人は人らしく生きてください

2016年2月28日(日) 

 日本キリスト教団鴨東教会 主日礼拝 説教

約29分間
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聖書の朗読と説教=29分間

 使徒言行録8章26−36節 (新共同訳)
 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。
 フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。
 すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。
 フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。
 宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。
 彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」
 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」
 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。
 道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」
<底本に節が欠けている個所の異本による訳文>  フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。†
 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。


 
▼ガザにおけるフィリポ

 本日は鴨東教会の皆さんと共に聖書のみ言葉に耳を傾け、説き明かしができますことを心から感謝しています。
 さて、本日の聖書の箇所は、ここ数年、同性愛者を始めとする性的少数者の人々が何の問題もなく神に受け入れられているということの証言としてよく引用される箇所です。
 まずフィリポという人物が現れますが、この人は初代のキリスト教会の中でも、特にギリシア語を話すディアスポラ:つまりエルサレムからは離れてあらゆる地域に散らばって生活しているユダヤ人、あるいはユダヤ人以外のいろんな民族の人たちに伝道するために選ばれた福音伝道者ですね。
 それで早速フィリポは伝道旅行に出かけるわけですが、その時、主の天使に「ガザ方面に行け」という招きを感じて行くわけです。これはエルサレムからヨルダン川沿岸地区に近づいてガリラヤやシリア方面に抜け、最終的にはローマの都まで繋がる大きな通商路とは逆の方向で、確かに「寂しい道」、あまり人が行こうとしない道なんですね。
 しかしフィリポは、このあまり人のいない方向、例えばパウロなどが北方面の大都会を次々訪ねていくのとは全く逆に、南側の田舎のほう、荒れ野のほうに出かけて行くわけです。

▼エチオピアの宦官

 さて、フィリポが出会うのはエチオピア人の宦官です。
 最初のキリスト教はユダヤ教とのハッキリした境界線がありませんでした。ですから、例えばペトロのようなユダヤ教気質を持った弟子などは、ユダヤ人の食事の戒律も忠実に守っていましたし、ユダヤ人以外の人と食事をしたりすることも拒んでいました。
 そういうユダヤ教気質のクリスチャンなら、このエチオピア人の宦官には近づきたいとも思わなかったはずです。それは、まず彼はエチオピア人、外国人、つまり異邦人です。それから彼は宦官です。男性器がありません。ユダヤ教の律法には、男性器に異常がある者は共同体から追放しろという掟がありますから、彼は汚れた者として遠ざけなければならない……と、まだその当時、古い体質から抜けきっていないクリスチャンなら思っていたでしょう。
 しかし、”霊”はフィリポに「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と命じます。あの宦官と共に歩みなさいというわけです。
 
▼手軽な洗礼

 フィリポが宦官に近づいてみると、宦官はイザヤ書を読んでいます。イザヤ書53章の「主の僕(しもべ)」と呼ばれている部分です。ちょうどイザヤ書53章7節から8節のところを朗読しているのが聞こえてきます。これはイエスが十字架にかかって、人間の罪を贖ったという神学の大元になった旧約聖書の言葉です。
 それが何を意味しているのかを手引きしてくださいと宦官は言います。そこで、フィリポはイエスの生き様と死に様、そしてイエスの死が私たちにとってどのような意味を持っているのかを、このイザヤ書53章を基にして、熱く語ったのでしょうね。
 すると宦官は、すぐに水……おそらく道のそばを流れていた川の水を見つけて、「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何の妨げがありましょうか」とフィリポに願い出ます。「私はイエスのことを理解し、信じるから、もうすぐにでも洗礼を授けてくれ」と言うのですね。
 そこで、フィリポはすぐに洗礼を授けてあげました。教会の役員会に諮ったり、信仰告白を書いたり唱えたりすることもなく、即座にそこで洗礼を授けたのですね。
 洗礼というものが元来、いかにフリーでオープンなものであったかを示すエピソードではないかと思います。
 そして、フィリピはそこからまた別の、カイサリアという港町まで霊に導かれて行き、(この使徒言行録の後の方にも書いてありますが)自分の娘たちに預言者をさせて、自分の教会を運営するようになります。女性の預言者を中心に組織を作るということ自体が、その時代においては画期的でしたよね。イエスがその様子を見たら非常に喜んだことでしょう。
 残された宦官は「喜びにあふれて旅を続けた」とあります。
 人生の旅を喜びにあふれて生きてゆく。これこそが救いですね。そして、それを伝え、他の人にも喜びの人生に目覚めていただく。これが福音の伝道です。
 
▼境界線を越える

 こうして物語を振り返ってみましたが、この物語を簡潔に言い換えると、人間でなかった者が人間とされた出来事、とでも申しましょうか。
 宦官というのは、ユダヤ人及び、ユダヤ教から完全に脱却できなかったグループのクリスチャンからは、排除すべき者、人間とは思われない存在だったわけです。
 しかし、フィリポにとってはそんな律法による境界線は全く問題ではありませんでした。彼にとっては、宦官はありのままで生きている一人の人間として、神に愛された存在だったわけです。
 宦官はイザヤ書を読んで学ぼうとしていました。つまり、彼はユダヤ教のイエス派に関心を持っていました。しかし、当のユダヤ教からは人間以下の者として蔑まれる存在でした。
 しかし、フィリポは「そうではない」というメッセージをこの宦官に聞かせたのですね。「そうではない。あなたも大切な一人の人間なのだ」と。「あなたのためにもイエスは十字架にかかり、あなたの罪は赦され、あなたはもう晴れ晴れとした心で生きてゆけばよいのだ」と。
 この解放が救いです。そして解放のメッセージが福音であり、そのメッセージを聖書をもとに伝えようとするのが伝道であり、宣教です。
 人間でないとされた人に「人間らしく生きてください」と伝え、本当に人間らしく生きていただく。そして、伝えた本人も人間らしく生きる。それが宣教です。

▼人間でない者を人間にする

 人間を人間でない者とするという現象は、実はどこにでもあります。
 例えば、一つの例ですが、アメリカでは黒人はかつて人間とはされていませんでした。アフリカから生け捕りにされて、アメリカの農園で重い肉体労働を課せられ、鞭で殴られ、レイプされ、虐殺されても当たり前。黒人はかつてのアメリカにおいては人間ではありませんでした。
 しかし、南北戦争終結直後の1865年にリンカーン大統領の力添えによって成立した合衆国憲法修正第13条によって奴隷制は廃止され、続く修正第14条では元奴隷だった人の法の下の平等が求められました。つまり、1865年にアフリカ系アメリカ人は、人間として、人格として認められたんです。
 そして、この1865年の合衆国憲法修正に続いて、アメリカの歴史を変える大きな連邦最高裁判所の判決が、今度は2015年(昨年ですね)に下されました。同性婚は合憲である。つまり女性と女性、男性と男性も結婚する権利があるということを保証する判決です。
 ここに至るまでの道のりで、私は一つの象徴的な写真を見たことを鮮明に記憶しています。
 黒人と白人のカップルが1枚のプラカードを掲げています。プラカードにはこう書かれています。
 「そう遠くない昔、私たちの結婚も違法だった」。
 かつて人間とされていなかった黒人が、今は人間として結婚の権利を認められている。これまで、同性愛者は人間として認められていないが、人間としての当たり前の権利を行使できるように、再び歴史を変えようじゃないかと言っているのですね。
 そして、その運動は実り、今、次第に性的少数者の人たちは、隠れていた状態から少しずつ殻を破ってカミングアウトしつつあると同時に、世の中でもこの差別の問題をオープンに話し合える状況が作られつつあります。

▼日本でも

 では日本ではどうでしょうか?
 日本でも人間を人間として扱わないことは実にあちこちに見られており、さらにひどくなりつつある現象です。
 北朝鮮が憎いからと言って、全く関係のない在日の子どもをいじめたり、人件費がもったいないからといって格安の給料で、キツすぎる労働を人に強制したり、子どもの将来に勝手なレールを敷いて、親や大人の思った通りにしか生きてはいけないと精神的に追い詰めたり、家庭・学校・職場・地域にかかわらずセクシュアル・ハラスメント、パワー・ハラスメント、マタニティ・ハラスメントは日常茶飯事、性的少数者の問題などは、キリスト教会の中でも「神に反している」「生きているべきではない」などといった人格否定を、聖書に基づいて行っているんだと正当化しながら平気で垂れ流す人もまだまだたくさんいる状況です。
 それは目に見える殺人ではありませんけれども、そのような扱いを受けた人は「死にたい」「生きていたくない」「この世から消え去りたい」という思いにかられる人が少なくありません。そして実際に自死という道を選ぶ人もいます。
 人間を人間扱いしないということは、「死にたい」と相手に思わせ、しばしば自死を実行させるという意味で、殺人に匹敵する罪です。この罪を克服することなくして、信仰もへったくれもありません。

▼福音を宣言する

 この世には、「こんな世の中なら生きているのは嫌だ」と感じている人がたくさんいます。その人の心に響く言葉を語らなくて、何が福音でしょうか。「福音」とは良い知らせという意味です。「生きているのも嫌だ」と思っている人に、「いや、この世は生きる価値のある場所だよ」と根拠をあげて伝えること以外に大きな福音があるでしょうか。
 イエスは、キリスト教会という宗教団体を作って、信者を増やして、献金を集めて……といったことをした人ではありませんでした。
 そうではなく、イエスは人間ではないとされた人を人間にする、ただそのことにひたすら邁進していたんですね。
 イエスの生きた時代は、犯罪者だけではなく、しょうがい者も貧困者も女性も、神から見放された状態で生まれてきた、生まれつき汚れた存在だったんですね。だから不用意に近づいてもならないとされていました。
 しかしイエスはそういう人にどんどん自分から近づいて行き、一緒に食事をし、酒を飲み、話し、笑い、「神の国とはこのようなものだ」と宣言しました。
 イエスの福音というのは、「人とされなかった者」すなわち「人でなし」ですね。「罪人」というのは言い換えればそういうことです。そのような「人とされなかった人」を「人として迎える」:「神さまに愛された人として、私も愛する」ということだったんですね。
 今日お読みした聖書の物語に出てくるフィリポは、そのイエスの教えと行動を忠実に実践した人です。「寂しい道」つまり人があまり立ち入らない場所で「人ではない」とされた宦官を追いかけ、その人に洗礼を授けることで神の霊を注いで、「あなたは人なのだから、人らしく生きなさい」と、人間として復活して生きることを宣言したんです。
 宦官は「喜びにあふれて」人生を歩み始めました。
 私たちも一人でも多くの人に「喜びにあふれた人生」を歩んで欲しいと思いませんか?
 今日3度目に言いますが、それこそが福音です。良い知らせです。教会はイエスの言葉と行いを受け継ごうとするならば、今この世で「生きるのも嫌だ」と思っている人に、「生きたい!」と思う気持ちを伝えないといけません。「喜びの人生」を分け合おうとするものでなくてはいけません。そうでなくて、教会のこの世における存在意義があるでしょうか?
 「福音」を宣べ、伝えましょう。





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