ここにはいない人のために良き知らせを

2016年4月17日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約19分間
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聖書朗読と説き明かし19分間 + 分かち合い37分間 = 56分間

 マタイによる福音書28章16−20節 (新共同訳)
 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
 イエスは、近寄って来て言われた。
 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


 
▼「大宣教命令」

 今日はマタイによる福音書によって、イエスが復活した後の、イエスと弟子たちのやりとりを収めた部分を読んでみました。と同時に、これはマタイによる福音書の一番最後を締めくくる部分でもあります。
 このマタイによる福音書の締めくくりを特徴づけているのは、19節の「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という、もう何とも言い難い「上から目線」の言葉ですね。これによって、このマタイの最後の部分は「大宣教命令」とも呼ばれています。
 しかし、ぼく個人としては、こういう風にキリスト教だけが正しくって、すべての人のキリスト教のせよ、とかそういう上から目線の命令というのは、どうも性に合わないというか、はっきり言って嫌いですね。
 まあマタイさんにとってみれば、ギリシア・ローマの多神教の神々は間違いだらけの異教で、唯一正しい一神教はキリスト教なんだという思い込みで書いているのでしょうけれど、結局このような「すべての人を弟子にしなければならない。それがキリストの命令なんだ」という思い込みが、どれだけ世界中の多くの人々の血を流したかですね。
 それはキリスト教だけに限ったことではないでしょうけれど、自分たちの宗教だけが正しく、それに反抗するものは間違っている。どこまでも反抗する者は悪魔の手先であるから、滅ぼしてしまっても良い。むしろ殺すのが、神の御心なのである、という思い込みによって、どれほど世界中で宗教戦争が起こってきたかということですね。
 それから、キリスト教内部においても、自分が「これが正しい聖書の読み方だ」と思い込んでしまった人たちが、他の読み方を認めることができず、例えば黒人は人間以下の存在、あるいは罪深い存在だと聖書を読んで判断した人が、黒人を奴隷にしたり、リンチに合わせたり、聖書に書いてあるからといって、同性愛者を血祭りにあげたりといったことがなされてきたわけです。
 そういうこともあって、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」という言葉は、結局「自分たちの言うことを聞かない者は弾圧しても良い」という風に解釈されやすいものなのだということなんですよね。
 ですから、僕はこの「大宣教命令」という部分は正直言って嫌いです。

▼知識としてのキリスト教

 しかし、そうは言っても、自分自身もキリスト教をできるだけ多くに人に知っては欲しいなと思っているわけです。
 もうすでに何らかの信仰を持っている人はともかくとして、まだキリスト教をよく知らない人には知って欲しいなという情熱があるから、こういう仕事についているわけですね。
 でも、それはキリスト教について知識として知ってもらうことが一番大事だという意味ではないと思います。
 世の中には、キリスト教を知識として学びたい、情報を知りたいという人は多いようです。実際、キリスト教関係の本というのは、全く売れないわけではなく、実は大変よく売れるんですね。
 もちろん、あまり専門的すぎる本はそんなにはたくさん出ませんが、ちょっと知りたい、ある程度知りたい、まあ分厚くない本で新書くらいなら……という人向けには、キリスト教関係の出版社ではなく、一般の出版社からもたくさん出ています。
 でも、そういう形でキリスト教のことをつまみ食いしてもらうのが、私たちの喜びかというとそうではないと思うんですね。
 もちろん、キリスト教についての知識をたくさん持ってもらうこと自体が悪いことというわけではありません。
 なんだかんだ言って、西洋というものの社会制度や歴史、文化、芸術を形作っていった土台にはキリスト教がありますし、それらを深く理解したり、味わったりしようとすれば、必ずキリスト教というものへの理解が必要になります。
 キリスト教については全く知る気はないけれどもバッハの音楽は大好きだとか、キリスト教については関心ないけれども、新島襄の熱心なファンだというのは、どこかおかしいわけです。
 そして、私たちも明治以来、かなり西洋文明の影響を受けている。ということは、私たち自身を知るためにも、ある程度はキリスト教についての知識はあったほうが良いし、新約聖書というのは世界で最も売れているベストセラーの一つですから、新約聖書について全く知らないというのでは、ちょっと教養が足らないということにもなるわけです。

▼絵に描いた餅なれど

 しかし、知識としてキリスト教を知ってもらったとしても、私たちが本当に嬉しいということではないと思うんです。
 これは私も何年も前に本の前書きで書きましたけれども、私たちが本当に他の人に知ってもらいたいのは、私たち自身の「信じる気持ち」だということ、そして「信じた結果、どのように生きているのか」ということを知ってくれたら、そして、それに共感してくれたら、ということを願っているのだろうと思いますが、違いますでしょうか。
 それも押し付けではなく、多少自分とは違っていてもよし、ただ「あなたも神に愛されているのだ。それをイエスという人が証ししてくれたのだ」ということをわかってほしいということではないでしょうか。
 そして私は、もう一つ大事だと思っているのは、たとえキリスト教の信者になってくれようとしなかったとしても、その人に神さまの愛を伝えることだと思います。愛を以ってすべてのことを成すということです。
 この人は信者になってくれるだろうか。信者になってくれそうでなかったら、歓迎するのはやめておこうか、というのは間違っていると思うのですね。
 相手がキリスト教の信仰に関心がないばかりか、宗教というものに関心がかなかったとしても、また例えばイスラームの人であったとしても、仏教徒であったとしても、すべての人に、「私たちは神に愛されているのだから、同じように神に愛されているはずのあなたに、その愛を伝えるためにこうするのだ」という接し方をしてゆくことだと思うのですね。
 もちろん、理想と現実は違いますよ? こんなことを言っている私も自分がそれを完璧にできると自分で思っているわけではありません。所詮は「絵に描いた餅」じゃないかと言う人もいるかもしれません。
 しかし、これはいつか聖書学者の田川建三さんのお話を聞いた時の話ですが、「これは『絵に描いた餅』じゃないかと言う人もいるかもしれない。しかし、それにしてもなかなか美味そうな餅じゃないか」とおっしゃったんですね。
 「絵に描いた餅かもしれないけれど、そんな餅に近い餅を作って食べようと試みてみるだけの価値はある」ということではないでしょうか。
 
▼宣教とは何か

 宣教とはそういうものではないかと思うんですね。
 宣教とは「あなたは神に愛されているよ」ということを伝えること。そして、そのことを言葉だけではなく、あるいは言葉など使わなくても、愛の行いそのもので示してゆくことではないかと思うのですね。
 「あなたがもし今まで知らなかったとしても、実はあなたは神に愛されているのだ。だから私たちもあなたを愛するのだ」ということを実践を通して伝えてゆく、これが宣教です。
 また、その宣教によって伝えられてゆく福音というのは、「愛されている」という実感のことです。
 もっと噛み砕いて言えば、「自分は大切な人間だ」という実感です。
 「自分は大切だ」と思えていなければ、なかなか人を大切にするということは苦しいです。まずは「自分は愛されるに足る人間だ」という確信を持ちたいものです。あるいは人にも持ってもらいたいものです。
 また、別の言い方をすれば、「生まれてよかった」と思えたら、これは福音です。「生まれてきてよかった」、「生きているのが嬉しい」ということ。そして、それを自分一人だけではなくて、一人でもいいから誰かとこの思いを分かち合うことができたら、それが宣教です。
 この福音を、「説明してくれ」と言われたことがあります。「自分は大事な存在だ」ということを、ちゃんとわかりやすく説明してくれと言われました。その人はある社会的に非常に苦しい立場に置かれていて、深く深く傷ついているんですね。
 その人に対して、僕は「あなたは愛されている」、「あなたは大事な存在なんだ」ということを、うまく説明することはできませんでした。
 ただ、「自分が世の中から大事にされていない」ということと、「自分は大事な存在ではない」というのは全然違うんだということしか言えませんでした。

▼福音を宣言する
 
 これはもう問答無用に宣言するしかありません。少なくとも僕にとってはそれは根拠を説明することもできず、ただ宣言するしかできないことです。
 もし世の中が自分のことを大事にしてくれないと感じていたとしても、神から見れば、絶対に自分は大切な人間なんです。そして、自分以外の人も神から見れば、絶対に大切な人間です。
 どんな国籍の人も、どんな民族の人も、どんな宗教の人も、どこの出身でも、どんな性別でも、どんなセクシュアリティでも、どんな仕事をしている人でも、仕事をしていなくても、どんな学校の人でも、学校に行っていなくても、どんな人でもみんなそのまま、ありのままの姿で神に愛されているということは間違いない。これを私は宣言する以外に方法を知りません。
 そして、教会にはまだまだやるべきことがたくさんあると思います。
 世の中はまだまだ、人が人として大切にされ、心が守られ、どんな人でも歓迎され、愛され、生まれてきてよかった、生きていてよかったと思えるようなところになっていません。
 ということは、そのように思ってもらえるような福音を宣教する余地が有り余るほど残っているということです。
 まだ私たちが出会っていない人と、神に愛されているという喜びを共有する余地がたくさんあります。自分は愛されていないと思っている人がたくさんこの世にはいるからです。
 そのために、「ここにはまだいない人のために良い知らせを伝える」ということをメインテーマに活動する教会でありたいと思いますが、いかがでしょうか。
 




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