愛する前から、愛されていた

2016年1月24日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約18分間
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説き明かし18分間 + 分かち合い42分間 =60分間

 ルカによる福音書7章44−50節 (新共同訳)
 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。
 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。
 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。
 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。
 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。


 
▼罪深い女?

 本日お読みした聖書の箇所は、イエスがファリサイ派の人々と食事をしていた場面で起こったこととされています(ルカ7:36)。今日開いていただいている聖書の、朗読していただいたところからちょっと遡って、36節には「あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願った」と書かれています。珍しいことにイエスがファリサイ派の人から食事に誘われている。まあ、ちょっと評判になっている預言者のイエスという奴がいるらしいから、ちょっとどんな野郎か見ておこうか、とでもいうつもりだったんでしょうか。まあとにかく珍しい状況です。
 そこで、イエスも弟子たちも一緒に食事をし始めたわけですが、そこに、「一人の罪深い女」(37節)と呼ばれている女性が登場します。この「罪深い女」という呼び方は一般に売春婦、風俗の女性という意味で使われることが多かったようです。
 まあ売春婦ということに仮にしたとして、話が横道にそれますが、こういう人を罪深いということ自体が罪深いですよね。というのは、売春というのは、性行為をさせてあげることで対価としてお金を受け取る行為ですけれども、こういう人が営業の相手をするのは、性的欲求をもてあましている人か、性的な関係を持つ相手がいない人、そして場合によっては話し相手もいないような寂しい人の相手をしてあげるのも仕事のうちなんですね。非常に危険だし、きれいごとでは済まない仕事です。ある意味プロ意識を持たないと長くは続けられない仕事です。
 結婚をしている人でも、飽きたらずに売春婦を買う。それは裏切りの行為であり、罪だと考える人が多いです。その一方で、売春を禁止している国ほど離婚率が高い、売春を公認している国は離婚率が低いという調査をした人もいます。つまり、結婚生活の不満を売春というシステムが吸収している。つまるところ、売春が結婚制度の維持に役立っていると、そこまで言う社会学者もいるくらいです。
 そうはいっても、売春婦が立派な職業だと言う人は公にはほとんどいません。けれども、もし体を売る人を罪深いと言うのなら、買う人も同じように罪深いと言わなくてはいけませんよね。性行為とお金を等価交換しているわけですから、どっちかが一方的に悪いというのはおかしいです。麻薬を売ったら犯罪だけど、買って吸っても犯罪じゃないなんて言っているのと同じですよね。
 ですから、だいたい売春している女性だけを「罪深い女」なんて呼ぶこと自体がおかしいんですが、まあこの福音書を書いたルカも古代の男なので、そういう矛盾には気づかなかったのかもしれません。
 とにかく確かなことは、当時の社会では「罪深い」とか「汚らわしい」と言われていた人だったということです。

▼多くの借金を帳消しにされた者

 そして、37節以降を読んでゆくと、その女性が食事の席に入ってきます。香油の入った石膏の壺を持っています(37節)。そしてそれをイエスに後ろから近づき、イエスの足を涙で濡らして自分の髪の毛で拭き、その足に香油を塗りました(38節)。
 するとイエスを招いたファリサイ派の人は心の中で「この人がもし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな人が分かるはずだ。罪深い女なのに」(39節)と、つぶやきます。
 その瞬間、それを察したかのようにイエスが、シモン・ぺトロにたとえ話をします。このファリサイ派の人にわざと聞こえるようにしたんでしょうね。
 1人は500デナリオンの借金をしている、もう1人の人は50デナリオンの借金をしている。この2人の人が両方とも借金を帳消しにしてもらった。どっちの人の方が多く金貸しを愛するだろうか? という話をシモンにする。シモンは「額の多かった方だと思います」と答えます。するとイエスは、「そのとおりだ」と言います(43節)。
 それからイエスは、さっきの女性の方に振り向いて、さらにシモンに言います。それが先ほど読んでいただいたセリフです。もう一度読んでみます。
 「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。 
 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。 
 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。 
 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 (44-47節)。

▼多く赦された人

 これ、また本題からずれる話ですけれども、このシモンの言われ方はちょっと可哀想ですよね。
 「おまえの家に行った時、おまえ足を洗う水もくれなかったよな。それから、丁寧に挨拶もすることもなかったし……」といった言い方をされるわけです。まあ、無骨で不器用で、しかし根に持たない無邪気なシモンだからこそ、こういうからかったような調子でイエスもダシに使いやすかったんだと思います。
 「しかし、愛想のないおまえに比べてどうだ、この人は。私の足を涙で拭いてくれた。私の足にキスをしてくれた。そして香り高い香油を塗ってくれた。いい匂いだ」とイエスは言います。
 そしてさらに言う。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。(47-48節)。
 さて、イエスは「あなたの罪は赦された」と改めて言っていますけど、もうすでにその前の言葉で「この人は多くの罪を赦された」と言っていますね。イエスは改めて宣言をしただけであって、実はこの女性の罪はイエスが言う前から赦されているのだ、とイエスは思っているということです。
 この時、この女性自身が自分が赦されていると思っていたかどうかはわかりません。
 私は、この女性は「自分は罪深い人間なんだ」とイエスに触れるまで思っていたんじゃないかなと思います。自分は罪深いけれども、イエスだったら、自分の辛い生活、苦しい思いをわかってくれるんじゃないかと思ってイエスに憐れみを求めたのではないかと思うんですね。
 その行いに対してイエスは、「この人は、もうすでに赦されているんだ」と最初に言い切ってしまっているのですね。「この人は赦されているんだ。だからこんな風に人を愛せるんだ」と言い切ってしまう。
 イエスが赦す前に誰が彼女を赦しているのか、神がすでに赦している。そのことをイエス自身が確信を持って信じていたから、こういう風に言えたんですね。
 そして、周りの人が「この女は他の人よりも罪深い」と思っているから、わざと「あんたたちよりも多く赦されているんだ。愛された人ほど、たくさんの愛を人に与えることができるんだ」と、その人々に聞かせたんでしょう。

▼求めた時には赦されている
 
 さて、この女性の側から見てみると、さっきも申し上げましたように、おそらく自分は罪深い人間だと思っていたと思います。だからイエスに憐れみを請いたいと思って、その願いを込めた行為をしたんでしょう。
 すると、イエスはいきなり「この人は多く赦されたから、こんなに優しいことができるんだ」とみんなの前で言ったものですから、彼女はびっくりしたのではないでしょうか。自分は赦されたいと思ってイエスに近づいたのに、イエスはこれを全く逆転している「赦されているから、愛せるんだ」と言い切ってしまう。
 このあたりにイエスらしい意表のつき方というか、逆説的な言葉遣いの性質がよく表れています。
 この意表を突いた言葉によって、イエスは彼女が神に愛されていること、神に理解され、受け入れられていること、人が罪深いと思いがちな人ほど多く愛されているということ、そして彼女のしてくれたことへの感謝を全部同時に伝えたんですね。やっぱりイエスというのは天才だと思います。
 次は彼女が自分に向き合う番です。
 神もあなたを赦している。私もあなたが赦されていることは知っている。あとはあなた自身が自分を赦せるかどうかだよ、とイエスは言外に語っているのではないか。
 「赦し」とは何か。それはありのままの今の自分を理解し、受け入れ、大切に思ってもらえるということではないでしょうか。イエスはそんなことは当たり前じゃないかと言っている。あとは、自分が「私は今のありのままを神に理解されてもらっている。受け入れられている。大切に思われている」ということを信じるかどうかです。

▼あとはあなたが信じるか

 周りの人たちは、何もわかっていません。ですから「罪まで赦すこの人は、いったい何者だ」と考え始めた。人間の分際で罪の赦しを宣言するとは神への冒涜だとか、そういうレベルのことにしか気づいていません。
 しかし、イエスはそんな周囲の無理解をよそに、やっとこの女性に直接の言葉、ダメ押しの一言をこの女性に告げます「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(50節)。
 あなたはもう救われているというんですね。赦されたいという思いを抱いていること自体が、もう信じているということであり、そう思っていることはもうすでに神が知ってくださっているんだから、もうあなたは救われているんだよ、ということです。
 まだ彼女は自分が何を言われているのかわからなかったかもしれません。でもイエスは、そんな彼女に教えているんだと思うんです。「赦されたいと思っていただろう? もちろん全て神さまは赦してくださっているよ」とね。
 あとはこの人が「自分は神に愛されている。自分は堂々と生きていっていいんだ。安心して生きていけばいいんだ」と信じるだけであります。
 説き明かしは以上です。





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