人生いろいろで一緒に生きてゆく

2016年5月15日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 ペンテコステ主日礼拝 説き明かし

約20分間
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聖書朗読と説き明かし20分間 + 分かち合い40分間 = 60分間

 使徒言行録2章1-13節 (新共同訳)
 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」


 
▼ペンテコステおめでとう

 みなさん、ペンテコステおめでとうございます。
 「ペンテコステ」というのは、第50日目という意味で、ユダヤ教の「五旬祭(旬が10日を表しますから、50日ということですね)」と同じ時期に行われます。
 キリスト教の暦でいうと、イースターから数えて7週間経った日曜日にお祝いすることになっています。一般的に教会では「教会の誕生日」と言って、この日から宣教が始まり、キリスト教会が始まったということになっています。
 と言っても、実際にはイエスの亡くなった後7週間程度でキリスト教会が確立したというのは事実としては考えられず、実際には何年もかかってユダヤ教から時間をかけて分離していったんです。
 けれども、このペンテコステのお話は、キリスト教会の人々が後になってから昔を振り返って、自分たちがそれぞれの地域でどんなに言葉の壁に苦しみながら宣教をしていったかということを、そして、いかに神に励まされて各地への宣教をしていったかということを物語る、象徴的な物語としてルカの書いたこの文書の中に収められることになったんですね。
 
▼一つになる教会

 まず最初に
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」(使徒2.1)という言葉からこの物語は始まります。
 この
「一つになる」という言葉をこのルカによる使徒言行録は、この教会の始まりの部分で何度も使っています。「一つになっていた」(1.15)、「毎日心を一つにして神殿に参り」(2.46)、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」(2.47)という言い回しを繰り返します。
 私は性格が悪いので、こういう言葉を何度も繰り返し使われると、事実がそうでなかったから、こんなにしつこく強調しているのかな? と思ってしまうのですね。
 事実、この使徒言行録の6章あたりから、だんだんと教会内の分裂がはっきりと描かれてゆくようになっていくのですが、まあ今日はそこまでのお話はしないでおこうと思います。
 むしろ、ルカさんは、「教会は一つであってほしい」、「教会は心を一つにして祈る共同体であってほしい」という理想をここに書き込んだのでしょう。そして、その一つになる共同体は、決して、言葉の一致とか儀式の一致などといった形式的な一致ではなく、様々な多様性を持つ形に広がって行きながらも、根底の部分で繋がっている「一つ」という意味を込めているわけです。
 なぜなら、4節に「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」と書いてあるからです。

▼言葉がバラバラであること

 いきなり他の国々の言葉で話し始めた、というのは、旧約聖書のバベルの塔の物語を彷彿とさせます。
 ただ、バベルの塔の物語は、言葉が一つであるために神をも超えるような権威と栄華を誇るような帝国を作ろうとした人々に対して、罰として言葉がバラされてしまった……というお話で、それぞれの地域の言葉を否定して(例えばユダヤ人だったら、ヘブライ語を公用語として使うことは禁じられて)、無理やりに宗主国の言語に統一して標準語とし、それで支配を広げて行こうとした帝国主義を批判している、具体的にはバベルという名前で分かるように、バビロン捕囚でユダヤ人を強制連行して、民族の独自性を奪おうとした新バビロニア帝国を批判している物語なわけです。
 ところが、このペンテコステの出来事は、「一つ」であるはずの教会を様々な地域に広めてゆくために、各地の現地で話されていく言葉に合わせてゆこうという物語なんですね。ここでは、言葉がバラバラになるということは、いいことだとされているんですね。
 これはなかなか面白い話であり、いい話なんです。
 というのは、これは後々のキリスト教が取っていったやり方と全く逆なんですね。キリスト教の歴史はこの物語の通りに行かなかったんですよ。
 例えば、なぜ新約聖書が全部ギリシア語で書かれていると思いますか?
 これは当時のローマ帝国の東半分の共通語がギリシア語だったからで、ギリシア語で著作を書かないと、世界宗教として広げてゆくということができなかったからです。実際には、それぞれの土地の地場の言葉でたくさんのキリスト教の著作が書かれるということはなかったんですね。
 キリスト教を東ローマの広範囲に伝道したパウロも、ギリシア語で説教をし、ギリシア語で手紙を書いています。結局、それは帝国における知識人、はっきり言えばエリートがマスターした言葉を基盤にキリスト教の伝道がなされたということなんですね。
 それに対して、このペンテコステの物語は、それぞれの地場の言葉に合わせて、キリスト教のメッセージをどんどん翻訳して行きましょう、という非常に親切なありがたい話なわけです。そういう意味で、なかなかいい話なんですね。

▼翻訳は解釈

 いろいろな言葉に翻訳するということは、教えの統一性を守ろうとする立場から見ると、かなり大きなリスクがあります。
 そもそも言葉を翻訳するということは、新しく解釈をするということと同じです。翻訳というのは必ず翻訳する人の主観的な解釈が入ります。
 そもそも、イエスやイエスの弟子達はヘブライ語の一種の方言であるアラム語で話していましたが、アラム語で話していたことを、正確に他の言語に直せるかというと、きっとアラム語にしかない単語やアラム語にしかない表現の仕方、言い回しなどがあって、それを他の言語に直そうとすると他の言語らしい表現に意訳しないといけないんですね。もっと極端な話をすると、まるで訳する先の言語で新しく著作を書くくらいの気持ちで翻訳しないと、せっかく訳しても意味が通らないということになってしまうんですね。
 しかし、その結果何が起こるかというと、結局新しい独自の解釈に生まれ変わるということになります。でも、それでもいいと。非常にアバウトですね。
 このあたりはイスラームとはえらい違います。イスラームはアラビア語で書かれたクルアーン(コーランとも発音する場合がありますが、これ自体がもう違うものになっている。「コーラン」ではない、「クルアーン」だということになってしまうんですが、とにかくそういうわけでアラビア語の「クルアーン」)しか、本物のクルアーンはありえないという立場です。
 翻訳されたクルアーンは、クルアーンではありません。それはクルアーンの解説本に過ぎないという理屈です。彼らの価値観から見れば、聖書を各国の言葉に翻訳している、「なんてキリスト教はいい加減な宗教なんだ。そんなことではイエスの本当の教えが捻じ曲げられてしまうではないか」ということになるんですね。
 まあ、キリスト教の場合、イエスがアラム語で喋ったことの記録なって残っていなくて、一番古いものでも翻訳もののギリシア語聖書ですから、もう今更どうしようもないです。

▼いろんな解釈があっていい
 
 しかし、キリスト教の場合はそれでいいと、少なくともペンテコステの物語はそう語っています。
 言葉が違うということは、思考回路まで違ってしまいますから、下手をすると民族の性格まで違ってしまいます。
 しかし、それでもいいと。それでもあなたの言葉で考えてもらって結構ですということなんですね。あなたがあなたの個性で解釈するのは、自由なんだということです。また、それぞれの異なる受け止め方を、みんなで認め合って、違いを楽しみ合えることが、ペンテコステの精神における「一つ」になるということなのではないでしょうか。
 あるいは、もっと極論を言ってしまえば、たとえ同じ言語を使っていたとしても、その同じ言語をどう自分の頭で理解しているか、自分の中の脳内ワールドというのは、本当に人それぞれ千差万別じゃないですか。人間関係を経験すればするほど、人というものは分かり合うのは難しいなと思うじゃないですか?
 キリスト教会の中には、「一致した文章の信仰告白を唱えないと一致できない」とか、「同じ形式の儀式を行えないと、信仰が一致できない」とか妙なことを言っている牧師さんたちがいますが、そういう人たちは、言葉や形式が一致していたら、人の内面の信仰も一致できていると思えてしまうおめでたい人たちだなあと思いますね。
 しかし、そういうおめでたい一致の幻想があるために、自分たちと少しでも異質な行為や発想をするものをキリスト教会から排除したり、仲間はずれにしたり、挙げ句の果てには、一方的に牧師職を剥奪するとか、そういう暴力を振るう人たちが出てくるわけですから、恐ろしいことです。
 
▼ペンテコステの精神

 このペンテコステの物語に精神に立てば、キリスト教における「一つになる」ということは、全員一致、一つも違ったところを認めないという硬直した一致ではなく、それぞれの考え方、感じ方や行動様式を尊重しつつ、それでも集まって一緒に生きようじゃないかということを示しているのではないかと思われます。
 人が本当に平和に共存しようと思えば、お互いに違うという事実をありのままに受け入れて行かねばなりません。
 それは最初はなかなか受け入れるのが難しいことではありますが、一旦、人はそれぞれバラバラで当たり前という事実を受け入れてしまえば、その違いを楽しむことができるのではないでしょうか。
 「へえ、あんた、そんな考え方してんの、変わってるわねえ」とか「私はちょっと違います、面白いですね」とか、「あんなそんな人生を送ってきたの。そんな経験は私はしたことがないわ」とか、「意外だなあ、そういうことは聞いたことがなかった、目が開かれたなあ」というふうに、互いのことを受け入れることができ、一緒に食事をして楽しめあえるのが、キリスト教の理想ではないでしょうか。
 また、それが私たちに生きている世の中の暮らしの中でも、実践できていれば理想ではないでしょうか。
 それは一見、いい加減というか、なんでもそのままに受け入れる、なんでもありのような態度に見えるでしょうが、それ以上に「あなたも神に愛されている人なのだから」と思って、人を大切にする平和のわざでもあります。
 一見いい加減でありながら、緩やかに、しなやかに、人をありのままに活かしてゆける人間となれたらなあ、と私は思います。
 皆さんはいかがでしょうか。
 




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