トマスにはトマスの言い分がある

2016年5月1日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約22分間
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聖書朗読と説き明かし22分間 + 分かち合い25分間 = 47分間

 ヨハネによる福音書20章24-29節 (新共同訳)
 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


 
▼ダウティング・トマス

 今日お読みした聖書の箇所は『疑い惑うトマス』としてよく知られている場所です。英語でもこのトマスのことは“Doughting Thomas”(疑うトマス)という言葉で、定型句として定着しているようです。
 これは「裏切り者のユダ」というのと同じように、12人のうちの誰かひとりを見せしめのように悪者に仕立て上げて、「こういう風になってはいけませんよ」という例のように言われているようで、こういうことを教室でやってはまずいですよという、それこそ現代風に見れば教師の悪い見本のようなやり玉の上げ方で、私はこういうヨハネの話の持って行き方はあまり好きではありません。
 あるいは、これはヨハネさんがそういう話を書いたというだけではなく、ヨハネさんが福音書を書こうとした、その時には、トマスを悪者扱いする言い方が教会の中で広がっていて、そのエピソードをヨハネさんとしても書かずに落とすわけにもいかず、書き込んだのだという可能性も考えられます。
 とにかく、ここでトマスひとりを「トマスは疑う人間だ」とレッテルを貼って、他の弟子たちよりも劣ったように取り扱うことには、私は違和感を感じます。

▼双子のトマス

 そもそもトマスという人がどんな人なのか。その詳しい人間性はわかりません。しかし、例えばシモンが「ペトロス」(岩という意味ですが)ギリシア語のニックネームで呼ばれていたように、トマスにも「ディディモス」というニックネームがつけられていました。「ディディモス」というのは「双子」という意味です。
 考えてみると「双子のトマス」というのは、変わったネーミングなんですね。実はイエスの弟子とされている12人、もっとも本当に12人もいたのかは多少は疑わしいのですが、まあそれはそれとして、12人いたとしてもそのうちの半数は実は兄弟でイエスについてきているのですね。
 例えば、漁師のシモンはアンデレと兄弟でした。また、同じくゼベダイの子のヤコブとヨハネも兄弟ですね。また、2人揃って「ホアネルゲス」つまり「雷兄弟」というあだ名をつけられたのもタダイとトマスも兄弟です。
 それに対して、「ディディモ」つまり「双子のトマス」は「双子」と言いながら、もう1人の兄弟なり姉妹がいません。
 12人の弟子たちのうち半数の6人が兄弟で来ているのに、「双子」と呼ばれている人だけが1人なのはちょっと不思議な気がします。
 注解書の中には、このトマスはイエスと非常に似ていて、イエスと瓜二つだという意味でこう呼ばれたのだろうと推測しているものもありますが、これは特に根拠がありません。
 むしろ私は、「双子」というものの古代人の捉え方が、今ほど好意的なものなかったことに着目したいと思います。
 今だと双子というと、同じような顔をした赤ちゃんが並んでいて、なんだか可愛らしいような面白いようなで微笑ましく思われたりするのですが、古代の人々にとっては、同じような顔をした子どもが2人なり3人なり現れるというのは、かなり気持ち悪い現象であるように思われたようで、何か不吉な出来事が起こる前兆であるともされたようです。
 そのために、双子が生まれると、それを隠して、どちらか一方の丈夫そうな方だけ残して、もう片方は捨てて埋めたり、まあどんなによくても親戚かどこかの里子に出して、自分のところの子でないように装ったりしたのですね。
 ですから、「双子のトマス」と呼ぶということは、この事実を暴露しているか、少なくとも「気味の悪い生まれのトマス」と呼んでいるのと同じような、あまりよくないニックネームなのですね。
 シモンを「ペトロ」つまり「岩のシモン」と呼んだり、「ボアネルゲス」すなわち「雷兄弟」と呼んだのはイエスであったことは聖書に書かれていますが、「トマス」を「双子の片割れトマス」と呼んだのがイエスであったとは書いていません。むしろ、他のひとたちにそう呼ばれていたようなニュアンスですよね。
 この気味の悪いトマスと言いたげな呼び名を、トマス自身も喜んでいたかどうか。私は、彼は面白くなかったのではないかと思っています。

▼トマスにとってはひどい話

 今日の聖書の箇所を見ると、トマスだけがいない時に、弟子たちが集まっていて、そこにイエスが現れたという出来事があり、その後、トマスが戻ってきた時に、他の弟子たちが「主を見た、主を見た」と喜んでいるところに出くわしたという場面ですよね。
 これ、よくない雰囲気ですよね。
 ただでさえあまり面白くないニックネームをつけられて、いまいち愉快な気持ちではないトマスが、わざわざいない時にこういうイエスが現れるという重大な出来事が起こる。
 もしトマスが普段から弟子たちの間で疎外感を感じていたとするならば、その疎外感にもっと火をつけるような出来事だったわけです。
 そして、あろうことか、後からイエスがもう一度現れて、「お前は見たから信じたのか。見ないで信じない者は幸いである」と言うという、これはちょっとトマスにとってはひどい話じゃないかと思うのですよね。
 それに、「見ないで信じない者は幸いである」と言うから、まるでトマスだけが目に見える証拠を求めたみたいな言われ方ですけど、その前の部分を読めば、実はトマス以外の全員も、イエスの手の釘の後や脇の下を見たりして信じているんですね。見ないで信じている人なんて1人もいないんです。
 ですから、要するにこの一連の物語は、イエスが亡くなって70年近くも経って、弟子たちの時代も終わって、「イエスの復活が本当にあったかなんてわからない。証拠もないし……」と言い始めた信徒たちに対する戒めの話でしかないんですね。
 弟子たちはみなイエスの生身の姿を見た。しかし、それ以降の時代の者は生身のイエスを見ることができない。しかし、「見ないで信じなさい」とお説教を垂れるお話だということなんですね。
 可哀想にトマスは、「見ないで信じなさい」ということを言うために使われただけの存在ということになります。トマスにとっては、他の弟子たちの喜びようが、鬱陶しくて妬ましくて仕方なかったでしょう。

▼見ないで信じられるか

 しかし、考えてみれば、トマスの置かれている立場というのは、私たちと同じですよね。
 直弟子たちは復活したイエスに会ったよと主張している。しかし、それ以外の人間は、生身のイエスになんか会ったことはないわけです。もちろん私たちも生身のイエスになんか会ったことはありません。
 みんな「見ないで信じる者は幸いです」と言われて、見ないで信じようと努力して信じるようになったわけです。
 でも、考えようによってはトマスの方が人間の態度としては健全なのかもしれませんよね。「俺は見ないと信じないよ」と。世の中、カルトや詐欺が横行している中で、何でも言われた通りに信じるのがいいこととは限りません。疑いすぎるのもよくありませんが、ちゃんと自分で確かめたものに基づいて確信を持つことが大切ではないでしょうか。
 「私は見ないと信じない」というトマスの言い分は、実は人間として当たり前の態度のように思われますし、弟子たちの間でいまいち疎外感を抱いている者としては、他の連中にそうでも言わずにはおれない精神状態だったでしょう。しかし、これは人間として当たり前の態度ですし、私だって、「見ないで信じなさい。信じる者は幸いです」と悟りきったように遠くを見るような目でその手のクリスチャンに言われると、何だか腹が立ってきたりすることがあります。「そんなのただの思い込みじゃないのか!」と。

▼誰も強制はしない。でも……

 この福音書を書いたヨハネは、一体どういう意図でこのようなエピソードを自分の作品の中に入れたのでしょうか。
 明らかに、直にイエスを見ることなどできない時代の人に向けて書いていますよね。みんなイエスの姿なんて見たことがない。逆に言うと、今の時代に「私はイエスを見ました」というのは、幻覚か妄想か嘘のようなものでしかないということを暴露しているようなものです。
 誰もイエスを見たことはない、そして、誰もがトマスのように戸惑いを覚えているのだ、ということをヨハネはよく知っていてこの物語を書いているのですね。
 物語では、トマスにもちゃんとイエスは、他の弟子たちにそうしたのと同じように、生身の自分を示して見せてくれています。これで物語上のトマスは気が済んだ。しかし、現代に生きる私たちは取り残されたままです。そして、それは実はヨハネがこの福音書を書いている時代も既にそうだったのですね。
 その上で「見ないで信じる者は幸い」ということは、「生身のイエスなんか誰も見たことなんかない。それが事実というものだろう」と、ひとまずは、イエスを肉眼で見ることのできない私たちと同じ立場に立ってくれているように私には思われます。
 「イエスを肉眼で見ることなんて誰にもできない。でも、信じることはできるし、信じるに足る価値があるんだよ」ということを、ヨハネは言いたいのではないでしょうか。
ヨハネによる福音書は、神が私たちを愛しているということを読む人に訴えるために、「光」や「活きた水」や「息」、「霊」といった、触ることのできないものや見ることのできないもので、それを表現します。
 現に弟子たちに現れた時には、イエスは一同に「息を吹きかけた」と書かれています。息は見ることはできません。しかし、私たちが生きている証拠ですし、活きた命そのものを表す時にも私たちはこの言葉を使います。
 一番大切なことは息のように、目で見ることはできません。
 愛というものが目に見えるでしょうか。見えやしません。
 自分は愛された存在なんだということを、何か毛布やコートのように目で見ることができるでしょうか。そんなことはありません。
 しかし、神は光が私たちを照らすように、水が私たちを潤すように、息が私たちを力づけるように、霊が私たちの間に留まって私たちの交わりをつないでくれるように、私たちを生かすエネルギーになってくれるのだ、ということを、ヨハネはそれらの象徴的な表現で一生懸命に伝えようとしてくれています。
 そして、それを「信じなさい」とは強制していません。ただ、「信じるものは幸いだね」とイエスに言わせています。
 「神の愛は見えないものだけど、それでも自分が愛されているということを信じてごらん。そうしたら、幸せになれるよ」ということなんですね。
 見ないで信じるということは、大変難しいことですし、そう簡単に人の言うことを聞いて鵜呑みにするものではないと思います。
 しかし、ヨハネは「もし信じることができたら、それは幸せなことなんだ」と、控えめに伝えてくれています。また、それ以上に説明することができなかったのでしょう。説明というものも一緒の見える証拠ですが、ヨハネもそれを提示することができないのです。
 それでも、ヨハネは「信じることには価値がある」と言ってくれています。あとは、自分が神から生かされている存在であるかどうかということを認めるか否かということは、あなたの気持ち次第ですよと。もし信じることができれば、あなたは今より幸せになれるはずなんだけど、どうする? とヨハネの中のイエスは問いかけてくれています。
 さて、我々はどうしましょうか?
 




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