死者と再会した女性

2016年4月10日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 イースター礼拝 説き明かし

約23分間
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聖書朗読と説き明かし23分間 + 分かち合い34分間 = 57分間

 ヨハネによる福音書20章11−18節 (新共同訳)
 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


 
▼イエスの女性の弟子たち

 みなさん。遅ればせながら、イースターおめでとうございます。
 日程をずらせていただいて大変恐縮ですけれども、こうしてお祝いをともにすることができますことを感謝いたします。
 今日は、イエスの復活を最初に発見した女性についてのお話をしたいと思います。
 それはマグダラのマリアと呼ばれている女性のことです。
 マグダラのマリアという名前はみなさん聞いたこともある人も多いのではないかと思います。
 イエスの女性の弟子たちの群れの中では、常に筆頭に名前をあげられる人ですね。ですから、イエスの女性の弟子たちのリーダー格であったと考えられます。
 よく、イエスの12人弟子とか、12使徒と呼ばれるのですけれども、これは全員男性です。そこで、イエスの直弟子は全員男だったように誤解されがちなんですが、実は、近年の研究では、マグダラのマリアに代表される女性の弟子たちも相当数いたということが明らかにされてきているんですね。
 特に、イエスが十字架につけられて処刑された時、男性の弟子たちは全員逃げてしまいましたけれども、彼の処刑の一部始終を、ガリラヤからずっと行動を共にしてきた婦人たちは見つめていたということが、どの福音書にも書かれています。
 墓に納められたとされたイエスの遺体に防腐処理をするために、乳香や没薬などを持って、最初にやってきたのも、女性の弟子たちだったとされています。
 もっとも、イエスの遺体が本当にお墓に納められたかどうかについては疑問を呈している学者さんもいるので、歴史的に事実としてどうであったかということは細かいことはわかりません。
 しかし、大事なことは、イエスの死と復活において、最初にそのことに気づいたのは女性の弟子たちであったということは、どの福音書も認めているということです。

▼マグダラのマリアという女性

 マグダラのマリアという女性は、マグダラというガリラヤ湖のほとりの漁村の出身だからマグダラのマリアと呼ばれていたのでしょう。マリアというのは現地の言葉ではミリアムという呼び方で、ミリアムといえば、モーセのお姉さんとしてユダヤ人をまとめた女性のリーダーですから、ある種の歴史上のヒロインで、よくある名前だったんですね。ですから、聖書の中にも頻繁に出てきます。
 そこで、区別をするために、マグダラ出身のマリアだから、マグダラのマリアと呼ばれたんですね。「ナザレのイエス」というのと似ています。
 昔から、どういうわけか、このマグダラの街が歓楽街の一つで、そこの出身だからということと、これもどういうわけか、姦淫の現場で捕えられて石打ちの刑にされかかったところを助けられたのが彼女だという説が広まりまして、このマグダラのマリアがもともと娼婦だったとか、姦淫をする汚れた女だったということをまことしやかに信じている人が今でもいるようですが、そういう証拠は聖書を読む限りはありません。
 ただ、イエスに7つの悪霊を追い払ってもらったという記述だけがありますが、これもどのような病気かはわかりません。
 山浦玄嗣さんの『ガリラヤのイェシュー』という小説には、何度もイエスが治療しても、治ったと思ったらまた病気がぶり返すということが7回もあったから、7つの悪霊を追い出したという言い伝えが生まれたように書いてあります。山浦さんも元はお医者さんで、そういう実感から生まれた物語を描かれたので、まあ実際、7つの悪霊を追い払うというのも、そういうものだったのかもしれません。
 とにかく、マグダラのマリアという人は、なかなか治すのに苦労する病気を持っていて、イエスも随分苦労したということなのでしょう。そして、苦労した分だけ愛着もあり、またマリアも恩義を感じて、イエスについていこうと心に決めたのでしょうね。

▼「振り向く」

 さて、聖書の物語に戻りますが、マグダラのマリアはイエスの葬られている墓に赴くと、すでに墓石が取りのけられていて、そこに天使が2人座っているのを発見します。
 天使たちは、マリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」というと、マリアは「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか、私にはわかりません」と答えます。
 そして、後ろを振り向くと、イエスが立っておられるのを見たんだけど、それがイエスだとはわからなかった、と。
 次に、今度はイエスが「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を探しているのか」と聞くと、マリアはイエスを園丁だと思って、「イエスの遺体がどこにあるか教えてください」と言います。
 すると、イエスは「マリア」と呼び、マリアが振り返るとそれがイエスだとわかり、「ラボニ」つまり「私の先生」と言ったという話ですね。
 ちょっと読んだだけで、変だなあと思うんですね。
 マリアは多分、お墓の方に向かって泣いていたんでしょう。そして後ろを振り向くとイエスが立っておられるのを見たんだけど、それがイエスだとわからなかったと。
 次に、イエスが「マリア」と呼ぶと、マリアは振り返る、するとそれがイエスだとわかったと。
 これ、普通に考えると、マリアは2回振り返っているから、360度回転したことになるし、どっちにイエスが立っているのかわからないですね。
 これは無理にひとつながりの物語だと読むのではなくて、どうも、2つの物語の断片が合成されたと考えたほうがよさそうです。
 つまり前半は、遺体を捜しているマリアが振り向くとイエスがいるんだけど、イエスとは気づかない話。
 後半は、イエスを園丁だと思っていると、イエスが「マリア」と名を呼んだので、マリアが振り向くとイエスだとわかった話。
 共通点は「振り向く」という動作です。違うところは、振り返ってイエスだと「わからない」か「わかった」かです。しかし、最初はイエスだとはわからなかったという点では、やはり共通しています。
 おそらくマリアが「振り向く」という動作が大事なんでしょうね。「マリアが振り向いて、イエスと出会い直した」という言い伝えが核にあって、それが違うバージョンで伝えられたのだと思います。
 「振り向いた」という言葉には、「改宗した」という意味も含まれています。全くこれまでとは違う方向で物事を見るようになったということです。
 マリアはイエスの遺体を捜していました。それは人間として自然な感情かもしれません。亡くなった親しい人の遺体をきれいな形で葬り直してあげたいというのは当たり前の気持ちでしょう。
 しかしこの物語は、「そうではない。遺体のイエスではなく、復活したイエスを見なさい」ということなんですね。考え方をまるっきり反対方向に向けなさいということです。「振り向きなさい」ということです。過去の遺体ではなく、そこから解放された、今もなお生きているイエスと出会い直しなさいということです。
 
▼イエスのわざを受け継いだ人々

 イエスの墓が空っぽであったのを最初に発見したのは、どの福音書を読んでも、女性たちであったとされています。とりわけ、ヨハネによる福音書は、マグダラのマリアの地位を大切なものとして描いています。
 これに対して、ルカは男性の弟子であるペトロや、ペトロと対立しながらもローマ帝国全土にキリスト教を広げようとするパウロといった人々に注目します。
 女性の弟子も男性の弟子もその働きは大切だったとは思いますが、イエスの活動をより忠実に実践してきたのは女性の弟子達だったという説が近年有力になってきています。
 それは、イエスの活動が病人を休ませ、癒し、身分の差とは関係のない食事の会を催し、旅人をもてなすという活動だったのですが、こういうことは当時(今でも多くの場合そうですが)女性の得意な分野だったんですね。
 ですから、本当にイエスの活動を実践的に下支えしていたのは、女性の弟子たちであったと言われます。
 そしてそのリーダーがマグダラのマリアだったというわけです。
 そして、マグダラのマリアはイエスに最も近く、最もイエスの意図を理解した弟子であったとも言われます。イエスを最期まで看取ったのも彼女でした。
 そのような弟子であったからこそ、彼女は復活したイエスに出会ったのかもしれません。

▼イエスの霊魂

 私は、幽霊とか神秘的な現象というものは、普段はあまり本気で相手にしていないというか、あるといえばあるし、ないといえばないんだろうという態度で、今まで来ていた方なんですが、最近になって、イエスの霊魂が弟子たちの間に現れるといったことはあったのではないかと思うようになりました。
 というのは、東日本大震災の被災地で、よく亡くなった方の霊が現れるという現象が起こっているんですね。そのことについて研究した本も出始めています。
 私が読んだ限りでは、特にタクシーに乗ってくる幽霊の現象が多いようですね。それも「無念」の思いを残した若い人や子どもの霊魂が多いそうです。
 夏でも冬のような寒い格好をして、タクシーを停めて、乗ってきて、行き先を告げるんですが、目的地に着いてみると、いなくなっているとか。小さな子供なので、手をとって降ろしてあげたのに、その瞬間姿が消えたとか。その場合は、その霊魂に手を触れたりしているわけです。
 それが単なる幻覚ではないことは、件数の多さからもうかがえますし、運転手さんはちゃんとメーターのスイッチを入れて、行き先を書いています。ちゃんと記録に残して走っているわけです。その走った分は無賃乗車扱いになって運転手さん自身の負担になってしまうわけですし、わざわざそんなことをわざとする人もいないでしょう。
 そのような体験をしたタクシーの運転手さんは、皆「幽霊なんて(軽い言葉で)言うもんじゃない」と怒ったり、「幽霊というのとちょっと違う」と語るそうです。そして、「怖い」という感情よりも、畏敬の念というか、そのような霊魂との出会いがあったことに感謝し、「もし今度もそういうことがあったら乗せてあげたい」と語るそうです。
 そういうことが実際にあるということを読んだ上で、私は、馬鹿げているかもしれませんが、イエスは本当に霊魂として弟子たちに姿を現したのかなあと思っています。
 そして、マグダラのマリアはイエスと特に親しかった人物であるだけに、真っ先にイエスの霊魂を見てしまったのではないかと思うんです。

▼「私にすがりつくのはよしなさい」

 しかし、そのマグダラのマリアにイエスは「私にすがりつくのはよしなさい」と言います。
 通常の霊魂は、「無念」と「思い残し」とによってこの世に姿を現します。しかし、イエスの霊は違うんですね。「私にすがりつくのはよしなさい」。
 「もうあなたは私がいなくても十分やってゆくことができるよ。もうあとはあなたに任せたよ」という思いを、イエスの霊はマリアに伝えたんですね。
 このイエスの声に従って、マリアはイエスの遺体を追い求める後ろ向きな生き方をやめ、自分の力で前向きに生きてゆく力を与えられました。死というものに閉じ込められた遺体ではなく、死から自由になったイエスの霊の方に180度視線を転換して、マリアは再び立ち上がります。
 これが、もう一つの復活、マリア自身の復活である。
 これは私たちの復活でもあります。
 イエスの霊がいつも共にいることを信じ、しかし、イエスにすがりつくのではなく、自分の力で生きて行きなさいという励ましの言葉を胸に生きてゆく。
 これがイエスの復活であり、私たち自身の復活です。
 いかがでしょうか。本日の説き明かしは以上とさせていただきます。
 




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