人間になる。教会になる。

2016年1月10日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 新年礼拝 説き明かし

約22分間
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説き明かし22分間 + 分かち合い23分間 = 55分間

 マタイによる福音書15章1−5節 (新共同訳)
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。


 
▼幹を離れては実は結べない

 新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 本日の聖書の箇所も、よく知られている言葉です。そして、私たちの教会のあり方をよく表している言葉でもあると私は思います。
 例えば礼拝の中で、この後でも聖餐式が行われますけれども、聖餐式で私が式文の中にある「私たちを一つにし」とか「私たちの絆」と言った言葉を使う時には、今日の聖書の箇所に記されているように、「イエスがぶどうの木であり、私たちはその枝なんだ」ということを心の中に思い浮かべるようにしています。
 そして、教会そのものが大きな一つのぶどうの木で、イエスという幹につながって、皆すべての人がそれぞれの枝としてそれぞれの生きている場所に伸びてゆき、それぞれの実を結んで行くような様子が、私の教会の象徴的なイメージなんですね。
 その大元になるのが、今日の聖書の箇所です。
 しかし、細かく読んでゆくとちょっと気になる部分もありますね。
 「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」とか、あるいは「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」とか、あるいは「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」といった警告めいた言葉も混じっています。
 「実を結ばなければ取り除かれる」とか「実を結ぶことができない」というのはどういう意味で言っているのか。解釈する人によって、どんな意味に受け取るのかはまちまちです。
 私自身は、このぶどうの木というのは教会、すなわちイエスの弟子としてイエスにつながって生きていこうとしている人の群れのことを指していると思いますので、ここでいう「実を結ぶ」というのは、別にこの世で有名になるとか、能力を生かして成功するとか、そういったこととは関係のない話だと思っています。
 教会において、またイエスの弟子たちにおいて「実を結ぶ」というのは、神さまが農夫として育てて世話をしてくださった者として実を結ぶということですから、豊かに愛の実を実らせていますか? ということなのではないかと思うのですね。
 教会が、そして教会に属する者たちが、それぞれの生きている場所で、それはたとえそれぞれバラバラの場所でもいいんです、ぶどうの木というのは幹から離れていろんな方向に枝を広く広く伸ばして行きますので、ある人は医者として、ある人は会社員として、ある人は福祉の仕事をし、ある人は家庭人として、我々自身もそうですが、それぞれの持ち場において、豊かな神さまの愛の実を実らせていますか? という問いがここの聖書の箇所には込められているのですね。

▼アメイジング・グレイス

 明日の徳島分区大会で私たちは、ゴスペルを2曲メドレーで歌うことになっていますが、ゴスペルというのは、もともとアメリカのアフリカ系の人々の教会から生まれてきた独特の讃美歌です。
 1曲は『アメイジング・グレイス』と、もう1曲は『ウィー・シャル・オーヴァーカム』ですよね。どちらもアフリカ系アメリカ人の解放をはっきりと歌ったゴスペルです。
 最近ではアメリカのオバマ大統領が講演の中で、この『アメイジング・グレイス』を歌ったことで非常に話題になりました。最近アメリカでは人種差別が再び表面化して、黒人への虐殺事件が相次いで起こっています。その追悼の会場で大統領が講演の最中で急に沈黙した後、突然この『アメイジング・グレイス』を歌い始めたんですね。その場は熱狂的な合唱に包まれたそうです。
 大統領のパフォーマンスだと言えばそれまでですが、それにしてもこの『アメイジング・グレイス』という歌が、どれだけアフリカ系アメリカ人の心を揺さぶるかということを、オバマ氏は非常によくわかっていたということですね。
 この『アメイジング・グレイス』の歌詞を書いたのは、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、ジョン・ニュートンというイングランドの人です。イングランドの白人がこのゴスペルの歌詞を作ったと聞いた時は私も意外に思ったんですが、この人は元々アフリカからアメリカやヨーロッパに人を連れて行く奴隷運搬船の船長だった人なんですね。
 しかし、奴隷を運ぶ航海の途中で嵐に巻き込まれて難破し、命を落としそうになった時に、神が私に対して怒っておられるのだと思うようになったのですね。そして、その危機を乗り越えて命を取り留めた時、彼は奴隷貿易に手を染めるのはやめて、この『アメイジング・グレイス』の詩を書いたと言われています。

▼ろくでなし

 その歌詞の出だしの部分は……“Amazing grace, How sweet the sound, that saved a wretch like me.”となっています。日本語では「素晴らしき恵み」とでも言いましょうかね。「素晴らしき恵み、なんという甘い言葉の響きだろう。それはこんな俺みたいなろくでなしをも救ってくださった」と訳せます。
 “wretch”というのは、あまり上品な言葉ではないんですよね。「ろくでなし」とか「最低な奴」というような意味です。「自分みたいな最低な奴を、神は救ってくれた!」と言っているんですね。
 この歌詞はもちろん最初はジョン・ニュートン自身の罪の自覚と悔い改めのことを書いているんでしょうけれど、その後、自分のことを「最低だ」とか「死んじまった方がいいんだ」と思っている人、例えば、自分が加害者で罪深い存在だと知った人だけではなくて、それこそ差別を受けたり虐待や暴力を受けて「もう生きていたくない」、「いっその事死んでしまいたい」と思っている被害者の人の心も打ったんでしょう。だからこの歌が黒人教会の歌に取り入れられていったのであろうと思われます。
 「ろくでなし」、「最低な奴」、「生きているのがアホらしいような奴」、アメリカで黒人はそういう思いを抱かされていました。奴隷というのは家畜と一緒ですから、人間としての扱いを受けていなかったんですね。彼ら彼女らは、何のために生まれてきたのか我が身を呪ったりした人もいたでしょうし、「ろくでなし、ろくでなし」と言われている間に、自分はどうせろくでなしだと思うしかなかった人もいたでしょうし、もうそういうことを考えるのも嫌になってしまった人もいたと思います。
 そういう風にしか自分を思えなくなってしまった人間は、もう人間らしさ・人間性を失ってしまった生き物であり、すでに人間とは言えません。

▼人間になる

 ところが、アメリカでキリスト教を学んだ黒人たちは、誰が最初に英語の文字を読めるようになったか知りませんし、教会での話を聞くうちに次第にかもしれませんが、徐々に聖書のメッセージに触れるようになります。そして、実はイエスは自分たちのような「人間ではない」とされていた者たちこそ招いておられるのでないか、そして、「おまえは間違いなく人間なんだよ」と呼びかけておられるのではないかということに気づいてゆきます。
 自分は人間なんだ! 自分は神に愛された神の子どもなんだ。そのことをイエスは私たちに教えてくれる。私たちは罪深い存在だから、奴隷になったのだと白人に教えられてきた。しかし、今やイエスによって罪は洗い流された。私たちは誇り高い、人間なのだ!
 そのような思いが、例えばこの『アメイジング・グレイス』の「こんな私みたいなろくでなしをも救ってくださった!」、まさに「素晴らしい恵みだ! アメイジング・グレイスだ!」という叫びに重なってゆきます。他のゴスペルでもそんな歓喜にあふれた歌が沢山あります。
 神さまにつながり、私は神さまが愛してくれている大切な人間だから、決してぞんざいに扱われる筋合いはない。あなたも神さまが愛してくれる人間だから、絶対に大切に扱われなくてはいけない。それが確かだと確信できれば、それは大いなる救いです。
 人間ではないという扱いを受けていた人が、人間として扱われるようになる、それがイエスによって伝えられた神の救いです。
 そして、互いに人種も性も宗教さえも超えて、共に人間であることを喜びあい、共に食事をし、交わりを分かち合うのが、イエスの言う「神の国」なんですね。
 伝道するとか、宣教するとか、宣べ伝えるとか、神の国を広げるとか。そういうことは、この人間であることの喜びと感謝と愛の結び合いを広げてゆくことに他ならないわけです。

▼教会に行くのではなく、教会となる

 さらに私はインターネットの中で、こんなスローガンの言葉を見つけました。ネットの中には、このような言葉をアートのようにデザインしてみんなと共有するという作品がよく流れています。これはそのようなワードアートの一つなんですが。
 何が書いてあるのかというと、「私たちは教会に行くことで世界を変えるのではない。教会となることで世界を変えるのだ」と書いてあるんですね。
 世界を変えるのは、教会に「行く」ことではなく、教会「となる」、あるいは教会「であろうとする」ことからでないと不可能なんだと言っています。
 世界を変えるというと大げさな物言いのように感じる人もいるかもしれません。しかし、「自分が変われば世界が変わる」という言葉もあるように、まずは自分が変わることによって、自分の周りの環境が変わってくるということがあると思います。一人でも多くの人が変わることによって、より広い私たちの」生きている場が変わってゆくでしょう。
 それはイエスが始めた神の国運動の継承です。神の国とは、誰一人のけ者にされず、すべての人の命が「生きていてよし」と受け入れられ、みんなが人間らしさに満ち、人間として生きることに喜びを感じるような世界です。
 そのような世界を少しでも広めてゆくために、私たちは教会から派遣されてこの世の様々な場所に散ってゆきます。
 つまり、教会に行くことが最終目的なのではなく、教会に集められた私たちが教会から派遣されて、教会が出かけて行って、それぞれの自分の置かれた場所で神の愛(あなたは愛されるべき神の子なんですよ、ということ)を、言葉であれ、行いであれ、証しすることが大事なのですね。それが、私たちが真の教会に「なる」、教会で「あろうとし続ける」ことなんです。またそれをやらなかったら、私たちは形の上では教会を名乗っていても、実際には教会に「なってない」ということになるんです。
 聖餐式で私たちがイエスというぶどうの木の幹につながる枝であることを確認した後、礼拝の最後は「祝福」と「派遣」ということが行われます。派遣とはすなわち、「どうぞ、この世へと出かけて行ってください」ということです。
 教会は私たちを「おかえりなさい」と迎えてくれます。しかし、礼拝が終わったら、私たちは「さあ、出て行きなさい」と送り出されるのです。そして、送り出されたそれぞれの場で、自分が神の国の種となって、出会う人に「あなたも神に愛された子なんだよ」という思いで接すつこと。それが私たちが教会に「なる」ということです。
 みなさんは教会から派遣される神の使い:神の国の種です。そのような自負、そのような気概を持ってこの世での生活を送っていきたいものです。





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