私の中にいるペトロ

2016年3月6日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約20分間
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説き明かし20分間 + 分かち合い33分間 =53分間

 マルコによる福音書14章66−72節 (新共同訳)
 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペトロは、再び打ち消した。
 しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。


 
▼ペトロの裏切り

 イエスが苦しみを受けて、十字架にかけられるまでの、いわゆる受難の物語ですが、例えば尋問の場面などはほとんど目撃者がイエスの関係者の中にいるとは考えられないため、それらは事実の記録ではなく、後になって作られたものだということは何度かここでお話ししています。
 しかし、このペトロが3度イエスを知らないと言ったという話は、それが正確に一番鶏が鳴く前に3回だったかというかという細かい部分はともかくとして、かなり部分事実に基づいていると思われます。
 つまり、ペトロがイエスが処刑される前に、「俺はあいつとは関係ないんだ」と言ってしまったということ自体は事実であったかと思われます。
 というのも、のちのキリスト教会の代表者となり、さらにはローマ教皇の地位の元祖とまで崇められるようになった男が、こんな恥ずかしい失態を犯してしまったということを、その宗教の教典に残すということが非常に珍しいことだからですね。
 通常はこういう教典、あるいは聖典には、教団の指導者にとって都合の悪いことや、不名誉なこと、また弱々しいことは載せません。
 これはイエスの十字架においても同じことです。いわば教祖に当たるような人物が犯罪者として処刑されて終わりましたなどという話を教典に書くわけにはいきません。しかし、実際には書いてある。それはなぜかというと、イエスが十字架に架けられて殺されたということが、当時その地域に近く住んでいた者にとっては、誰でも知っているような周知の事実だったからです。
 同じように、ペトロのこの裏切りの物語も、ペトロの恥であるがゆえに、事実であったと考えられます。
 これが些細な出来事であったら、弟子たちの仲間内でもみ消された可能性もあったでしょうけれども、しかし、もみ消されるにはあまりに広がり過ぎてしまった噂であったに違いありません。また、ひょっとしたら、ペトロ自身が自分で教会の人々に自分の体験を凝縮して教会の人々に語った可能性もあります。
 同じ釜の飯を食い……と私たちは言いますが、彼らは同じ釜で焼いたパンを食べ、同じ樽から汲んだワインを飲み、宴会をやっては「これが神の国だ」と言って喜びと信頼を分かち合いました。
 そんな中で、ペトロはイエスに「一緒に死ななければならなくなっても、私はあなたを見捨てません」と言いました。その言葉は他の弟子たちも聞いていたでしょう。しかし、そのペトロが何度もイエスを「知らない」と言って裏切ってしまった。裏切ったからこそ、ペトロは生き残って、後にキリスト教を伝えることができたと言えるかもしれません。
 とにかくこのことは、ペトロ一人で隠しおおせるようなことではなく、弟子たち、そして初期の信徒にとってはよく知られた出来事であったので、福音書記者も、これを書かずに通過するということができなかったのであろうと考えられます。

▼裏切りという行為

 しかし、イエスを裏切ったのはペトロだけではありません。
 ユダはもちろんのことですが、ペトロだけではなく、男の弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げたんですね。最後の晩餐の後、歌を歌いながらオリーブ山に行ったはいいですけど、そこでイエスが血の汗を流しながら祈った後、イエスが逮捕される時、弟子たちは全員逃げてしまいました。
 後からペトロがノコノコ後から、イエスが引き連れられていった後をついていっていますが、これは逃げてどこかにこもっている弟子たちを代表して、様子を伺いに来たのかも知れませんね。自分たちが師匠を裏切ってしまった後ろめたさと、師匠がなんとか殺されずに釈放されて欲しいという儚い望みを抱いて、見つからないように警戒しながら追いかけてきたのでしょう。
 しかし、彼はいつもイエスと一緒に行動していた一番弟子ですから、当然顔が割れていたでしょうし、実際ここでまず人相で見破られてしまうわけです。「あなたはイエスと共にいたでしょう」と。そこで彼は、「俺はあんたが何を言ってるのかわからないし、そんな奴は知らない。見当違いに違いねえ」と逃げます。すると一番鷄が鳴きます。
 すると今度は、この話し方を聞かれて、故郷のガリラヤ地方の出身であることがバレてしまい、「確かにあの連中の仲間だ。ガリラヤの言葉をしゃべっているじゃないか」と指摘されて、「そんな奴は知らねえ。知らねえぞ!」と言って、呪いの言葉までブツブツとつぶやき始めた時に二番鷄が鳴き、ペトロはいよいよ感極まって、自分がイエスの予告した通りに裏切ってしまったことを自覚し、泣き伏してしまうのですね。
 この「イエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした」(72節)というところ。「いきなり泣き出した」とありますが、ここのギリシャ語は非常に訳しにくいそうで、他にも、「どっと泣き崩れた」とか、「身を投げ出して泣いた」などの翻訳があります。とにかく、非常にこの時、ペトロが激しく泣いたということがよくわかります。

▼不確かな生き物

 皆さんは人を裏切ったことがありますでしょうか?
 あるいは裏切られた経験をお持ちでしょうか?
 私は裏切ったことも、裏切られたこともあります。
 特に、神のみ前で約束したことを守り抜けず、そのことで、多くの人との信頼を失ったし、一時期は自分の生計を立ててゆく道さえ奪われそうになりました。
 しかしまたある時は、「俺は最後までお前の味方だからな」とはっきり言い切ってくれた人から、あっさりと裏切られ、私を教会から追い出そうとする敵に売り渡されたこともありました。
 その時は、怒りで顔から血が吹き出そうでしたけれども、自分が人を裏切ったことと合わせて照らし考えると、自分が人に合わせた痛みや屈辱も、そういうものだったのだろうなと思うしかありませんでした。
 自分が人を裏切り、裏切られ、行く道も絶たれて、もう自分の人生が終わってしまったと思った時は、大声で泣きたくなり、近所に聞こえてしまっては嫌なので、貧乏アパートの一室で、布団に顔を埋めて声が枯れるまで泣き明かしたこともあります。
 そんなことを、このペトロの記事を読んで、「身を投げ出して泣いた」という読み方があることを知った時に思い出しました。
 自分を基準にものを言ってはいけないとは思いますが、あえて言うならば、人間という生き物は不確かなものではないかと思います。

▼みんなイエスを裏切った

 聖書の物語に戻れば、繰り返しになりますが、イエスを裏切ったのはペトロだけではありません。イエスを裏切ったのは男性の弟子たち全員です。
 そして、その事件の約40年後、このマルコの福音書を最初に読んだ人たちも、クリスチャンに対する迫害の中にあって、自分たちがイエスを最後まで裏切らずに耐えることができるだろうかということを考えたでしょう。
 初期のキリスト教会の人々は、ペトロのことを他人事と捉え、「あんな風になってはいけませんよ」という意味で語り伝えたのではないはずです。また、「お前たちもペトロのようになってしまうかも知れないよ」という脅しでマルコが書いたのでもないはずです。
 マルコはこれに先立つ12章で、イエスがすでにペトロの裏切りを知っているのだということを描いています。
 イエスは、「ペトロよ、お前は鶏が鳴く前に3回私のことを『知らない』と言うよ」と言っています。
 これを読むことで、この福音書の読者たちも、迫害にあって、信仰を貫けなかった時にも、イエスはそのことをあらかじめ知っておられるんだと思って、慰めが得られたのではないでしょうか。
 そしてイエスは、最後までペトロたちを一切呪ってもいないし、最初から知っていた通りのことが起こったのであって、ペトロのことは最初から許しているのだということに、「ああ自分たちもイエス様に呪われたりなんかしない。神さまの罰もない。赦されているのだ」と、大きな支えを読み取ったのではないでしょうか。

▼私たちは……

 そして、現在の私たちが、もし困難な時に当たって、神を信じる気持ちを貫けず、「いやあ、私はそんなに大したクリスチャンじゃありませんし、よくわかりませんので、ははは。キリスト教のことのことは私に聞かないでくださいね」と逃げてしまった時、あるいは逃げたい気持ちになってしまっている時、そういう私たちの弱さもイエスは最初からご存知なんだということなんですね。そのことで私たちが自分のことを責めすぎないようにと、神さまがあらかじめ配慮なさってくれているわけです。
 また同時に私たちは、往々にして、人を裏切っているものです。多かれ少なかれ、自分を守るためには、誰かを裏切らずにはおれない場合もあります。
 守りきれなかった約束、応えきれなかった期待、負いきれなかった責任。様々な悔いを私たちすべてが持っていても不思議はありません。
 しかし、人間とはそういうものだとあらかじめイエスは知ってくださっていた。
 それは「何をやってもいいんだよ」という単純なものではありませんけれども、そして二度と人を裏切らない方が良いには決まっているけれども、しかし、大きく見て神の赦しの愛がそこにはあります。
 私たちは悔いを抱いていたとしても、その愛を信じて、何度でもやり直せるのではないでしょうか。





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