人を愛するのがむずかしい病気

2015年10月14日(水) 

 同志社大学水曜チャペルアワー 奨励

約18分間
礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る



 マタイによる福音書7章12節 (新共同訳)
 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。


 
▼心の病気とはなにか

 みなさんは自己愛性パーソナリティ障がいという言葉を知っていますか? 障がいという名前が付いているので、何かの病気のようなものかなと思うかもしれませんね。
 心の問題というのは、どこまでが健康で、どこからが病気だということははっきり言えません。また、人間というのは誰でもなんらかの問題を抱えていて当たり前でもありますので、あまり「これは病気だ」ということは言わないものです。
 でも、その自分の抱えた性質のせいで人間関係に何か深刻な問題が生じたり、自分自身が生きることに苦しさや心の痛みを覚えているとしたら、それは胃潰瘍や盲腸などと同じようにちゃんとお医者さんにかかった方が生きやすくなるよ、という意味で「病気ですね」と認定する方がいい場合もあるということです。
 ですから、同じような傾向の心の性質を持っていたとしても、病気だと言える場合もあれば、病気だと言わなくてもいい場合もあるわけです。まあ本当は身体も同じようなものかもしれませんね。同じ血圧でも、同じ体脂肪でも病気の人もいれば、病気とは言えない人もいて、これは千差万別です。
 で、最初に名前を紹介した「自己愛性パーソナリティ障がい」というもの。これも必ず何人かの人は持っているような性格なんですが、これは私自身が抱えている病気です。医者にも診断されました。

▼人を愛するのがむずかしい病気

 自己愛性パーソナリティ障がいというのは、どういう症状なのか。
名前だけ聞くと、自己愛の病気なので、まるで自分を愛することしかできない、自己愛に囚われたナルシストの病気みたいですね。
 ところが実際には全く逆の意味なんですね。実は、自己愛性パーソナリティ障がいの人というのは、本当のありのままの自分を全然愛していないんです。
 自分は最低な人間であり、とても愛されるはずがないという不安がひどすぎて、それでも人に愛してもらいたいから、躍起になって自分の魅力や能力を無理にアピールしてしまうのですね。
 そして、実際一生懸命無理な努力をして、それなりの成果や業績を上げて、人から「すごい」と言われて、一時的に満足に浸るわけですが、ひととおりそのような評価を受けると、次はもっと目立つことや、もっとすごいこと、もっと魅力的なことをやらないとダメだと思ってさらに自分を追い込み、また一時的な賞賛を受けて……といった悪循環を繰り返してヘトヘトになっていきます。
 そして、人間は誰でも歳をとりますが、歳をとるに従って、美貌も次第に失われ、体型も次第に崩れ、体力も能力も次第に衰えて、かつてのような栄光を手に入れることができなくなり、従って人からの愛情を得られないと思って孤独感に陥り、また自己嫌悪に陥り、ひとりぼっちで惨めな老後や、最悪の場合自分から死を選んでしまう人もいるのですね。
 こういう人は、自分がどうすれば愛されるかということで頭がいっぱいなので、他者を愛するどころではありません。また、自分が思い通りに十分な愛情を受け取っていないと思うと、平気で人のことを見放します。そして、今度は人のことを平気で見放す自分の愛情のなさに自分で絶望し、こんなことでは人から愛されることができない、と悩む泥沼の悪循環を続けわけです。
 その根底には、先ほども申し上げた通り、ありのままの自分を愛せないという問題が横たわっているわけです。

▼どうすれば愛することになるのがわからない

 この病気の辛いところは、本当の自分を愛していない上に、本当に愛されるということがどういうことなのかわかっていないので、逆に本当に人を愛するということもよくわかりません。
 人を愛するとは、また人を大切にするということが、本当の意味でわかっていません。
 今日お読みした聖書の言葉には
、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と書いてあります。
 この言葉は、これは「自分にとって何が良いことかをきちんとわかっている人は、他人にとっても何が良いことかをわかるだろう」という前提で物を言っているように私には感じます。ある意味楽観的です。「自分がしてもらいたいことは人もしてもらいたいだろう」と。
 しかし、多分多くに人にこんな疑問が浮かぶのではないでしょうか。「自分にとって良いものが他人にとって良いとは限らないのではないか」、「だから自分のしてもらいたいことを人にしたからといって人が喜んでくれるとは限らないのではないか」。
 なぜこのような疑問が起こるのかというと、それだけ人間の価値観が多様化しているからだろうとも言えるのでしょうけれど、自己愛性パーソナリティ障がいの人間にとってはこの疑問は一層深刻で、なにしろ毎日毎日に自分がどうすれば愛されるのかを考えているくせに、本当の愛が何かをわかっていないので、どうやって人を愛していいかわからない。何をすれば愛になるのかがわかっていないんですね。
 まあせいぜい人のいいところを見つけて褒めてあげることができる程度です。自分が人から賞賛されるという愛され方しか求めていないから、他の方法が見つからないんですね。でも、それが本当に人を愛し切ることになっているというと、そうではないということは薄々自分でも感づいているわけです。
 そして、長いことこの問題に悩んだり、自分の病気について色々調べたりしているうちに、だんだんと本当に自分に足りないことは何なのかがわかってきます。
 それは「ありのままの自分を受け入れて、大切にしてあげる」ということです。
 特に体力も能力も、見かけの良さも、だんだんと衰えて、以前のような賞賛を浴びなくなってくる年齢になって、それが一番大事なんだということに気づかざるを得なくなります。
 何の取り柄もなくなってしまった自分でも、ありのままに受け入れてほしいということ。それが自分が「人にしてもらいたいと思うこと」なんですね。

▼私がいちばん求めていること

 イエスという人は、この「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた単純率直で本質をついていますからがたも人にしなさい」という言葉を発した時、割と率直にその一番大切なことを前提に言っていたのではないかと思います。イエスの言葉はいつも単純率直で本質をついていますから。
 多分イエスは、「特に取り柄もない、格好良くもない、どちらかといえば全く不完全な人間であっても、そのままでお前さんは人から愛されたいだろう?」とわかっていたと思うんですね。「それがあんたの一番求めていることだろう?」と。「俺にはわかってるよ」と。
 「だから、お前さんが人にありのままの自分を受け入れてもらいたいのと同じように、お前さんも人のことをありのままに受け入れて、いろんな不完全さも含めて大切にしておやりよ」ということではないかと思うんです。
 そしてイエスは、そういうことを教えながら、実際に人を不完全であったり、醜かったり、病んでいるままで、受け入れて大切な人間として丁重に扱ってくれていたのではないかと思います。
 そういう「愛され経験」を積み重ねてゆくと、人は「自分は愛されて良い人間なのだ」と思えるようになってきます。そうなって初めてその人は、本当に意味での「自己愛」というものに目覚めるのではないかと思うんですね。
 さらにその人は、自分を飾ったり誇ったりする必要がなくなりますから、以前より自由に生きることにができるようになります。これが本当の「人間解放」ですね。
 そういうことを、イエスは、この短い言葉を通して教えてくれたのでしょう。

▼愛された人として

 最初に私は自分が自己愛性パーソナリティー障がいだと言いました。
 これは本当の自分を愛していないために、愛されそうとして躍起になり、自分のことばかり過剰にピーアールする性質があり、そのために人間関係を破壊し、かえって孤独に陥り、歳をとるにつれて誇るものがなくなって虚無感に落ち込み、孤独に死ぬしかなくなる心の病気だと言いました。
 しかし、ありのままの自分でいいんだと自分を受け入れ、何も特別なことができなくても、特別かっこうがよくなくても、特別面白い人間でなくてもいいんだと、イエスの言葉や教会の人たちとのつながりの中で気づかされるうちに、だんだんと楽になってきました。
 また、自分の欠点や失敗によって、過剰に自分を責めるのではなく、悪いことは悪い、申し訳ないことは申し訳ないということできちんと謝罪をすればいいのだと思うようになりました。少なくともそのようなことで、「自分なんか死んでしまったほうがいいんだ」とか「自分なんかいないほうがいいんだ」と思うようなことはなくなりました。
 またやがて、これが思いの外大事なことですが、特別な魅力があるわけでもなく、どちらかと言えば欠点の多い他人についても、そのままでなかなか面白い人間じゃないかと愛おしく思えるようになりました。
 「まあこの人も色々問題があるけれど、この人も神に愛された大切な人間なんだな」と思うことで、過剰に自分と比較することなく、ありのままに自分なりにその人を大切に思うということが以前よりはできるようになりました。
 「人ひとりを大切にする」ということは、ありのままの自分を大切にするということから始まるのだな、ということが分かりました。
 ですから、ここにいらっしゃる皆さんの中で、もし不器用にもがきながら自分はもっともっと他人から見て魅力的で有能でなくてはいけないとしんどい思いをしている人がいたら、ぼくはその人にこそ言いたいと思います。
 「無理をしていない、かっこ悪いあなたがそのままでいいんだよ」と。
 そして、どうしたら人を愛せるようになるのかと悩んでいる人がいるなら、その人に言いたいと思います。
 「そいつもそのままで神に愛された作品なんだろうから、こちらもそいつのありのままを大切にしてやろうじゃないか。まずはそれからだよ」と。
 肩の力を抜いて、みんなで自分のありのままを自由に生きてみませんか?
 みんなの幸せを願って祈りたいと思います。
 





Clip to Evernote

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール