突風のような人生だけれど

2015年11月22日(日) 

 日本キリスト教団枚方くずは教会 主日礼拝 宣教

約24分間
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聖書と宣教=24分間

 マルコによる福音書4章35-41節 (新共同訳)
 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
 激しい突風が起こり、船は波をかぶって水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。
弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。」と互いに言った。


 
▼イエスが共にいなければ

 今日の聖書の箇所はよく知られているエピソードだと思います。
 弟子たちがガリラヤ湖を渡っている時に、突風にあって小さな船が転覆しそうになって慌てふためいている時に、イエスは船の後ろの方で寝ている。弟子たちがイエスを起こすと突風が静まって、みんな命拾いをする、というお話です。
 福音書の中にはこれと似たようなお話があって、イエスがいない状態で船を出している時に、やはり嵐にあって転覆しそうになったとき、イエスが湖の水の上を歩いてきて、嵐を静めたというお話があります。

 こういう出来事が事実として起こったと考える人もいます。
 でも、おそらくここに書かれたとおりのことが起こったというわけではないだろうと私は思っています。
 イエスが嵐に向かって「静まれ」と命令した。すると嵐は収まった。やはりイエス様は神の子だ、素晴らしい、それならそれで終わりです。
人が嵐に向かって「静まれ」と言ったところで、そして人間が水の上を歩いたところで、私たちの人生にどんな意味があるというのでしょうか。
 そもそも、この似たような「イエスは寝ていた」という話と、「イエスが湖を歩いてきた」という、この2つのお話がもとは同じ話だったのか、それとも別の出来事だったのか、ということです。この2つの話はあまりにも似すぎています。ひょっとしたら、実はもともと1つのお話だったのが、いろんな場所で、いろんな人によって口伝えで伝えられているうちに、よく似た別のお話になって、残っていったのではないか、と考えられるわけです。
 どっちが元の話に近いのか、イエスが寝ていたパターンなのか、それとも歩いてきたパターンなのか。どちらがオリジナルか。それはわかりません。
 しかし大事なことは、私たちが嵐にあっているときに、イエスがそばにいなければ、私たちは転覆してしまう。でも、イエスがともにいれば、転覆しないんだ」というのが、物語の骨の部分ではないかと思われるんですね。

▼水を制する人

 ある学者によれば、これはペトロらを中心とした弟子たちが、初代の教会で信徒に人々に話した説教が元になっているのではないかと言います。
 ペトロたちは、信徒たちの間で語ったのだろうと。
 「私たちの教会は船のようなものです。船が突風にあって、翻弄されているとき、もしイエスの存在を見失っていれば、もしイエスが共にいなければ、私たちの船はあっという間に転覆してしまうのです。しかし、イエスが共にいれば、私たちは平安を得て、安心して船を進めて行くことができるのです」と。
つまり、これは船と嵐とイエスの言葉というたとえ話であろうというわけです。
 そのように考えられる理由は他にもあって、この物語を伝えたのも、イエスもイエスの弟子たちもみんなユダヤ人でしたが、ユダヤ人にとって、偉大な人物というのは水の力を征するというイメージがあるのですね。
 たとえば、ユダヤ人の民族解放の父であるモーセは、エジプトから民を脱出させるとき、葦の海の水を割って仲間たちを向こう岸に連れて行くことができました。また、ヨシュアがカナンの地に入るときに、ヨルダン川を渡るときにヨシュアは川の水を割って進みました。
古代の人たちにとっては、海や川の水の力というのは、人間の力ではコントロールしきれない恐ろしい力であるように思われていたので、それをコントロールできる方というのは、普通の人間ではないという捉え方をしていました。そこで、イエスも水の力を制御する方に違いないという思いでペトロの説教を聞いて、やがてこの水を制するというたとえが現実の出来事のような話になって伝えられていったのだろうと考えられるわけです。

▼ペトロの人生

 ペトロはどういう思いでこのような説教をしたのでしょうか。
 ペトロの人生は激動の人生だったように思えます。
 イエスに出会わなかったら、というと言葉が悪いかもしれませんが、イエスと出会わなかったら、ペトロは平穏無事に漁師の仕事をしながら一生を終わっていたかもしれませんよね。
しかし、イエスに出会って、イエスに魅せられて、イエスの弟子となって、旅の人生に参加することになりました。
 そして、病人の手当てをするイエスの手伝いをしたり、貧しい人と一緒にする食事の用意をしていたりして、人々に喜ばれ、歓迎されているうちは良かった。
けれども、そのうち祭司階級などの支配者にイエスが社会を混乱させる危険人物という風に見なされて、律法学者たちにも敵のように見なされて、非常に厳しい、命のやりとりもしかねないような緊張関係をはらんでいくと、そんなに居心地の良いものではなくなっていったはずですよね。
 そして、最終的にイエスが逮捕されて、処刑されるという場面になって、本当にペトロは恐ろしかったと思います。ペトロだけではありませんけれど、男性の弟子たちはみんな同じ政治犯の仲間として捕まる可能性があったわけですから、必死に逃げますよね。
その上に、ペトロは他の弟子たちよりも恥ずかしいことに、イエスのことを3回裏切った。「知らない」と言ってしまったことが明らかになっています。そのことが後の教会の中でも、公になってしまっているという、こんな恥ずかしいことはありません。
 しかしそれでももう一度集まってキリスト教会を立ち上げてやっていこうということになって、そのリーダーシップを取ってゆくというのは、なかなかしんどいことであったと思うんですね。
 もともとイエスという人がユダヤ教の中で異端児として殺されていったわけですから、そんな人間の弟子として、ユダヤ人社会の中で生き延びて、それでもイエスの教えや活動を続けてゆくというのは、かなりな綱渡りであったと思います。
 そして、結果的にペトロの運営したキリスト教会は、あまりユダヤ教と見分けのつかない、具体的にはユダヤの律法を忠実に守ることを強調する、非常に男尊女卑の体質も強いですし、ユダヤ人以外の人とは交流しないとか一緒に食事などしないという、要するにイエスがやっていたことと似ても似つかないものになってしまった。
そういうペトロの教会に対して、現代の聖書学者からも批判が聞かれることも多いのですが、まあ私は個人的な思いとしては、ペトロもペトロなりに初代教会を生き残らせるために必死の運営をしていたのではないかと想像するわけですよね。

▼起き上がるイエス

 そういうペトロの気持ちの想定しながら、この物語をもう一度読んでみたいと思います。
 35節、イエスは「向こう岸に渡ろう」と言います。ユダヤ人である彼らにとって、ガリラヤ湖の反対側に渡るということは、異教徒の土地に乗り込んでゆくということです。ユダヤ地方やガリラヤ地方のユダヤ人にとって異教徒と接触を持つということにはかなり抵抗がありました。しかしイエスは、その異教徒の土地へ行こうと決意する。つまり異教徒と交わりを持とうとします。
 36節には、「ほかの舟も一緒であった」と書いてありますから、ペトロの教会だけでなく、いくつもの教会が、ユダヤ人ばかりを相手にするのではなく、異邦人のところにも交わりを求めていこうとしたのでしょう。
ところが、激しい突風がおこって、舟の中が水浸しになって転覆しそうになった。そのときイエスは眠っています。
 弟子たちは必死になってイエスを起こします。すると39節に「イエスは起き上がって」と書いてあります。
この「起き上がって」というのは、実は「復活して」という意味で使われる言葉です。そもそも日本語で「復活する」という訳し方をされている言葉は、実はことごとく「起き上がる」とか、「起こされる」と言うのですね。
 ですから、ここの部分、舟の後ろの方に眠っているイエスを起こしてみると、イエスが起き上がって……というのは、弟子たちがすっかりイエスの存在を忘れたままで教会を進めていると、様々な抵抗や試練に遭って、教会はグラグラになってしまった。しかし、慌ててイエスのことをおもいだして、必死になって「イエス様、助けて下され!」と祈り求めたならば、そこにイエスは復活して私たち再び平安を得て進むことができたのだよ……そのような話をペトロは人々に話して聞かせたのだろうということなのですね。

▼突風の中を漕ぎ切ろう

 その後の部分はおそらく、この福音書を書いたマルコさんの付け足しです。マルコはこの12人の弟子たちによる教会にいつも批判的なんですよね。ですから、「あの12弟子たちはいつもイエスのことを忘れて全然違うことをやっては右往左往している。イエスに「まだ信じないのか」とかいわれても、相変わらず「この方はどなたなのだろう」などと言っている。あいつらはイエスのことなんか全然わかってないのだ、マルコさんは言ってるんですね。
 まあしかし、教会がこの世で舵取りをしてゆくというのは大変なことです。またペトロ個人の人生のことを考えても、気の毒なくらい激動に満ちていて、混乱したり不安に陥ったりすることも多かったでしょう。
 そんな中で、イエスのことを忘れては右往左往し、慌てて思い出しては「助けてください」と祈りを捧げるその姿は、どこか私たちとも相通じる部分があるのではないでしょうか。
 そして、そのたびに、イエスに「まだ信じないのか」と叱咤激励されて、また「やれやれ」と頭をかきながら生きてゆくのではないでしょうか。
 「向こう岸に渡ろう」というイエスの呼びかけは私たちにチャレンジを要求するものです。今まで自分が安住していたところから出て行きなさいと、また、自分たちがよく知らない人たちのとこに出て行きなさい。敵だと思っている人たちと和解し、平和を作りなさいと言うわけですからね。楽ではないのです。
 でも、それを可能にしてくれるのはイエスなんだということを思い出したいと思うのです。イエスが生前、どんな風に人と人の境界線を乗り越えていったかを思い出そう。そして、今の私たちの間にイエスを再び起き上がらせよう。そうやって、この突風の吹き荒れる世界を漕ぎ切ってゆこうじゃないか。
 そのように、この弱いペトロの説教を通じて教えられるとおもうのですが、みなさんはどのようにお感じになりますでしょうか……。

祈りましょう。





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