取り越し苦労はやめよう

2016年2月21日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約21分間
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説き明かし21分間 + 分かち合い35分間 =56分間

 マルコによる福音書13章3−13節 (新共同訳)
 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」


 
▼レントですが

 イエスの受難、苦しみを受けて殺されるまでの道行きを思い起こすレントの季節の真っ只中を私たちは過ごしています。
 私たちは、レントだからといって別段、断食をするでもなく禁酒をするでもなく、普段通りの生活をしていても良いですし、断食をしたほうが自分には良い、禁酒をしたいという人はすれば良いという風に考えております。どちらでも良い。どちらにしても自分の信仰が深められればそれで良いと思うのですね。
 何の行いをしたから義とされるというわけではないのですから、やる人はやる。やらない人はやらない。自分の良いと思うことをして毎日を過ごせばいいわけです。
 それに、エルサレムの町に入って逮捕され、十字架に向かうイエスの物語の中には、様々な言葉や出来事が書かれていますので、それら聖書の中の多様なメッセージを読み解くことで、様々な視点でこの今の時代や、その中での私たち自身の生き方を改めて考え直す上で、新たな刺激を受けることも大事なんですよね。
 そういうわけで、今日も聖書の言葉に取り組んでみたいと思います。

▼終末の徴

 本日のテクスト、マルコによる福音書13章3節から。
 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っていると、彼の男性の弟子グループの中の代表である4人が、ちょっとさかのぼって2節に書いてある「神殿を組み上げている一つの石も他の石の上に残らないくらい粉々に崩されてしまうぞ」とイエスが言った、そのことがいつ起こるのですかと質問します。
 すると、イエスはそのことが起こる時の様子を話し始めます。
 これ、1節から2節と3節が切り離されていますけれども、別に切り離さなくても話が続いているように見えますよね。でも、それをわざわざ切り離しているのは、この新共同訳聖書を翻訳した学者さんたちが、2節までと3節より後は別の伝承だなと判断した結果、切り離しているわけです。
 そして、どちらもイエス自身が本当に入って言葉かどうかはわかりません。私はどっちも違うのではないかなという気がします。
 1節から2節は、多分紀元70年にエルサレムの都がローマ軍に攻められて陥落した時に、神殿がボロボロに破壊された時のことを言っています。
 3節以降は、それよりもっと後の、おそらくこの福音書を書いたマルコさんが置かれていた時代、紀元70年ごろのキリスト教徒に対する迫害の様子を反映したものです。
 今日は、その3節以降を主題とすることにしました。なぜなら、この箇所で描かれていることは、今の私たちの置かれている社会状況と非常に似通ったものがあることを感じるからです。

▼カルト、戦争、天災

 イエスは言います。
 
「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」(5b-6)。これは、社会が危機に陥ると、私がイエスの再臨だ、もうすぐ世の終わりがやってくるぞと人々を脅すような宗教団体が出てくるということです。
 イエスの再来だと言われる教祖が開いた統一教会などを始めとするカルトが多くの日本人、特に若者を食い物にしていますが、この背景には価値観の多様化や生きる目的を見失った人が多くなるなどの、様々な要因があると思いますが、そのような時代に、人を惑わし、利用し、利益を貪る人が出てくるということは、すでにこの時代にもあったということですね。
 7節
「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。」
 この「そういうことは起こるに決まっている」という言い回しは翻訳としては適切ではないようです。「そうなるに決まっている」というとまるでイエスは、戦争が起こることを黙認しているようなニュアンスになってしまいますよね。ここはすんなりと、「そういうことはきっと起こるだろうが」と訳した方が良いそうです。
 このあたりも、経済的・政治的に行き詰まり、人々の不満も高まってくると、戦争を起こすことで打開をはかろうとする者が現れるということが、マルコの時代にもあったということがわかります。

▼終わりではなく始まり

 8節
「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」
 戦争と天災と人災があるということですよね。世の中がどんどん乱れて行きます。
 地震が起こると喜ぶ人がいるんですね。先ほども申し上げましたカルトやカルト的なキリスト教団体では地震が起こると世の終わりが近い、したがって神の国がやってくると言って喜ぶわけです。つい最近も、そうやって喜んでいる教会のビデオを私、見ました。
 とんでもないことですよね。何千人も人が死んでいる。赤ん坊からお年寄りまで、十人十色、百人百色の人生があって、体験があって、記憶があり、後悔もあり、しかし希望もあり……といったたくさんの人が一斉に命を奪われることを喜べる神経の人たちが信じている神と同じ神を信じたいとは、私は思いません。
 それに飢饉にしてもそうですけれども、地震が当時無かったかというと、そういうわけでは無かったのですね。別に珍しい現象では無かったんですね。疫病にしてもそうです。
 ですから、地震や飢饉があるたびに「この世の終わりだ」とみんなが考えていたわけではない。それに7節には「世の終わりではない」と言っているし、この8節では「それは産みの苦しみの始まりだ」と言っています。では、それは何を産み出すための苦しみなのか。

▼証しのとき

 9節から10節
「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」
 この「まず」というのもおかしな翻訳だと指摘している学者もいますので、これを削除すると、「あなたがたは……打ちたたかれる……証しをすることになる。しかし、福音が……宣べ伝えられなくてはならない」ということで、スッキリします。
 11節
「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」
 国と国、民と民の間に戦争が起こり、天災や人災が起こるとき、それが証しのときであり、福音が宣べ伝えられるときだというのですね。
 厳しい言葉だと思います。特に私のような臆病者にとっては。
 戦争の騒ぎ、戦争のうわさが流れ、戦争に突入して行こうとしているときに、証しをするとはどういうことでしょうか。それは平和を主張するということではないでしょうか。
 しかし、戦時体制に突入してゆく中で、平和を主張するということは、体制批判であり、国家の政治に抵抗することになりますから、当然、反抗者として尋問されたり、処分されたりすることもありうるでしょう。現実に私が生まれる前のことではありますが、そのように弾圧されたクリスチャンや牧師がいたことは何度も聞いていますし、ある意味、日本のキリスト教会が生き延びることができたのも、戦争に積極的に協力することによって弾圧を逃れたからですよね。
 ですから、この今日の聖書の箇所はそのような日本基督教団の過去を糾弾するような内容にもなっているわけです。

▼弾圧のとき

 11節から12節
「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」
 きっと政治が反キリスト的になってゆく時、その流れに流されてゆく人々からはキリスト者は非国民扱いされるようになってゆくでしょう。
 また、取り立てて、政治に対して反抗的ではなくとも、クリスチャンだというだけで、世間の冷たい目にさらされることも出てくるでしょう。
 私は普段、教育現場にいて、政府の教育行政の変化をもろにかぶって働いていますが、現在政府が3年後に義務化しようとしているとしている道徳教育の教科書を見ると、政府が「日本人の本来の宗教は神道である」という刷り込みを義務教育でしてしまおうとしているのがありありとわかります。
 今の内閣の大臣たちが、ほとんど神道議員連盟や日本会議のメンバーであることから見てもこれははっきりしていて、彼らは日本を神道の国として統一したいと願っているんですね。それに加えて、中国や北朝鮮から相手にされていないにもかかわらず、自分たちが狙われていると不安や敵意を煽って、国民を戦時体制のようなムードに持って行こうとしていますね。
 ですから、やがて私たちはキリスト者であるということを名乗り、キリストの平和を主張するだけで、石を投げられ、唾を吐かれる日が来るかもしれません。
 もっとも、私は非常に悲観主義的な性格で、未来の不安をひきつけようとするタイプの人間なので、「それは考えすぎだよ」と教えてくれる人がいれば、そうおっしゃっていただきたいのですが、かつてマルコが体験したことが、今起こってもおかしくないというか、自分が目の当たりにしたことが未来にも起こりうると考えて、未来の私たちに対して警告を発しているように私には思えるんですね。

▼取り越し苦労はやめよう

 11節に戻りますが、
「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」とあります。
 「ああ、何を言おうか。どうしたらわかってもらえるのか、どうしたら逃れられるだろうか」と考えるのは取り越し苦労ですよ、と言っているのですね。
 私などは、日々右翼的な考え方、そして戦争が絶対悪いこととは思っていない人たちに囲まれて、それをはっきりと口に出す人たちの間で、それとは違う平和を唱えることが仕事という場所にいますので、毎日毎日、何を言おうか、どう言おうか、と悩んでいるわけです。
 しかし、マルコはそれをイエスの口を通して「取り越し苦労だね」というわけですね。
 「教えられたことを話せばいい。何をしゃべるかは、あなたに宿り、あなたの中で働く聖霊から湧き出るままに口に出せばいいんだよ」と。
 それができたら苦労はしないよ、と思います。
 しかし、それができたら後悔はしないでしょう。
 マルコは「取り越し苦労はするな」と言っています。「深く考えすぎる必要はない。あなたの信じているままを言葉にするだけでいいんだ。あとは神さまに任せなさい」と言っています。
 さて、私たちは、これから先どのような危機があったとしても、神の霊の赴くままに、すべてを委ねて、導きのままに信じる気持ちを告白することができるでしょうか。
 そのために苦悩はするかもしれません。しかし、「まあそう深く考えるな。取り越し苦労はしなさんな」とも、こうして言われています。
 気楽な気持ちで、危機の中に自分を放り込むことができるでしょうか。





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