勝手にしやがれ

2016年6月19日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約22分間
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(説き明かしの代読で礼拝をおこなったため、礼拝ライブ録画はありません)

 ヨハネによる福音書7章53節〜8章11節 (新共同訳)
 人々はおのおの家へ帰って行った。イエスはオリーブ山へ行かれた。 
 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
 「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」


 
▼イエスらしい物語

 今日の聖書の箇所は、よく知られた姦通の現場で捕らえられた女性のお話です。
 この聖書の箇所の前と後ろにカッコがつけられているのにお気づきではないかと思いますが、これは、聖書の底本となっている主な写本には欠けている箇所で、一部の写本/少数派の写本の中に記録されている記事だということを表しています。
 そこで、昔から、これは本当のイエスについての伝承なのか、それとも後から創作されたものなのかと論議があったのですが、最終的に現在のところは、やはりイエスのイエスらしさがよく現れた物語で、イエス自身にさかのぼることができる物語ではないかというように言われています。
 イエスが神殿の境内で民衆に教えを説いていた時に、律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で逮捕された女性を連れてきて真ん中に立たせたといいます。そして彼らは「このような女は石で打ち殺せ」とモーセは律法の中で教えています、と主張します。
 すると、イエスはかがみこんで、指で地面に何かを書き始めたと。そして、あまりにこの人々がしつこく問い続けるので、たちあがって、「あなたたちのうちで罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言います。
 すると、年長者から順に、人々は立ち去り、イエスもこの女性に「私もあなたを罪に定めない」と言ったという、よく知られた物語です。
 私などはやはり性根が曲がっていますので、こんなにうまくいくはずがないだろう、と思います。だいたいどこの世界でも、自分がいかに罪深いかを全く自覚していない連中が必ずいるものですから、たとえイエスに「あなたたちの中から罪のない者が……」と言われたとしても、「俺のどこが悪いんじゃ」と言って平気で石を投げる人間はいるだろうと思うのです。
 そういうわけで、この物語も歴史的な事実であるはずがないだろうと私などは思いますが、しかし、イエスの語り口とか発想法がよく現れているという点では、確かにそうだなと私も感じます。
 それに、地面に字を書いていたというイエスの姿がとても人間的です。ですから、とても好きな聖書の箇所でもあります。

▼姦通の現場で逮捕された女性

 姦通の現場で捕まえられた女性が引き連れられてきて、多くの人が見ている前で立たされる。この女性はどんな格好で連れてこられたのでしょうか? この女性にとっては屈辱の極みです。こんなことをしても、自分たちが野蛮な行為をしているということに気づかない人間たちがこういうことをしています。
 ここで、当然思い浮かぶのは、姦通をしていたというなら、当然相手の人間がいるはずです。
 この女性を連れてきた律法学者はファリサイ派の人々は、モーセの律法を引用して彼女を殺すべきだと主張していますが、この律法はレビ記20章10節に収められています。
「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(レビ20:10)
 また、申命記の22章22節には
「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない」(申命記22:22)とあります。
 ということは、もし姦通の現場を押さえられたのであれば、女性だけでなく男性の方も逮捕して死刑に処せられなくてはならないことになります。律法ではそうなっています。
 しかし、なぜかここには男性の方は連れてこられていません。
 それが何故だかは明確に書いてはありませんがが、少なくともここで女性だけを晒し者にして、殺せと主張するのはフェアではありません。
 現場を押さえたのですから、本当は相手の男も捕まえてこなくてはなりません。しかし、男性は逃げてしまっています。あえて逃したのかも知れません。男性優位社会の中で、もしその男性が社会的に地位のある人間だったら、逆恨みの復讐を恐れて、わざと見逃したのかも知れませんし、捕まえに来た男たちに金を握らせたのかも知れません。

▼不公平な法とその運用

 そもそも、だいたいこのような古代のユダヤの律法やその運用は男に都合よくできていて、例えば先ほど参照した申命記の22章22節は、その後の23節以降を読んでいくと、とんでもない内容が書いてあります。
 ある男と婚約している処女を、街中で別の男が犯したとすると、男も女も死刑に処せられます。その理由は、彼女が街中で襲われたにも関わらず助けを求めなかったから。そして、男の方は別の男の財産を傷物にしたからです。
 またこのケースが野原で起こって、この娘は助けを求めても誰にも聞こえなかった状態だったからという理由で、娘は無罪となります。しかし、男の方は他人の財産を奪ったということでやはり死刑となります。
 そして、この処女がもし誰とも婚約していなかった場合は、男はこの娘を、この娘の父親にお金を払って自分の妻にしなければならないということになっています。
 つまり、ユダヤの律法の根本的な発想は、女性というのは、婚約していない間は父親の持ち物で、婚約したり結婚したりすると夫の持ち物となる。結局家畜のような財産として扱われていたということです。
 さて、この規定に従って考えると、ここでイエスの前に連れてこられた女性は街中で人にバレるような場所で姦通をしていたわけで、しかも「殺すべきだ」と告発されているのですから、誰かと婚約か結婚をしている女性ということになります。
 しかも、相手の男は連れて来られていないということは、ひょっとしたら、実はこの女性の夫は彼女のことが鬱陶しくなって殺してしまいたいと思った時、合法的にこの妻を殺すために、「彼女を強姦しろ」と別の男にわざと襲わせたのかも知れない。そして男を逃がすように最初から計画しておいて、彼女だけが告発されるように男たち同士で打ち合わせていたのではないだろうか……などなど、私のような悪い人間は色々と想像してしまうものです。

▼対応の遅いイエス

 このようなドロドロとした男たちの陰謀が渦巻いている可能性のある事件に遭遇して、イエスが何をしたかというと、かがみこんで地面に何かを書き始めたと。
 なんだかイジイジと、「あまりこの件には関わりたくないなあ」という態度を取っていたのでしょうか。あるいは、「バカらしくて聞いてはおれない」という心境だったのでしょうか。
 律法学者やファリサイ派の人々がイエスを罠にはめようとしているのは明らかです。
 もしイエスがいつものように弱い立場の人を助けようとして彼女を庇ったりしたら、「イエスは律法違反だ!」と告発することができますし、もしイエスが律法を守らなければならないと言えば、「イエスは弱い者の味方ではなかったのか!」と民衆に触れまわることができ、イエスの人気を落とそうとすることができます。
 こういう魂胆は他の場面でもよく出てくるので、イエスもだいたいその意図を見破って、「全くこいつらは性懲りもなく……」と呆れていたのかも知れません。
 聖書の中には、イエスのライバルたちが論争を仕掛けてきて、それに即座に見事な切り返しをして、ライバルたちをあっという間にやり込めてしまう物語が多いのですが、この物語はちょっと違います。すぐにこの女性を助けようともせず、対応に時間がかかっています。

▼勝手にしやがれ

 私の勝手な想像ですが、イエスはかなりシラけていたのではないかと思います。
 そもそも、律法学者というのは律法の専門家ですし、ファリサイ派も人一倍律法を厳格に守ることを人々に教えていたはずの人々です。
 しかし、彼らはもう今や、自分たち男性の欲望や陰謀を満たそうとするために律法を利用することしか考えていません。
 本来、律法というのは、神が人間に秩序を与えるためにくださったのだと尊重するべきものですから、彼らはもはや律法を崇敬する対象として真面目にとらえていないことになります。
 自分たちの都合で、神の与えた掟を利用することしか考えていない連中が、「お前は神の掟を破るつもりなのか!」と攻め立ててくる、この茶番劇に対して、「付き合っておれるかよ、勝手にしやがれ」と、相手にするのも嫌になっていたのではないでしょうか。
 イエスは、律法に対する崇敬など忘れてしまっている奴らが、いかにも自分たちが律法に忠実なのだと振舞っていることの滑稽さ、あるいは罪深さに、まともに相手をする気分さえしなかったのではないでしょうか。
 イエスは、「もういい加減に茶番はやめないか。付き合ってられないよ」とばかりに、地面に何かを書いて時間が過ぎるのを待っている。相手がしびれを切らして、さらに興奮するのを横目で見ながら、わざと放ったらかしています。
 このイエスの屈折した思いというか、素直じゃない態度というのが、とても人間的で面白いなと思うのですが、皆さんはどうお感じになりますか?

▼律法との付き合い方

 イエスという人は、ユダヤの律法に対して2つの種類の対応の仕方をします。1つは、律法の解釈を、律法学者やファリサイ派がするよりももっと徹底して突き詰めるやり方です。
 例えば、
「『殺すな』と言われている。しかし、隣人に腹を立ててもいけない」(マタイ5:21-26)と言ったり、「『姦淫してはならない』と言われている。しかし、隣人の妻を淫らな思いで見るだけでも犯したのと同じだ」と(マタイ5:27-30)と言ったりするのは、このパターンです。
 もう1つは、律法に書いてあることを、真っ向からひっくり返すパターンです。
「『目には目を』と書いてあるが、右の頬を打たれたら、左の頬も差出せ」(マタイ5:38-42)と言ったり、「『敵を憎め』と言われている。しかし、敵を愛せ」(マタイ5:43-48)と言ったりするのが、これに当たります。
 一見矛盾しているようですが、一貫しているのは、「神は人間の幸せを願っておられる」という単純素朴な信念です。
 神は律法をお与えになられたけれども、それは人間が幸福に暮らすためであって、律法の規定や解釈や運用がもし人間の幸福に反するならば、その律法の解釈や運用は変えてもいいのだとイエスは思っていたようです。
 それだけに、律法の文言だけを振りかざして、立場の弱い者をいじめて見世物にする連中を許せなかったと思いますが、イエスがすぐには相手にしなかったのは、この人間の愚かさに心底シラけてしまったからではないかと思うのです。

▼もう罪はなしだよ

 イエスは最後に
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)と言ったと書いてありますが、ここで日本語で「罪に定めない」、「罪を犯すな」と書いてあると、「じゃあ彼女のやったことは、イエスは罪だと思っているの? 思っていなかったの?」と混乱しますが、これは日本語への訳し方が悪いから、そうなってしまいます。
 この「罪に定めない」というのは、むしろ「告発しない」とか「責め立てたりしない」という訳し方をした方がいいと思います。
 それから、「これからは、もう罪を犯してはならない」というと、なんだか偉そうで厳しそうな言い方ですが、原文を見てみると、「今から後、罪が無いように」と単純で言葉少なに言っているだけなんですね。
 ですから、こんな風にもっと優しい言い方に訳してもおかしくはないと思います。
 『私もあなたを責めたりはしないよ。これからは罪はなし、ね』
 イエスは古代人です。そしてとても純な人間です。ですから、姦通がいいことだとは思ってはいなかったし、それが人間を幸せにするとは思っていなかったでしょう。
 しかし、だからと言って、律法を使って人を責め立てたり、殺しの正当化をするなんてことは絶対に許せなかったのでしょう。
 そして、罪を犯した人を殺したら物事が解決すると思っていなかったのでしょう。
 むしろ、優しく罪を犯した人を受け入れ、「これから気をつけたらいいんだよ」と諭しました。あるいは「もうこれからは罪はなしだよね」と期待を込めて声をかけました。
 ここには罪を犯した人に対する大きな愛があります。この愛があるから、私たちも大なり小なり罪を犯したとしても、安心して生き続けてゆくことができますし、他の人の罪に対しても優しく思いやりをもって対応するということを知るのだと思います。
 




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