召使いになることで自由になる

2015年12月6日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 アドヴェント第2主日礼拝 説き明かし

約28分間
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説き明かし28分間 + 分かち合い35分間 = 63分間

 ルカによる福音書1章26−38節 (新共同訳)
 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。


 
▼アドヴェント

 アドヴェントの時期を迎えました。ろうそくに灯がともり、少しずつ喜びの時が近づいてくるのを予感し、楽しみになってきます。
 世の中にはクリスマスの祝賀ムードが溢れています。それに細かくケチをつける気はありませんが、教会では、過剰にお祭り騒ぎをする必要はなく、教会における一年の始まりをしめやかに迎える心の備えを静かにしてゆきたいと思っています。

 さて、この聖書の箇所はおなじみのマリアへの受胎告知の場面です。
 ナザレという、当時の人々の間でもそうパッとしたことのない村であるナザレにマリアという少女が住んでいて、その少女のもとにガブリエルという名の天使が現れて、「あなたはすでに妊娠している、そのお腹の中の子は偉大な人と呼ばれ、神さまは彼にユダヤ人の支配者としての地位をお与えになるだろう」と言います。
 マリアは「自分はまだ結婚もしていないのに、そんなことがありましょうか」と問い返すのですが、ガブリエルは「神にできないことは何一つない」と言います。そこでマリアは「私は主の召使いです。お言葉通りこの身になりますように」と答えます。

▼1世紀に生きた少女

 ここでのマリアは14歳頃の少女であっただろうという推測がなされています。
 別に聖書にはそんなことは書いていないのですが、当時の社会では思春期の間に結婚をするのは当たり前、場合によっては思春期の前に結婚させられることもあったので、このマリアという少女が実在していたならば、おそらく通常通り思春期の間にいいなずけとの結婚の準備をしていたのだろうと推測されているのですね。
 ルカによる福音書は、広くギリシア・ローマの世界の人々に向けて書かれています。ということは、当時のギリシア・ローマの文化に対して、キリスト教徒の行き方はこうだよ、という考えを示すという役割も担って書かれているということです。
 当時のギリシア・ローマの社会では、深刻な女性不足と、それによる人口の減少が問題になっていたそうです。それというのも、女性の地位があまりにも低くて、子供を産む以上には価値が認められず、家の中でも女性を多く育てるということは望まれておらず、せいぜい育てても1人。2人目にも女の子が生まれた場合は、生まれてすぐに生ゴミとして捨てられることが多かったというのですね。
 それから、妊娠の中絶もよく行われました。子どもを育てるということが男性たちにとって喜ばしくないものとされたので、少子化が進んで行ったんですね。
も ちろん今のように医学が全然発達していなかった時代ですから、今ここで口に出して言うのも憚られるほど残酷な方法で中絶が行われ、子どもをおろすどころか、子どもも母親も両方知ってしまうことが多かったんですね。
 それに対して、このルカによる福音書は、キリスト教徒は、期待していなかった妊娠をした場合でも決して中絶はせず、産んで育てるんだという意思表示がここでなされている、と読むことができます。
結婚する前に妊娠するということはタブーです。しかも望まなかった妊娠です。しかし、ユダヤ人は子どもを大切にし、一生懸命教育するということは有名です。結婚前に妊娠することも一応は禁じられていましたが、それでも実際には婚約したもの同士だったら中絶せずに産むということだったようです。
 ただ、この物語では生物学的な父親はヨセフではないので、これが発覚したら、マリアは離縁されて路頭に迷うか、石打ちの刑に遭わされるかだったでしょうね、マタイによる福音書に書かれているように。
 ましてや、このルカによる福音書の読者であるギリシア・ローマの人々にとっては、このマリアの妊娠は当然中絶だなと思うような出来事だったでしょう。夫の望まない妊娠だったわけですから。
 ところが、マリアは与えられた運命を受け入れて、与えられた子供を出産することを決意します。
 これは、あまりにも軽く扱われるローマ帝国での女性や子供の命を守ろうという初期のクリスチャンの姿が重ね合わせて描かれているのではないかと考えられます。

▼レット・イット・ビー

 マリアは、「私は主の召使いです。お言葉通りこの身になりますように」と答えて自分の運命を受け入れます。
 この「お言葉通りこの身になりますように」という言葉が「Let it be to me according to thy saying.」という英語の聖書の言葉から来ていて、それがビートルズの「レット・イット・ビー」に取り入れられた……という伝説がありますが、それが本当のことがどうかはわかりません。
 というのもこの「Let it be ….」という英語を使っている聖書は非常に珍しくて一般的な聖書の訳ではなく、本当にポール・マッカートニーがこれを読んだのかなというようなバージョンなんですね。ですから、ビートルズについてはちょっと疑問が起こりますが、とにかくマリアは「私は主の召使いです。お言葉通りこの身になりますように」と言って自分の運命を引き受けようとします。

▼耶蘇の奴隷

 「私は主のはしためです」、「私は主の召使いです」という言葉を読むとき、私は自分の勤め先の学校の創立者である新島襄のことを思い出します。
 新島襄という人は、まだ鎖国中の時代に日本を脱出してアメリカに行ったという、幕府の時代では密航を行った犯罪者になるわけですが、彼がアメリカで勉強している間に、日本では明治維新が起こり、新しい政府が立ち上がります。そして、彼の脱国罪は免除になります。
 さらに彼は、明治政府に役立つ人間として、日本から来た使節団と一緒にヨーロッパを視察して回るという機会を与えられます。
 その視察旅行で彼が補佐をし、通訳や記録係などを務め、友人となったのが田中不二麿という文部官僚です。田中不二麿は新島の優秀さと教育への情熱に惚れ込み、ぜひ一緒に文部省で日本の教育制度を作り上げる仕事をしようと誘います。
 ところが、新島はこの誘いを断ります。といいますのも、彼がアメリカで学んだのはいずれも私立の学校であり、自分が建てたいと思っているのも、国家の制約や支配を受けない、自主独立の自由な学園であったため、自由を何より重んじる彼は、私学、それもキリスト教を教育の土台に置いた私学を作ることしか考えられなかったわけです。
 一旦は新島と田中は別れ、田中は日本に帰国しました。そして学生の改革に取り組みます。新島は神学校での学びを続け、牧師となり、宣教師として日本に帰ってきます。
 帰国の挨拶を文部省の田中にしに行った時に、田中は非常に喜んで、彼の私邸に新島を呼んだそうです。そして大晦日も近い頃、二人は一献酌み交わしました。といっても、新島はアメリカでのピューリタン的な生活の中で、お酒は飲まなくなっていたんですけどね。
 その場でも田中は、何度も何度もしつこく新島を文部省の官僚にならないかと誘ったそうです。しかし、新島は誘いに感謝しながらも、決して首を縦に振りませんでした。
 そこでついに業を煮やした田中不二麿は、「もう勝手にしろ。君は耶蘇の奴隷じゃ!」と言ってあきらめたそうです。

▼修道者の誓願

 「耶蘇の奴隷」……。
 これほど新島を喜ばせた言葉はなかったでしょうね。
 と言いますのも、新島はアメリカでのクリスチャン・ライフの中で、「耶蘇の奴隷こそ、真正の自由者である」:「イエスの奴隷こそ、本当に自由な人間だ」という信仰を身についていたからなんですね。
 なぜイエスの奴隷になることが、実は本当に自由な人間となるのでしょうか。
 普通、自由な人間というのは、時間的にも経済的にも満たされていて、何をしてもいい、何をしなくてもいい、好き勝手に生きるのが自由だと思っている人が多いと思います。
 しかし、それは実はこの世の誘惑や自分の中の欲望・感情などに支配された結果を生きているだけということが多く、そういうのは本当の自由とはキリスト教では考えないのですね。
 これはカトリックや聖公会の司祭、修道士、修道女の3つの誓願を参考にするとわかりやすいと思います。
 3つの誓願というのは、「清貧・貞潔・従順」です。
 ある修道者の解説によりますと、まず……
 (1)「清貧」とは、お金からの自由ということです。これはただ貧しいのが良いということではなく、「足るを知る」ということです。修道者の人たちも毎日食べるものも困るような生活をしておられるわけではないのですね。教会から食べるものはちゃんと与えられているし、それ以外に例えば自分の研究をするためとか、ちょっと必要なものを買うためのお金は申請すればもらえる予算もあるのです。ただ、お金を目的に生きることはできないのですね。そして、自分の持っているお金が多いか少ないかにとらわれることもなく、自由です。
 (2)「貞潔」というのは、他者からの自由です。もちろん貞潔というと、結婚をしないで性的な関係を持たないとか、結婚をしても他の人と性的な関係を持たないとか、形の上では決まっているわけですけれども、その形が目的なのではなく、そのような方法によって、人間関係に束縛されることから自由になるのですね。よく、恋に落ちた人に対して、「恋の虜になってしまった」とか「あなたに首ったけ」とか言いますけど、要するに恋愛感情によって結局自分の自由を奪われてしまったり、理性的な判断を失ってしまったり、人間に対する依存症になってしまったり、色々必ずしもハッピーではないこともあるわけですよね。例えばそういうこと一つ考えただけでも、人との関係に縛られることからの解放ということを、「貞潔」という言葉は表します。
 (3)3つ目は「従順」ですが、これは自分からの解放です。それも同じ人間に対する従順ではなく、神への従順です。すでにお金や他者から解放されている人間に対して、最後に自分を縛るのは自分自身です。自分の感情によるヘイトや暴力による争い、自分の名誉欲や金銭欲の虜になって働く虚しさ、支配欲によって他者の自由を奪い、操作することに喜びを得る愚かさ。こういったものから自由になり、自分は神のためにのみ奉仕するのだという姿勢です。神に奉仕するということで、自分にも他者にもとらわれず、純粋に奉仕することができるという考え方なのですね。
 そのような、お金からの自由としての「清貧」、他者からの自由としての「貞潔」、自分からの自由としての「従順」。一見、奴隷的に自由を奪われているようでいて、実は世の中の全てから自由なんだというのが、クリスチャン的な理想なわけで、それと似たような感覚を持っていたから、おそらく新島襄は「君は耶蘇の奴隷じゃ」と言われて帰って嬉しかったんでしょうね。

▼マリア

 そこでまたマリアに戻ってきますが、ここで、彼女はやはり全てのことから自由になって、神さまの召使いとして自分を捧げるということで、本当の自分の生き方を手に入れたと入れると思います。
 そして、この福音書を書いたルカさんは、このようなマリアの姿を、当時のギリシア・ローマの人びとに対して、クリスチャンという者たちの生き方が、いかにあなた方と違うか、ということをも訴えようとして書いたと思われるのですね。
 先ほども申し上げたように、当時のギリシア・ローマの人々、ローマ帝国の人々は、あまりに男性の支配権が強かったので、あまり子供を作ることが望まれなかったし、中絶堕胎が非常に多かった。医学の発展していない、しかもあまり衛生的ではない時代ですから、非常に乱暴なやり方をして、母子ともに死ぬことも多かった。また望まない妊娠で生まれた子供が殺されることも多かった。特に女の子は捨てられることが多かった。そのことで、ローマ帝国は深刻な女性不足に見舞われ、人口の減少に歯止めがかからなくなっていた。
 ところがクリスチャンたちは、イエスに倣って女性の立場を大切にし、妊娠や出産を喜びあるものをして大切にしたので、人口が増えていったのですね。そのことがローマ帝国においてクリスチャンが力を持つようになってきた一つの原因とされています。
 マリアは、クリスチャンの女性が神の奴隷として生きることで、実はこの世のあらゆる事情、偏見、支配などから自由になることができることを示すシンボルのような存在です。
 神の与えた命を、たとえ夫との子ではなくても、大切に産み育てるという決断ができる、子供も大事に育ててもらえる、それがクリスチャンの共同体なんだと証するのがルカの意図ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 私たちも、清貧・貞潔・従順ということを、完璧には達成できなくとも、そのような考え方によって、この世から自由なものとして生きる道があるのだ、ということを心に留めておいても良いのではないでしょうか。
 本日の説き明かしは以上とさせていただきまか?





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