喜んでパンを食べ、気持ちよく酒を飲め

2016年6月26日(日) 

 日本キリスト教団枚方くずは教会 主日礼拝 宣教

約23分間
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聖書朗読と宣教23分間

 コヘレトの言葉9章7節〜10節 (新共同訳)
 さあ、喜んであなたのパンを食べ
 気持よくあなたの酒を飲むがよい。
 あなたの業を神は受け入れていてくださる。
 どのようなときも純白の衣を着て
 頭には香油を絶やすな。
 太陽の下、与えられた空しい人生の日々
 愛する妻と共に楽しく生きるがよい。
 それが、太陽の下で労苦するあなたへの
 人生と労苦の報いなのだ。
 何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。
 いつかは行かなければならないあの陰府には
 仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ。


 
▼全ては空しい

 みなさんは、「全ては 空しい……」と感じたことはありませんか?
 「そんなことはない。全ては空しいわけではない。全てのことに意味があり、全てのことに喜びがあるのだ」とお感じになっているでしょうか。それなら万事問題なし。そのような喜びの人生をお続けになればいいと思います。
 しかし、「ああ、空しいな……」とか、「一体、私が生きていて何の意味があるんだろう……」とか、「もう死んじゃってもいいんじゃないかなあ……」とか思うことはありませんでしょうか。
 私はよくそう思うことがあります。牧師なんだから、立派な信仰があるんだから、私の人生は満たされていますと言いたいところですが、なかなかそういう風には行きません。
 その代わり、「人生は儚いし、この世は空しいですね」という人があれば、「そうだよねえ」と一緒に虚しさを味わうことはできるように思います。
 全てが空しいという虚無感に満たされている時、一体聖書のどの箇所を読めばいいのだろうと悩みます。新約聖書をパラパラめくっていても、なかなかしっくりと来る箇所がありません。
 そこで旧約聖書を何気なくめくっていると、ちょうど分厚い聖書の真ん中あたりに、『コヘレトの言葉』という書物が収められています。
 この『コヘレトの言葉」はのっけから、「なんという空しさ。なんという空しさ、すべては空しい」という言葉から始まります。「ああ、これだよ、こういう気分なんだよなあ」と思って、ちょっと安心します。

▼一生、人の務めは痛みと悩み

 この『コヘレトの言葉』は、昔は『伝道の書』とか『伝道者の書』とか呼ばれていました。確かに「コヘレト」という言葉には伝道者とか集会の指導者という意味はあるのですが、この書物の中には、1章の12節にあるように、
「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた」と書いてありますから、王家の人間の作品という設定です。
 それに内容的に伝道に関すると思われるところは、12章の
「青春の日々のこそ、お前の創造主に心を留めよ」(12:1)という言葉に明確になっているだけで、後のほとんどは人生の空しさ、諸行無常について記しているので、『伝道の書』というよりは、コヘレトという一人の人の告白としての題名をつけたほうが良いということで、『コヘレトの言葉』となったのでしょうね。
 彼は
「天の下に起こることをすべて知ろうとして熱心に探求し、知恵を尽くして調べた」(1:12)とか、「快楽を追ってみよう。愉悦に浸ってみよう」(2:1)と思って快楽主義者になってみたり、また「狂気と愚かさを見極めよう」(2:12)としたり、いろいろと人生を満たす方法を考えては試してみます。
 しかし結局は、それらはすべて空しい、
「一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ」(2:23)という結論に至ります。

▼空しい人生の現実

 このような空しさの告白の中でも、私が強烈な印象を感じるのは、4章の2−3節ですね。
 
「既に死んだ者を、幸いだと言おう。さらに生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下(もと)に起こる悪い業を見ていないのだから」
 まるで自分は生まれなかった方が良かったのではないかと言わんばかりの言葉ですが、私は時折このような気分になることがありますので、何だか共感できる気がするのであります。
 また、もう一つ、人生の現実を痛烈に突いていると思われるのは、8章の14節ですね。
 
「善人でありながら、悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら、善人の業の報いを受ける者がある」
 これ、実際にそうではないですか? あんな善い人が? と思われるような人が悲しい目に遭い、あんなひどい奴がと思われるような人がいつまでも財産と権力と幸福を享受しているというのがこの世の現実の中では往々にしてあることではないでしょうか。
 もちろん、事の善悪というものはそう簡単には決められませんが、しかし、ハッピーエンドの映画に出てくるような勧善懲悪、天の配剤という風には人生はいきません。

▼飲み食いする以上の幸福はない

 しかし、このようなコヘレトの言葉の中に、数少ないポジティブな言葉も含まれており、それがいずれも飲み食いに関する言葉なんですね。
 例えば、2章の24節には、
「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること」とあります。
 また、3章の12節には
「わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と」
 5章17節
「見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ」
 8章15節
「太陽の下、人間にとって飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは太陽の下、神が彼に与える人生の日々の労苦に添えられたものなのだ」
 そして、今日お読みいただいた聖書の箇所、9章7節
「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい」、です。
 ただ、読み食いする以上の幸福はないと言いながら、尽きない食欲や食べ飽きることは戒めていますし、善人すぎるな、悪人すぎるな、賢すぎるな、愚かすぎるなと、何事にも中庸を勧めてもいます。
 何事も過ぎたるは及ばざるが如し。自分に与えられた分を受け入れて、あとは喜んで食べ、気持よく飲む事だと言っているのですね。
 このようなコヘレトの言葉を前にして、あるタイプの牧師や神学者の人たちは、「これは逆説的な表現であって、本当は人生は空しくないという事が言いたいのだ」と解釈したりして、そういう事を書いている本やウェブサイトも見ましたが、まあそれは、「聖書というからには何かありがたい教訓が含まれているに違いない」という思い込みから、ありがたい教訓をひねり出したに過ぎないのであって、私はコヘレトが「空しい」といえば、自分が感じることのある空しさを重ねてみたり、コヘレトが「楽しく飲み食いしろや」と言えば、「楽しく飲み食いしたらいいんだな」と素直に受け止めたらいいのではないかと思うんです。

▼イエスとの共通点

 このコヘレトの言葉は聖書の中では異色なようですが、意外に実はイエス自身の生き方に重なってくる面があります。
 イエスは、マタイやルカの福音書で『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』(マタイ11:19/ルカ7:34)と言われているように、飲み食いすることが大好きな人間でした。
 誰と飲み食いするかというと、徴税人のように世の中から疎ましがられているような人々や、罪人……この時代のユダヤ人社会では、単に犯罪者だけでなく、貧しい暮らしをしている者や、病気を患っている者や、障がい者も、すべて神に呪われてそうなった者と見なされたので、みんなそういう人は「罪人」の中に入ってしまうわけですが……そのような罪人とされた人たちとの食事を楽しみました。
 そのような人たちにとっては、まず、日頃から食べるにも事欠いているという現実があり、とにかくイエスとその弟子たちのところに行けば、食べるものが集められていて、とりあえず腹を満たすことができるというありがたさがありました。
 しかも、徴税人はもともと金持ちであり……わたしは、この徴税人のようなヤクザのように嫌われながらもお金持ちだった人たちが、イエスの食事のスポンサーだったのではないかと思っていますが、そのような金持ちと、今日明日のパンにも困るような人たちが一緒になって食事を分け合ったというところにも、この食事に参加した人々は不思議な雰囲気を感じたと思います。
 このようなイエスの食事会は、例えば、男性だけで5000人とされた多くの人々の食事や4000人の食事といった奇跡物語の大もとになったと言われています。
 当時、圧倒的な格差社会において、食べるものに困った人々はたくさんいて、誰にとってもとにかく食べるということが何においても最優先でした。
 それに加えて、イエスはただ飢えを満たすだけではなく、一緒に飯を食って、酒に酔い、共に泣いて、共に笑うという喜びをも人々に与えてくれたのでした。
 コヘレトとの違いはといえば、コヘレトは王家の出身で、食べるのに困ったことがないように見えること。これに対して、イエスが一緒に飲み食いしたのは、十分な食べ物もないような人々であったという点くらいでしょう。
 コヘレトのような飲み食いの楽しさを、イエスは誰とも分かち合いたいと思って、そのような機会から外されている人との飲み食いを催したわけです。

▼人生は遊び

 さて、コヘレトは今日お読みした箇所の言葉を、このように締めくくっています。
 9章10節「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かねばならないあの陰府には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」
 ちょっと矛盾がありますね。コヘレトは最初から一貫して、この世の全てが空しいと言っていました。しかしここでは、「この世で一旦手をつけたことは熱心にやりなさい」と告げています。
 これはどういうことなのでしょうか。
 私はこの言葉を理解するキーワードは「遊び」ではないかと思います。
 つまり、コヘレトはこの世で人間が手をつけることは、所詮は「遊び」ではないかと言っているのではないかと思うのですね。
 仕事も企ても、知恵も知識も、結局、人生のすべては遊びのようなものだと。働くことも勉強することも、生きている間しかできません。死んでしまえば何もかも無になってしまいます。
 それならば生きている間は楽しんだ方がいいじゃないか。どうせすべては遊びなんだ。そんなに何事も自分が壊れてしまうほど必死にやることはないけれども、どうせやるなら熱心にやった方がなんでも面白いものです。
 だから、一生懸命遊びなさい。生きている間に。とコヘレトは言っているのではないかと思います。
 この一風変わった聖書の箇所を読んで、私はこの空しい人生を遊ぶように楽しんで生きてみたいなと思いました。
 皆さんはどのようにお感じになりますでしょうか。
 




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