私たちはどこまでも赦されています

2015年10月18日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約16分間
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 マタイによる福音書18章21ー35節 (新共同訳)
 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。
 ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。
 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」


 
▼無条件の赦し

 今日の聖書の箇所も有名なエピソードで、主人が家来の負債を帳消しにしてやるというお話です。他の福音書にもこのお話は載っています。
 ルカによる福音書には、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、ゆるしてやりなさい。1日に7回あなたに対して罪を犯しても、7回『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(17:3-5)という言葉があります。
 ルカの場合は「悔い改め」というものが必要なんですね。
 これに対して、マタイの方は特に「悔い改めが必要だ」などとは言っていません。
 ペトロがイエスに「先生、おらに罪を犯す奴は、何回までなら赦してやって、何回以上だったらこらしめてやったらよかんべ? やっぱり7回くらいまでですかいの?」と質問した時に、イエスは単に「おまえさんにしっかと言うておくけどな。7回どころか、7の70倍まで赦せ、な」と答えたという話ですね。
 7の70倍というのは、別に490回までなら赦してやれということではないですよね。要するにどこまでも、何回でも赦せということです。
 しかも、マタイがいうには、ルカで言っているみたいに、イエスはいちいち何度も「悔い改めます」と言いに来たら、なんて条件はつけていません。
 ルカは「悔い改めれば」という条件付きですが、マタイは無条件の赦しを伝えています。
 どちらがイエスの言葉に近いのかといえば、それはもう明らかで、イエスというのは突拍子もない方ですから、例えば当時天罰だと思われていた人にも、無条件で「お前さんはもう赦された!」と言って回った人ですから、「悔い改めなんかいちいち必要ない。おまえさんはもう赦されている」と言い切ったであろうことはまず間違い無いでしょう。ているんですね。

▼とにかく無限に赦せ

 そして、マタイさんはイエスのたとえ話を続けていってますね。
 王様が家来たちに貸したお金を全部帳消しにしてくれる話です。ところが、王様が家来の負債を帳消しにしてくれているのに、家来どうしでの金の貸し借りで許してやらないとは何事か。それを赦さないのならそんな奴は牢屋行きだというお話ですね。
 そしてその結論は35節にあるように、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父のあなたがたに同じようになさるであろう」と。
 これ、ちょっと脅しが入ってますよね。神様が罰を与えるかも知れないから、あんたたちは赦し合いなさい、というのも何だかケチくさい話で、そんなことまでイエスは言ったのかな? ちょっと疑問に思います。
 おそらく、もともとイエスの言葉だけが単品で伝えられていて、その後から物語が付け加えられたんでしょうね。
 そういうことはちょくちょく行われていたようです。まだ発掘はされていませんが、「イエスの言葉集」と呼ぶべき資料があったことは確実だとされていて、多分そこからの引用、そしてそれにエピソードが付け加わるという形で編集されているわけです。
 もしそうなら、今日の聖書箇所で核となるのは、22節の、「しっかとあんたに言うておくけどな、7回どころか7の70倍赦せ」という短いイエスの言葉、これがまず聞いた人々の記憶に残ったんでしょうね。
聞いた人は、「えらいことを言うもんだな、この人は」と驚いたでしょうね。
 何かと口を開けば「天罰」だの「自業自得」だの「地獄行き」だの、そういうことばかり言っていた世の中で、「そんなことはありえない」とイエスさんは言い切ったんです。
 イエスさんがまず「わしはあんたを赦す」と言っていたから、「あんたらもどこまでも人を赦しなさい」と言ったんですね。

▼裁きが解放になる

 ぼくはある人から質問をされたことがあります。
 「じゃあ、最悪、人殺しはどうなるんだ。たとえば身内を殺された人は、それでも赦せと言うのか」と。
 ぼくはその時、ちょっと質問の意味を逆にとらえてしまっていて、「殺人犯でも赦されているのか」と聞かれているように受け取ってしまっていたんですね。質問をしている人は、被害者の立場で質問していたんですが、ぼくは加害者の立場で聞いてしまったんです。
 そこで答えました。「そーりゃ、赦されとるやろう」。
 ぼく自身の中では、自分が赦す以前に、自分のこれまで犯してきた罪が赦されているかどうかが一大事だったんで、ついそっちに関心がいってしまったんですね。
 それで、「どんな罪を犯した人でも、神さまは赦してくださっているだろう」と答えました。
 するとその質問をした人にもう一度言われました。「そうじゃなくて、犯罪を犯した人はそのままにしておいていいのか?」と。
 なるほど、確かに「なんでもいいよ」ということであれば、世の中に犯罪が蔓延して大変な事になってしまうかもしれません。
 だから人間の社会には法というものが必要なのでしょう。
 では、そもそも法とは、法律とは何のために生まれたのかというと、最初の法というものは、これは個人的な復讐をやめさせるためのものだったんですね。人が何らかの罪を犯す。被害者が出る。そこで法によっていかに賠償をさせるかとか、いかに責任を取るのかということを明確にしておかないと、個人的な復讐が始まります。そして、個人的な復讐というものはだいたいどこでもどんどんエスカレートしてゆくものですね。「倍返し!」という言葉が流行ったことでもわかるように、だいたい復讐というのは自分が受けた痛みより大きな痛みを負わせてやれ、ということになりがちです。
 もう復讐や報復がどんどんエスカレートして暴力と殺戮の連鎖ということになってしまって、にっちもさっちもいかなくなってしまった民族紛争や宗教紛争の例はいくつもあります。
 ですから、本来の法というものは、犯した罪に対して、これだけの償いをすれば責任を果たしたと見なす。それ以上勝手な復讐をしてはいけないし、それなりに法で定められ、裁かれた責任を果たせば、その人はもう何のお咎めも受けない。それが法というものの原点です。
 ですから、法というものは、きちんと責任を果たしたら、その人はもうお咎めなし。解放されるというものです。この場合、「裁き」というものは最終的に人間を解放するために必要なものです。

▼私の与えた命を生きなさい

 しかし、人間には罪の意識というものがあります。いくら裁きを受けて責任は果たした、あるいは責任を果たしつつあるし、ここまで果たせば解放されるということがわかっていても、人間として、人道的に自分を赦せない人もいるでしょう。
 そのような人のために神は、「人がどんなにあなたのことを責めたとしても、神はあなたを赦している」ということをイエスを通して人間に伝えてくれたのではないでしょうか。
 少なくとも、どんな大きな罪を犯したとしても、神はあなたが誰かに責められることを望んではいない、ということを伝えてくださっているのではないでしょうか。
 あなたは、どんな状態にあっても、大切な存在であり、あなたにあなたらしく生きていってほしいのだということを、神はイエスを通して私たちに言ってくださっているんですね。
 ですから、キリスト教の信仰に立てば、死刑廃止ということになろうかと思います。どんな罪を犯した人でも、その人の命を奪ってしまったら、裁かれた後、生きてゆくこともできない。また償いの人生を送ることもできない。そもそも、死んでしまった方が楽だと思われてしまう人もいるでしょう。
 「それでも私が与えた命なんだから、生きなさい」と神は言っておられるのですね。

▼人の裁きと神の赦し

 さて、さらにはこういう人に相談を受けたことがあります。
 「どうしても赦せない人がいます。身体にも心にもひどい傷を与えられました。これを教会の牧師に相談すると、「聖書には『7の70倍赦しなさい』と書いてあります。ですから、あなたは赦さなくてはなりません」と言われてしまいました。しかし、私は到底納得がいきません。あの人を赦せということは、私に自分を殺せと言っているようなものです。このような私の気持ちをあの牧師はわかってくれないのです!」と。
 確かに、赦せないほどの傷を与えられた人に、一方的に「赦しなさい」と強制することは、被害者の心を破壊してしまいます。たとえば、レイプやセクシュアル・ハラスメントなどの被害を受けた人に、「それをあなたは赦さなくてはなりません」と要求して傷にカラシを塗っている教会や牧師も多いんですね。
 こういうことを相談されたなら、みなさんならどのように答えますか? あるいは、この中でも既に被害を受けた人もいるかもしれません。その場合、どのように考えますか?
 私の頭には模範解答は浮かびません。
 しかし、恨みがいつまでも残ってしまうというのは、それは正しい法の裁きが行われていないということが原因の場合も多いのではないかと思います。裁きがないからこそ、加害者も責任を果たすことも償うこともできず、被害者も感情的な恨みばかりが残って、自分自身の心をも、傷つけてしまうのではないでしょうか。
 法の裁きがもし適切に行われておれば、私たちは被害者、加害者共に償いによって解放される可能性があると、ぼくは思うのですがいかがでしょうか。
 そして、被害者も加害者も、同じ人間である限り、同じように神に愛された神の子どもです。それだけは間違いありません。たとえ償いの人生に終わったとしても、生き続けて欲しいと神は願っておられるのではないでしょうか。
 どんな罪や過ちを犯した人でも、またこれから犯すかもしれない人でも、みんな神さまに大切に思われている大切な、生きて行くべき命であることは間違いないと思います。
 人間社会による裁きは必要。しかし、それを超越して、神はすべての人間を赦して愛している。そのように私は考えているのですが、皆さんはどのようにお思いになりますか?
 本日の説き明かしは以上とさせていただきます。
 





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