雑草のようにいまを生きる

2015年11月1日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約16分間
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説き明かし19分間 + 分かち合い33分間 = 52分間

 マタイによる福音書6章25-34節 (新共同訳)
 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」


 
▼3つのイエスの言葉

 おはようございます。
 今日もみなさんと一緒に聖書を読み、共に分かち合うことができますことを心から感謝しています。
 さて、今日の聖書の箇所はよく知られているところです。
 よく知られているところですけれども、どうも3種類のイエスの言葉が組み合わされているような印象を受けます。
 25節の
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」
 という文句と、
 31節の
「 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」

 という文句。この2つは、その間の部分をサンドイッチのように挟んでいますが、こういうのを聖書の言葉の「枠構造」って言うんですね。これはマタイさんなどは特に好んで使う編集方法ですので、どうもこの間にはさまれた部分とは、もともとは別の言い伝えだったんだろうと考えられます。
 では、サンドイッチの中身はというと、26節から30節の、
 「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」

 というところですね。
 そして、3つ目のイエスの言葉は、最後の部分ですね。
 
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」
 これらは、もともとは別々の状況で語られたイエスの言葉であろうと考えられるわけですが、マタイさんがなぜこの3つを組み合わせたというと、やはりこの3つの言葉に共通するテーマを見つけたからだろうと思います。

▼今を生きなさい

 この3つの言葉の中で、「何を食べようか、何を飲もうか」と思い悩むな、というのは、読み方によって、貧しい人が「何を食べたら良いのか、何を飲んだら良いのか」と悩んでいるようにも受け取ることができるし、逆に豊かな人が「何を食べようかしら、何を飲もうかしら」と贅沢な悩みを口に出しているように受け取ることもできますが、まあどちらの意味であったとしても、マタイさんは32節のところで「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」という言葉でまとめようとしているんですね。
 ですから、若干違和感がある組み合わせ方のようにも感じますけれども、マタイさんの意図としては、多分「空の鳥を見てみなさい、野の花を見てみなさい」、「天の父はあなたがたに必要なものをご存知だ」、「明日のことを思い悩むな」という3つの言葉の組み合わせから、「まずは今日を生きることを考えなさい。今を生きることを考えなさい」というテーマを伝えようとしているのかなと思います。

▼過去で人を縛り付ける人たち

 イエスのこの「今を生きよう」という姿勢は、その当時の彼が生きていた世の中の指導者・宗教者たちとは随分違ったものだったんですね。
 例えば、祭司や律法学者といった人たちが、当時の社会を治めていたわけですが、こういう人たちは律法で人を取り締まる立場の人たちですよね。
 具体的に言うと、「罪」ということに非常にこだわる人たちです。
 罪にこだわるということは、「今を生きる」ということとどう違うかというと、「今」ではなく、その人の「過去」に目を向けているということなんですね。「今までお前は何をやってきたのか」と。何をしてきているからお前は罪深いのだと。そして、その罪の結果、そのような病気になってしまったのだとか、悪霊が入ってしまったのだとか。
 あるいは先祖が罪を犯したから、そのようなしょうがいのある体になったのだとか、そのような貧しい、人から蔑まれるような仕事のカーストに生まれてしまったのだとか。そういうことを言っていた。
 「過去の罪を問う」という点で、人間を過去に縛り付ける発想の持ち主だったわけですね。それで今を生きようとする人間を束縛するわけです。過去を理由にして裁かれてしまい、しかもそれが神が罰を与えたと言われてしまうわけですから、もう裁かれた本人としてはどうにも反論のしようがないという状態に追い詰められるんですね。
 神が赦さない限り、と言っても実施には祭司が認めないと罪が赦されたかどうか判定できないことになっているので、祭司が赦さない限り、居場所も与えられないような人たちがいたわけです。
 そのような人たちは「神から遠い」、「神から離れている」と宣告されることで、ありのままの人間として生きることを否定されていた人たちです。
 神という存在が当たり前だった時代の人たちからすれば、自分が神から見放されたということはもう絶望しかないわけですね。今生きているこの世においても居場所はないし、死んでからも地獄の火で焼かれるしかないと思っているわけです。

▼未来に期待を先延ばしにする人たち

 これに対して、例えば洗礼者ヨハネや、その他の預言者たちは、未来志向の人たちと言えます。
 「未来志向」というと、ちょっと言葉が綺麗すぎますけれども、要するに、今の世界はもうどうしようもないから、未来に神さまがなんとかしてくれることに期待するしかない、という考え方をした人たちです。これも一種の絶望ですよね。
 当時のユダヤ人は、ローマ帝国に占領されて自分たちの国を持つことも許されず、高い税金も取られ、ローマの兵隊の暴力にも逆らうこともできず、踏んだり蹴ったりで、今の沖縄のような状況だったんですね。
 そこで、なんとかこの状況を変えたいけれども、もはやユダヤの大祭司や祭司長たちなどの指導者は、ローマから派遣されてきている総督のピラトと手を組んで、完全に傀儡政権になっています。操り人形ですね。そんなことではユダヤ人は自分たちの生き方を全うできない。
 人間としてできることはもうないんだ、ということになると、もうあとは神さまが介入してくださるのを期待するしかない、ということになります。
 すると今度は、神さまが来させる「終わりの時」に備えて、ちゃんとした生活をしていない者はダメだという風に人々に警告を与えるようになります。
 イエスが最初に弟子入りした洗礼者ヨハネもそんな預言者の一人ですね。
 「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3:8)、「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて火に投げ込まれる」(3:10)ということを言うわけです。未来の裁きを警告しているわけですね。
 そういうわけで、祭司や律法学者たちは過去の罪で人を裁くし、預言者たちはこれから先、罪を犯したら裁かれるぞ、という風に人を脅かすし、どちらにしても罪と裁きで人に重荷を課す発想というか、ネガティブ思考ですよね。
 これに対してイエスはどうだったのか。

▼ポジティブ思考のイエス

 イエスは、過去の罪や未来のための悔い改めということに、あまり関心がなかったようですね。
 例えば、先ほどの洗礼者ヨハネの言葉を紹介しましたけれども、ヨハネなんかは「良い実を結べ。良い実を結ばないと切られて火に投げ込まれるぞ」(マタイ3:10)と言うわけです。
 ところがイエスは、今日の聖書の箇所のマタイ6章30節を見ると、
「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってください。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(マタイ6:30)と言っています。
 片やヨハネは「火に投げ込まれる」ということを未来の裁きの意味で言っているわけですが、片やイエスは「炉に投げ込まれる野の草であってもね」と、神さまに愛されておるんだよ、と話してくれているわけですね。ヨハネのネガティブ思考と、イエスのポジティブ思考がはっきりしています。
 しかもイエスのポジティブ思考というのは、いわゆる「向上心を持とう!」とか、「成功を目指して!」というちょっと無理に幸福や成功を目指す意味でのポジティブ思考ではなくて、要するに「炉に投げ込まれる野の草」というのは雑草のことです。我々はどうせ雑草みたいな明日は炉に投げ入れられるようなそんな存在だけど、そんな我々でも神さまはあのソロモン王よりも大事に思ってくださってるんやで、ということを明るく言ったわけですよね。
 野の花を見なさい、と言うから何か特別な美しい花というわけではなくて、その辺の道端で咲いている名前もわからないような花で、雑草として刈られてしまうようなもんだけど、それでもそこで咲かせれるだけの花が咲かせられたら、それで神さまに感謝しようやないかということです。

▼道端の花のように

 野の花と言いますと、ぼくも花が好きで。しかし花の名前を覚えるのは苦手で、名前も知らないままに、ただ花の写真を撮ってFacebookに投稿したりしています。
 学校の中で、携帯を取り出して、かがみこんで、通りすがりに見つけた花の写真などを撮っている教師なんて、うちの学校には他にいません。ちょっと変な教師です。
 しかし、もう定年でお辞めになった先生ですが、ぼくがそうやって道端の写真を撮っている姿を後ろから見つけて、「花を撮っておるのか」と声をかけてくれた人がいました。
 そして次に言ったのが、
 「花は人を裏切らんからな。ウシシシシシ!(笑)」
 その先生が今までどんな人生を歩んでこられたのかわかりませんが、今のぼくには痛いほどわかるような気がします。確かに、人は裏切りますが、花は人を裏切りませんね。
 私の母親も、「花はちゃんと応えてくれるからなー」と言っています。ちゃんと水をやり、肥料をあげて、そしてマメに様子を見ていれば、植物はきちんと応えてくれますね。
 そういう意味では草花は過去の罪にとらわれることもなく、未来の裁きを恐れることもなく、ただ今を一心に生きているのでしょう。
 イエスはそんな道端に咲く雑草の花のような人間でさえ、神から大切に思われていない人はいないんだよ、と伝えたかったのだと思います。
 皆さんはどう思われますか?

 
※この説き明かしは、大阪教区の学習会での上村静さんの講演録にインスパイアされたものです。
 





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