空き家に悪霊が入り込む

2016年2月7日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約18分間
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説き明かし22分間 + 分かち合い32分間 =54分間

 マタイによる福音書12章43−45節 (新共同訳)
 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。
 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。
 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」


 
▼『悪の力』

 今日は、悪というものについて一緒に考えてみたいと思います。
 最近、姜尚中さんという方の本で『悪の力』という本を読みました。
 その本の中で、姜尚中さんは「魂に空白があるから、そこに悪が入り込むのではないか。そして、その空白を作り上げたのは、行き過ぎた資本主義ではないか」と言っておられます。
 昔は、大金持ちは貧しい人のために利益を還元して寄付をするという文化があったが、今はそれも失われ、ただお金を儲けることだけが目的になってしまった人間が、世の中を占めるようになってしまった。
 その上、金融資本主義が行きわたったせいで、自分で労働して対価を稼ぐのではなく、働かないでお金をただ転がして儲ける人も出現し、働いて稼いで食べてゆくという生き方そのものの価値が崩れていこうとしている。
 何のためにお金を儲けるのか、何のために働くのか、何のためにどうやって生きるのか……そのような問いを投げかけることさえも失ってしまい、ただお金を儲けることだけが目的のようになってしまった、空っぽの心が悪の入り込む隙を与えるのではないか……
 正確に著者がそう言いたいのかうまく要約できるかはわかりませんが、私には本を読んでいて、そのようなことが読み取れた気がします。

▼現実の悪

 この本の言っていることがすべて正しいかどうかはわかりませんし、資本主義そのものを全体的に批判する力が私にあるとも思いませんが、それでも、世の中にはまさにお金のためには悪に行う事を厭わない人もいますし、悪によってお金を儲けようとしている人々がいることは確かであり、その人々に世界の運命が左右されているということも確かに言えると思います。
 具体的に世の中が複雑に絡み合っている中で、どんな仕事がどんな業種と絡み合い、またどんな恩恵を受けているかもわからない中で、個人を攻撃することもおかしいし、あまり簡単なことは言えないと思いますが、例えば兵器の開発や売買というのは、端的に人の不幸の上に利益を上げる構造になっています。また、その商売のために多くの人の命が実際危険にさらされており、世界の運命も変わりうるという事は事実だと思います。
 兵器や武器というのは、いつでもその時代の最先端の技術が投入されますから、そのために莫大な費用が投入されます。それだけに製造会社も販売会社も膨大な利益を得ることができます。
 しかし、そこで作られ、売られているものは人殺しの道具です。人殺しの道具を製造し売買するのが一番儲かる。
 そして日本はこれまで武器輸出三原則というものがありましたが昨年来それを事実上撤廃して、日本製の戦闘機も作り、外国との軍事協力協定を結び、安保法制によって積極的に戦争に加わることのできる国へと大きく舵を切っています。
 経団連の人々からは、「日本が戦場になるのは困るが、世界のどこかで大きな戦争でも起こってくれた方が大変ありがたい」という発言も出ているといいますし、武器輸出三原則の撤廃も経団連の要求が大きかったようですね。
 端的に言えば武器や兵器がどんどん消費されて、人がたくさん死んでくれた方が、会社が儲かるから良いと言っている人が一定数いるということですし、それは大企業のトップだけではなくて、例えばそのような企業の末端の社員でも「それは仕方がない」と思っている人も多いでしょう。
 また、そのような兵器産業や武器商社に直接関わる人間だけではなくて、例えばそういう兵器を自衛隊が購入する場合は、その莫大なお金は我々国民から吸い上げられた税金から支出されているわけですし、そういう意思決定をしている政治家を選んでしまったのも国民の責任だし、回り回って考えれば、人殺しに加担していない人は一人もいないと言えるのかもしれません。
 ただ、そのことに「それでいいのかな?」と問題意識を感じるかどうかの違いは大きいと思います。

▼無自覚な悪

 多分、人殺しがいいことだと思っている人はほとんどいないと思います。
 おそらく目の前で人が機関銃で打たれてバラバラに引きちぎられたり、白リン弾に当たってブスブスと身体中が焼け焦げたり、そんな場面を直接見たい人はそう多くはいないだろう。見たいと思っていても、見たらもう二度と見たくないと思うもんじゃないかと信じたいです。
 でも、自分の見知らぬ場所で、自分が直接手を汚さない場所で、誰かが殺し合いをして、武器を消費してくれたら、それはお金が儲かるからありがたいと思っている人も少なくはないでしょう。
 悪というものは、そのように、実は平凡で穏やかな毎日の中で育まれてゆくもんなんだなと思います。
 自分は穏やかに毎日を暮らしているし、その穏やかさを破られたくはない。しかし、その穏やかな暮らしを支えるために、誰かが死んでいるということを見ないで済むようにしておきたい。
 見ないで済んでいるから、考えなくても良いし、考えないから自分が悪に染まっていることも自覚がないわけです。自覚がないけれども、これは、どす黒い悪である事は間違いありません。
 人殺しは悪い事だ、戦争は悪い事だ、そんな事はあまりにも常識的な事なので、誰も「人殺しは良い事だ、戦争も良いものだ」と表だって発言する人はいません。
 ところが、その常識を破って、あえて「戦争が起こってくれたらありがたい」と言う人が現れるようになってきている。こうなったら、もう頭が悪に乗っ取られていると言っても過言ではないと思います。
 くりかえしになりますが、そのような人が個人的に非常に悪人だということはないと思います。個人的にそういう政財界の人と私が人間関係があるわけではありませんが、たぶん個人的にいかにも悪人というわけではなく、周囲の人や家族を大切にする、一般に善良だといわれる人なのかもしれません。そう信じたいです。
 また、政財界の大物でなくても、「経済が回るためには戦争が起こる事も仕方がないだろう」とか、「国の命令ならば命を捨てるのも当然だろう」と思っている人が、個人的に悪人であるとか、人を痛めつけるのが好きとはいうわけではなく、日常生活においていたって温厚で柔和でいわゆる善良で平和的な人であったり、平穏な毎日が過ごせることを願っていたりするわけです。
 しかし、みんな悪い人であるというわけではないはずなのに、結局誰かが血を流したり、命を奪われたりすることを黙認し、その上で生きて行くのは仕方がないと思っている、あるいは実際にそうやって生きているとすれば、それは無自覚なうちに悪に手を染めているとしか言いようがないではないでしょうか。

▼己を虚しくする?

 今日の聖書の箇所では、イエスは「たとえある人から悪霊が出て行って、この人が自分の心の中をきれいにしたつもりでも、空き家のままだったら、また悪霊が戻ってくるんだよ」ということを言っています。
 たとえ本人が自分の心の中をさっぱり空っぽにして、きれいに掃除したつもりだったとしても、空っぽのままだったらあかんということですよね。つまり誰かが住まないと空き巣がすぐ入りますよ、と生活上の経験からイエスが人の心のことをたとえて言っているんですよね。
 じゃあ、自分の心、自分の人格という家の中に誰に住んでもらえばいいんでしょうか。
 模範解答的な話になってしまいますけれども、やはりしっかりと神のことを意識していかないといけないと思うんです。自分の中に神に住待っていただくという気の持ちようが大事ではないかと思います。
 先ほどから政治や経済のことを言ってきましたが、この社会を構成しているのは私たち個々人ですから、その個々人がどういうあり方で生きているかということが問われています。
 その個々人の心が空き家になってしまっていると、悪が入り込みますよ、とイエスは言います。
 日本人はよく「心を虚しくする」という言葉を言います。「己を虚しくして事にあたる」と言います。これ自体が悪いというわけではないのですが、本当に空の心で生き、そのまま掃除のされた心の状態で生きるというのは、とても難しいことではないかとも思います。たぶんそれなりの修行を積んだ人でないと無理なのではないでしょうか。
 そして、その本当の空の心で生きている人に一般人は敬意を払って、その人には頭を下げて、またお布施なり寄進なりして生きて行くのという、かつてはそういうことだったのではないかと思うのですが間違っていますでしょうか。
 けれども、その敬意や寄進の精神が失われてしまったところで、いたずらに簡単に一般人が「己を虚しくしましょう」といったところで、なかなか本当に空の心にはなれない。ただの思考停止で、思考停止した頭の中に即なものが住み着くものではないんだよな、とイエスは言っているのではないでしょうか。

▼虚しい心を乗っ取るもの

 あるいは、実際に世の中の多くの人の心の状態というのは、「己を虚しくして生きている」のではなくて、「空虚な心を抱えて生きている」と言った方が近いような気がするのですが、いかがでしょうか。
 空虚な心で、何の価値観も、何の目的も、生きる意味も見出せないままだと言って、悩んでいる人は案外多いのではないかと思います。
 私のところにメールで相談しに来る人、特に若い人の場合、そうやって自分の生き方が見失われてしまって困っている人が時々メールを送ってこられます。
 けれども、悩み続けるというのも結構力入ることではないかと思うんですね。悩み続ける力もなく、どこかで割り切って、考えることをやめてしまったり、それこそ、先ほどのように、簡単に「無の境地だ」などと言って、実際にはただの思考停止に陥ったりしてしまうと、結局はひとの気持ちというのは、自分では全く自覚のないうちに、その時代時代を支配している何かに乗っ取られてしまう。
 それが今という時代なら、お金になってしまっているのではないかと思います。お金をたくさん稼ぐ人が成功者であり、支配力を持つ者が勝者という価値観に、あまりにも多くの人が毒されてしまっています。
 それを防ぐには、神に「私の心の中に住んでください」という祈り続けることは大切ではないか。自分の中に宿る神というのは、要するに聖霊なる神のことですね。聖なる霊よ、私の中に住んでください、私の中を満たしてくださいと祈る方法です。
 あるいはキリスト教なら神だけれども、仏教なら仏性に宿ってもらうことを願い続けることではないでしょうか。
 あるいは特定の宗教にとらわれなかったとしても、「愛」というもので心が満たされることを願い続けるということは大切なことではないでしょうか。
 もちろん、そんなことを願っていても、完全な人間なんてものはありませんから、私たちはいつも物足りなかったり、失敗したりします。けれども、自分の心を空き家にしておくよりは、よほどいいもので満たしたいと願っておく方がマシだということです。

▼空き家より住み家

 再びイエスに話を戻しますが、イエスという人は、割と日常のありふれた光景の中に、神と人の関係や神の国のことを読み取って、たとえで人に話して見せたりする人ですよね。それも庶民によくわかる庶民的な生活がたとえの元になっていたりします。
 そこで、この「空き家のたとえ話」ですが、「空き家がきれいに掃除されていてもダメなんだよ」ということは、庶民が実際に暮らしている家の方がいいんだよということになりますね。
 で、だいたい庶民が暮らしている場所。それも貧しい庶民の暮らしている場所なんてのは、狭くて、ごちゃごちゃと物があって、何人もの家族がすったもんだしながら、笑ったり泣いたりして暮らしているもんだと思うんです。
 そこですね。神さまというか神の霊、聖霊が住み着く場所というのは。だって、神の愛を感じるというのは、やっぱり人の愛を通してでしょうから。
 ヴィクトール・エミール・フランクルという人がいます。ナチスの収容所に入れられていたのですが、奇跡的に生きて帰ってきた人で、日本でも『夜と霧』とか『それでも人生にイエスという』といった本が訳されていますけれども、この人が言った言葉に、「人は、自分の中の愛を目覚めさせてくれる人を愛する。愛の中に本当の自分を発見するから」というものがあります。
 「人は自分の中の愛を目覚めさせてくれる人を愛する。愛の中に本当の自分を発見する」
 僕流に言い換えると、人とのつながりがなくては、愛は目覚めることができない。そしてその愛を発見した人が本当の自分に気づく、あるいは愛することによって人は本当の人間になってゆくことができるんだということだと思うんですね。
 お金や権力の中毒者、欲望に乗っ取られてしまった人というのは、目の前で人が苦しむことや、目の前で人が喜ぶことに触れ合おうとしないことから、人の死によって自分の満足が得られるという生活にい続けられるのではないか。目の前で人が無残な殺され方を目の当たりにしてばかりの毎日を送れば、例えば武器を売り続けることなんてできなくなるのではないでしょうか。
 つまり、人との生々しいつながりを失ってしまうと、人のことはどうでもよくなるから、悪につけこまれて、入り込まれて、悪によって自己満足を続けることになってしまう。
 しかし、人とのつながりをしっかり持って、その喜怒哀楽を共にする暮らしがあれば悪魔は心に入ってこない。
 愛というものは、きれいに掃除の整った部屋に宿るのではなくて、実はごちゃごちゃした毎日の暮らしの中で、それでも私はあんたのことが大事よ、という関係の中に生まれるものだよと。
 だから、毎日の暮らしの中で愛を育むことを大切にしなさい。そうすれば悪霊に乗っ取られることもないだろうよ、イエスは言っているのではないかと思うのですがいかがでしょうか。





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