからですね。毎晩のように総理がメディアの重役たちと一緒に高級料亭や寿司屋や天ぷら屋で食事をしながら会談を重ねていたといいます。
 それで、「寿司大臣」とか「天ぷら大臣」とか揶揄する声もありました。
 とにかくそれで大手メディアは完全に安倍内閣に胃袋をつかまれてしまって、みんな大政翼賛会みたいに安倍氏に都合のよい報道ばかりをするようになったわけです。
 しかし、最近では、安保法案に対する、総理大臣、防衛大臣、外務大臣のビッグ・スリーがのらりくらりと無責任で曖昧で矛盾する答弁を繰り返しているおかげで、さすがに目もさめた人々もいて、日本の新聞・テレビの論調は異なった2つの立場を示してくれるようになり、これは少しいいことではないかなと思うわけです。

▼タダ飯ほど高くつくことはない

 さて、それでは、永田町の人々とも大手メディアの重役さんたちとも違う私たち下々の者はどうでしょうか。
 さすがに大臣などと食事をすることは少ないでしょうが、上役からの食事となると断りきれなかったり、おごってもらったりなんかすると、次に何を求められるかもわからないです。ですから、できるだけ夕方は上司とは顔を合わせないように、逃げるように出張に行ったり、早く帰ったりするように工夫している中間管理職の方もいる企業にはいらっしゃるみたいですね。
 やはり、タダ飯ほど高くつくものはないわけです。あるいは最近はケチな上司もいて、ワリカンで飯を食ったくせに、あとで恩着せがましくあれこれ要求してくる人もいます。鬱陶しくて仕方がありません。
 ですから、立場の上の人と飲み食いするというのは、相当意気投合できる確信がある場合を除いて、なるべくはやめておいた方がいいというのが、まあ若干50年あまりしか生きておりませんが、私の経験でも言えることです。
 「強欲な者のパンを食べようとするな。供される珍味をむさぼるな。
 彼はその欲望が示すとおりの人間だ。『食べるがよい、飲むがよい』と言っても
 心はあなたを思ってはいない。
 あなたは食べたものを吐き出すことになり
 あなたが親切に言ったことも台無しになる。」

 ……というわけですから、世の中は恐ろしいものです。

▼アガペーの食事

 ところで、私たちは普段教会で愛餐会という食事を行っています。毎週ではありませんが、牧師が来るときに合わせて行ってくださっているので、私は愛餐があるときしか知りません。どうもすいません、いつもご馳走になってばかりで。すいません。
 で、愛餐会というのはギリシア語で「アガペー」と言います。「アガペー」というのはご存知の通り「愛」という意味ですね。つまり、この愛餐会の食事は「愛」そのものなわけです。私たちは「愛」を行っているわけですね。
 そして、この愛餐は「アガペー」の名にふさわしく、すべての人を分け隔てなく受け入れ、共に食事をしようとします。どんな人でもそこに来てくれれば、誰でも招き入れるというのが私たちの愛餐ではないかと思います。
 しかし、今日の聖書の箇所では、「誰と食事をするかは、よく考えておきなさいよ」と教えています。これはどのように判断したらいいのでしょうか。ここに大臣が来ることはないでしょうけど、ひょっとしたら知事さんくらいは来るかもしれません。その場合はどうしたらよいのでしょうか。
 もちろん私自身は誰が食事に来ても、同じようにワイワイと食事をすればいいと思うんです。できれば、その人にはあまりお金を出させず、手ぶらで来てもらったほうがいいですよね。

▼イエスなら

 そして、この件についてイエスが何と言っているのかが気になるところです。イエスはこの箴言の「支配者と一緒に飯を食うな」という言葉と一致することを言っているんでしょうか。
 イエスの意図を知るヒントになる聖書の箇所は、私はルカによる福音書の14章12節から14節ではないかと思います。
 これは開いていただいて一緒に読んだ方がいいと思います。
 
「また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 実はイエスのほうがもっと過激ですよね。「友人も兄弟も親類も近所の金持ちも呼ぶな」って言っています。近所の金持ちはともかく、友人も兄弟も親類も……というのは、あまりにもねえという感じです。
 しかし、イエスもうまいこと言ったなと思うのは、「妻を呼ぶな」とか「夫を呼ぶな」と言っているわけではないんですね。それから「親を呼ぶな」とも「子どもと呼ぶな」とも言っていませんよね。このあたりはうまいこと言うなあと思います。
 なぜそういうことを言うのかというと、「その人たちは、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである」と。
 友人、兄弟、親類、近所の金持ちだと、貸し借り関係ができるのを嫌がって、お返しをしたがる、そういうのはアガペーの意図を損なってしまうからやめておけ、というんですね。
 確かに総理大臣のような大物の支配者の話をしているわけではなく、けっこう庶民的な世界の話をしていますが、要するに食事というものが相手を支配したり、自分が支配されたりする道具にはならないように、という点では箴言の言葉と一致するんですね。
 なぜみんなお返しをしたがるかというと、貸し借り関係に縛られるのが嫌だからなんですが、そういう水臭い食事はするなということなんですね、イエスが言いたいのは。

▼与えるももらうも自由な関係

 そしてむしろイエスはこう言っていますね。
 「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」
 貧しい人や障がいのある人のほうを積極的に招きなさいと。要するにお返しをできないような人に気前よく与えなさいということなんですね。
 愛餐にしても、またそのアガペーの食事に起源を守る儀式としての聖餐式も、もちろん誰もが招かれているのですけれども、中でも「お返しもできないような人」のほうがより積極的に招かれていて、ある人はあげる、ない人はもらう、お互いにあるものを負担にならない程度に分け合って、貸し借りは一切関係なしよ、というところで愛の交わりができるんだよ、ということをイエスは教えてくれているんだと思います。
 下々の者どうしで、あげる人は気前よくあげる。もらう人も遠慮なくいただく。そして貸し借りはなし。もっぱら与えるほうが幸せ。
 そんなアガペーすなわち愛の交わりが教会でいつまでも続けばいいなと思っています。


 
※このメッセージは牛久教会の金子敏明牧師のブログを参考にしています。





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