イエスよ、私を思い出してください

2016年3月20日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約22分間
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聖書朗読と説き明かし22分間 + 分かち合い30分間 =52分間

 ルカによる福音書23章39−43節 (新共同訳)
 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。


 
▼強盗と犯罪者

 これはイエスの受難の物語の中でも、かなり過激な記事の一つかもしれないと私は思っています。
 というのも、「イエスと一緒に犯罪者として処刑された人がすでにイエスと共に楽園に入っているのだ」と言っている、ということは、イエスと一緒に処刑されなかった、イエスの最も近かったはずの直弟子でもまだイエスと一緒に楽園に入っていないということになるからですね。
 ここにはイエスを見捨てた弟子たちに対する激しい批判が込められているように感じられます。
 十字架につけられているのは「犯罪者」です。
 これ、一番最初に書かれたマルコによる福音書と、それを下敷きに書かれたマタイによる福音書には、イエスの左右には「強盗」が十字架につけられたと書かれています。
 それに対して、同じようにマルコを下敷きにして書かれたはずのルカによる福音書には、「犯罪者」と書かれているのですね。
 もともとマルコに書かれていた「強盗」という言葉は、当時の政治犯に対して用いられる言葉でもあったようです。実際、ローマ帝国は帝国に反抗して武力闘争を企てる人間を処刑するのに、見せしめとして一番残虐な刑罰である十字架刑で殺したわけですが、これによって殺される人を人々は「強盗」という言葉で呼んでいたんですね。
 これに対して、ルカの「犯罪者」というのは、もっと意味が曖昧で、単に「悪い人」「悪いことをした人」という意味に薄められています。こういう人達と一緒にイエスは十字架につけられたと言い換えることで、ルカは、イエスがローマに対する反乱者として処刑されたのではないのだよ、と言いたかったのかもしれません。
 こういう言い換えは、これからローマ帝国の広い世界にキリスト教を広めていこうとする際には、ルカとしては配慮しておくべきだと思ったのかもしれませんね。ローマに対する反抗者が教祖でした、なんてことは言わないほうがいいに決まっています。

▼十字架につけられた事実

 しかし、それにしても裸にひん剥かれて十字架に釘づけにされて放置され、徐々に力尽きて死んでゆくという刑罰を受けるというのは、最も痛々しく、最も恥ずかしい死に方ですから、これを自分たちの活動の創始者が受けたというのは、キリスト教徒にとってはできれば隠しておきたいことだったでしょう。
 これでイエスの生涯が終わって、すべては終了しましたというのでは、とても福音書の物語を完結させるだけにはいかなかったでしょう。
逆に言うと、イエスの復活という栄光で物語を締めくくるという発想が出てくるまで、福音書という文学自体が書けなかった。少なくとも、イエスが亡くなってから40年かかったのは、そこまで「復活」という発想が根付くのに時間がかかったということでしょう。
 とにかく、いくら隠そうと思っても隠し通せないほど、誰にも知られてしまっていたのがイエスの処刑という事件であったし、また、いくら福音書記者が「ローマへの反抗者」というイメージを薄めるために「悪人たち」と一緒に十字架につけられたと言っても、イエスがローマにとって危険人物であると判断されたから殺されたということは変わりないのではないかと思われるわけです。

▼罪人と悪人

 しかし、逆に「罪人」と書かず、「悪人」と書いたところに、ルカの別の隠された意図があるようにも感じられます。
 私たちはよく「罪人」というのは、いわゆる私たちの現代社会で言うところの「犯罪者」とは違うんだよ、と解説します。
 ヘブライ語でもギリシア語でも「罪」というのは「的外れ」という意味で、神から遠く離れているという意味であると。
 もちろん犯罪者も含んでいるけれども、聖書の中の「罪」や「罪人」というのは、むしろ「神から離れ、汚れている」と、一方的に祭司階級や律法学者たちに判定され、裁かれた人たちなんだ。だから、羊飼いを始め貧しい人々は安息日の礼拝を守らなかったことでも「罪人だ」と責められたのだ、という解説をよくやるわけです。
 しかし、ルカはここで「悪人」、「悪いことをする人」という言葉を使っています。悪人がイエスと共に処刑されている。イエスは悪人と一緒に十字架の痛みを受けているというところが、この物語の大事なところです。
 そして、この悪人たちの一人が「お前がメシアだったら、俺たちと自分を救ってみろ!」と毒づくのに対して、もう一人の悪人は「俺たちは悪人だ。でもこの人は何も悪いことはしていない」と言って、イエスが悪人と一緒に十字架にかけられているのは、とても不合理なことなのだ、ということを宣言しています。
 ということは、イエスは悪い人間と共に苦しみを負ってくれているのだということをルカが言いたいのだということがはっきりしてきます。政治犯という限定された意味ではなく、悪い人間一般という意味にルカは拡大しているわけです。

▼わたしを思い出してください

 この悪人は自分が悪い人間であり、その報いとして苦しみを受けているということを自分で知っています。そしてイエスに、
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23章42節)と言います。
 この言葉で、この悪人がいかにこの世での生涯において孤独であったかと読み取ることができるのではないかと私は思います。もう彼は、すべての人に見捨てられて、誰もこの世に自分のことを省みてくれる人がいないんですね。
 自分が死んだ後、自分が誰にも覚えてもらえないというのは、とんでもなく寂しいことではないでしょうか。  自分がこの世に生きていたということを証し、誰かが思いを継いでくれるとすれば、それが誰であったとしても、たとえ死んでしまうにしても、それだけで自分の生きたという事実が全く無意味ではなかったと思うこともできるでしょうけれど、自分が生きて、死んだという事実を誰もが忘れてしまい、誰からも完全に無関心のまま捨て置かれて、ただ自分は消えてゆくだけだというのでは、自分は一体何のために生まれてきたのか全くわからない。そして、誰も知らない暗黒に落ちてゆくだけ。こんな恐ろしいことはないと思います。
 その絶対的な孤独から救われたいと思って、この悪人はイエスに願ったのではないでしょうか。
 「イエスよ、御国においでになるときには、私を思い出してください」。ただ思い出してくださるだけでいいですから。「わたしを御国に入れてください」などということを望んではいないのですが。ただ覚えておいてくださるだけでいいですから、と嘆願したのですね。

▼アーメン、アーメン

 これに対してイエスは、「わかった、あなたのことは覚えておくよ」とは答えなかったのですね。
 イエスは
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)と答えました。
 この「はっきり言っておく」という言い方が嫌いだという人は私の周りにはたくさんいます。学校の生徒さんたちもそうです。「なんだか上から目線で嫌な感じ」なんだそうです。僕もこういう翻訳はよくないかなと思います。
 ここでイエスは「アーメン、アーメン、ソイ、レゴー」と言っているんですね。「アーメン」というのは、「その通り」とか「誠に」という意味ですね。普通の会話だと、文章や祈りの終わりに「アーメン」とつけたり、人の話に賛成した時に「アーメンです」と言います。
 しかし、イエス独特の話し方ですが、最初に「アーメン、アーメン」と言い切るんですね。もうこれは絶対に確信を持って「確かにあなたに言っておきますけどね」というニュアンスでしょうね。
 そしてそれに続く「ソイ、レゴー」というのは、単純に「あなたに、私は言う」です。
 「アーメン、アーメン」、「確かに、確かに、あなたに言っておきますけどね。あなたは今日、私と一緒に楽園にいることになるでしょう」とイエスは言っています。

▼御国と楽園

 ここで、また不思議なことを見つけました。
 この悪人は「あなたの『御国』においでになるときには」と言っているのに対して、イエスは「一緒に『楽園』にいることになるだろう」と言っています。
 なぜイエスは、「御国」という言葉を使ってお願いをした悪人に対して、「楽園」という言葉を使ったのでしょうか。
 「御国」というのは「バシレイア」と言って、直訳すると「王国」、そこから新約聖書においては、「神の王国」、それも国境線で仕切られた王国ではなくて、「神が支配するところなら、どこでも」という意味で使われます。
 これに対して「楽園」というのは「パラダイス」ですね。パラダイスといえば、思い出すのは、天地創造の最初の頃の、人間が神さまと共にしっかりと繋がっていて、神さまと離れるという、いわゆる「罪」の状態になることなく、幸福に暮らしていた頃の状態のことです。
 つまりこの2つの言葉の根本的な違いは、「御国」というものが、現在から未来にかけての夢であることに対して、「楽園」とは、過去にあったはずの理想的な人間の状態のことです。
 イエスは、人間がこの世の全てに見捨てられて苦しんでいる時に、一緒にその痛みを苦しみを受けてくださっている。そして、その状態こそが、そもそもの人間のあり方として望ましい状態なんだよと、ルカは私たちに伝えようとしているのではないでしょうか。
 世の中に完全に善い人間などいません。人間は皆、幾分か悪い部分を持っています。皆、悪人です。そしてそのような私たちが危機に陥り、孤独と苦痛にあえいでいる時に、イエスもまた一緒に苦しんでくださっているということです。
 そのようにイエスしか頼る人がいない。イエスと一体化している。そのような状態をルカはパラダイスと呼んだのではないでしょうか。
 同じことをマタイは別の言葉で
「インマヌエル」と表現しました(マタイ1章23節)。これは「神は我々と共におられる」という意味です。
 私たちが、どうしようもない寂しさや苦しみに陥った時、他に誰にも頼ることができない時、そのどん底に落ち込んだ時にこそ、神が共におられること、イエスが共に苦しんでくださることが本当にわかるのではないでしょうか。
 誰も頼りにならない時こそ、イエスと一緒になれる時なんだという、逆転の論理がここに隠されています。




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