パンなしではなく、パンだけでもなく

2016年7月17日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約25分間
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聖書朗読と説き明かし25分間 + わかちあい36分間 = 61分間

 マタイによる福音書4章1−4節 (新共同訳)
 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
 イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
 と書いてある。』


 
▼イエスの先行者ヨハネ

 今日は、イエスが断食の修行を受けた場面とテクストとしてみました。
 イエスは30歳の頃……と言いますと、当時に貧しい人の平均寿命が30歳前後だったと言われますので、結構いい歳をしてから、家業も家族も放り出して、ナザレの村から離れて、ヨルダン川流域で洗礼の活動を行っていた洗礼者ヨハネのもとにとりあえず弟子入りします。
 そして、「もうすぐ終わりの時が来る。ユダヤ人だからといって神様から特別扱いしてもらえるなんて思うな! 自分の罪を告白して、悔い改めて洗礼を受けないと、皆地獄に落ちて滅びてしまう。だから私のもとに洗礼を受けに来なさい!」と洗礼者ヨハネは教えます。
 洗礼者ヨハネという人は、エルサレムの神殿の祭司たちと真っ向から対立しています。ヨハネから見れば、エルサレムの神殿の祭司階級を始めとする貴族たちが、ローマ帝国の言いなりになって、あちこちの街で起こっていたローマの兵士たちの犯罪や、貧富の差の拡大などを放置して、自分たちだけがすべてのユダヤ人から吸い上げる神殿税で豪奢な生活をしている。
 そのくせ彼らは、貧しく生まれついた者は、本人が罪を犯したか、本人の先祖が罪を犯したせいで、貧しいのであると決めつけたり、他の生まれつきの障がいや、慢性病についても、それは神の裁きか呪い、あるいは汚れたせいだと決めつけ、神から離れた者、汚れた者として、遠ざけようとしました。
 彼らにとっては、終わりの時に生き残るべきなのは、自分たち祭司階級だったんですね。
 これに対して、「そんなわけがあるわけがないだろう!」と反抗の声をあげたのが洗礼者ヨハネです。ヨハネに言わせれば、先ほどのようなことを言っているエルサレムの祭司階級こそが裁かれるべきです。駐留軍の兵士による暴力も、略奪も、貧富の差の拡大も、病人の放置も、みんな彼らの失政によるものです。その責任は彼らにあるのに、なんで彼らが我々庶民を差し置いて、神の国に入れるものか!!
 そこで、彼はエルサレムの神殿とは距離を置くために、わざと都会を抜け出して、砂漠に身を置き、荒々しい修行の生活をしながら、自らも清いものであろうと努力し、また、全く世の中では価値がないとされている庶民を呼び集めては、罪の悔い改めのバプテスマ(洗礼)授けていたんですね。
 そのようなヨハネの権力者たちへの怒りは、イエスにも受け継がれています。イエスは最終的にヨハネからは離れて、違う方法で宣教を始めますが、この世の支配者に対する庶民の怒りを代表しているという面では、大きく洗礼者ヨハネから影響を受けています。

▼第2のモーセ、第2のヨブ

 さて、ヨハネの弟子になって、イエスもヨハネと同じように砂漠で修行を受けるようになります。
 2節に
「四十日間、昼も夜も断食した後」と書いてありますが、これは書いてある通りの40日間の断食をやったという意味にもとれますし、実は旧約聖書の申命記に、モーセが十戒を神から授かるために山に登り、40日40夜断食したという記事が収められています。
 40日間昼も夜も断食して、やっと神からもらえたのが、「十戒」という神から直接与えられた最初のシンプルな律法だったというお話です。
 ですから、そのような象徴的な数字であることを加味しますと、この聖書の箇所では、イエスが「人はパンだけ生きるのではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」というのは、なるほど、モーセが山の上で断食したことによって、神の言葉としての律法を受け取ったのと同じように、イエスも何か律法に代わる新しい神の言葉を、今、神から受け取ろうとしているのではないか、と読む人に期待させようとして、マタイさんはこのように書いたのではないかとも思われます。そのように読んだ方が、意味の広がりが出てきますね。
 そして、誘惑する者……その正体ははっきりとはわかりませんが、ここでも書かれていますように、悪魔の一種、あるいは悪魔の一員であると考えて良さそうです。
 そこで私が思い出すのは、旧約聖書の「ヨブ記」ですが、「ヨブ記」の中でも、悪魔は神と駆け引きを行いながら、ヨブに試練を与えていきます。
 ヨブは様々な試練を悪魔に与えられて、自分の神への信仰が本物であるかを試されてしまうわけですが、同じように、イエスも神への信頼がいかばかりのものか試されることになる……というわけなんですね。
 ですから、この物語の背景にはちゃんと旧約聖書のバックグラウンドがあって、これをもとにマタイさんが物語を構成しているということがわかります。

▼パンだけではなく

 そして、この誘惑者(悪魔)はイエスに「腹が減ってるんだろう? お前は神の子なんだから、なんでもできるだろう。ほら、目の前のこの石がパンになるように命じたらどうだ?」
 先ほども言いましたように、イエスは、
「人はパンだけで生きるものではない。神の国から出る一つ一つの言葉で生きる」と答えます。
 「人はパンだけで生きるものではない」と言う。つまり、「食べ物さえあればそれでいいだろうというわけでには人間はいかないんだ」と言うことですね。
 多くの人が、この一言で躓きます。「人間、食べないと生きていけないだろう」と。食べ物がなくても生きて行けるとイエスは言っているのか。信じる者は霞を食ってでも生きて行けると言っているのか。何を非現実的なことを言っているのか、と引っかかってしまう人が少なからずいます。
 まあイエスは、「パンだけで生きるものではない」と言っていますので、別に「パンはいらない」と言っているわけではないんだよ、ということですね。パンは絶対に人が生きていくためには、必要です。あの「大飯食らいの大酒飲み」と言われるイエスが「人間にはパンはいらない」などと言うはずがありません。
 しかし、「人を生かすのは、パンだけではない」というのですね。

▼神の口から出る一つ一つの言葉による

 「人は、パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
というのは、どういう意味でしょうか。
 ここでもう一度、先ほど申し上げたモーセの断食の連想に戻りましょう。マタイさんは、イエスが砂漠で40日断食したのは、モーセが十戒を手に入れるために40日断食したことを思い起こさせようとしているのではないかと先ほど言いました。
 もしそうであるとすれば、ここで言われている「神の口から出る一つ一つの言葉」というのは、十戒のことかもしれません。
 しかし、もう少し考えを進めると、人の空腹を満たすのは確かに食事ですが、ユダヤ人は食事を一人ぼっちでは普通は食べません。旅をしている時でも基本は二人旅ですし、家にいる時には現代社会で言うような「孤食」ということはありえず、必ず家族が同席して食事をするようにしています。お客さんを家に迎えた時も、歓迎の気持ちを込めて、一緒に食事をします。
 そして、その食事では必ず聖書……この場合、イエスの生前に読まれていた聖書ですから、旧約聖書のことです……が読まれ、祈りを捧げられます。
 この食事の場で聖書が読まれること。これが「神の口から出る一つ一つの言葉」が差していることかもしれません。
 旧約聖書は、その核になっているのが、モーセが書いたとされる最初の5冊ということになっています(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)。これらをモーセ五書と言います。
 しかも、モーセが五書を書く前に最初に神からもらったテクストが十戒です。ですから、旧約聖書の核の核は十戒であり、ここからモーセは旧約聖書の最初を作り上げたのだという言い伝えに従えば、確かに、イエスは「モーセ以来の神の言葉を、私たちは食事のたびにパンと一緒に食べているのだ」と言っていることになります。
 さらにさらに考えて行くと、この福音書の物語は、イエスが亡くなってから50年近くも経った頃にマタイさんがもうすでにある程度広がったキリスト教会の読者たちに向けて書いています。
 マタイさんとしては、このイエスの断食と空腹とそれを跳ね返す物語を使って、何を教会の人たちに伝えようとしたのかというと、やはり、ここでも「私たちはイエスさまがしてきたように、パンと一緒に神の言葉を食べながら、集まって食事をしているじゃないか。これが教会の食事というものだよ」ということなのではないかなと思います。
 ですから、キリスト教会の食事は、パンも食べ、神の言葉(つまり聖書の言葉)も食べるように味わう、そういう食事なのだよということなのですね。

▼パンとサーカスへの拒絶

 また、もう少し別の視点から見てみたいと思います。
 これも最初から申し上げていることですが、洗礼者ヨハネの教団の修行の中で、イエスはこのパンの誘惑を受けています。
 そして、その誘惑はパンだけではなく、この次には神殿の屋根の端という高いところから飛び降りてみろとか(マタイ4:6)、もし悪魔を拝むなら世のすべての国々の繁栄をみんな与えよう(4:9)といった誘惑に続いて行きます。
 考えてみれば、これらの誘惑との戦いを、洗礼者ヨハネの闘おうとしたものから受け継いだものだと考えるなら、イエスはヨハネに続いて、やはり世の中の権威や権力、そして富や財を握って人々に対して抵抗を続けていたのだと読むことはできないでしょうか。
 たとえば第3の誘惑:世の繁栄ぶりを見せて、これが欲しいかという誘惑は言わずもがなです。その当時、世の繁栄ぶりを握りしめていたのはローマ帝国という軍事大国でした。しかし、イエスはこれに媚びることを拒否しました。強大な軍事力で世界各地の抵抗勢力や、自治勢力、独立運動を押さえ込み、基地を作って兵士の犯罪を振りまきながら世界の大枠の秩序を保つ、現在の「パックス・アメリカーナ」の語源のとなった「パックス・ロマーナ」という体制があったのですが、これを拒絶しました。
 また第2の誘惑:「神の子なら飛び降りたらどうだ」という誘惑も、同じような趣旨のものと思われます。
 当時、ローマ皇帝は「神の子」と自分で自分のことを呼び、国民にもそのように呼ばせ、そして自分が皇帝として君臨している時代に鋳造した貨幣にも、「神の子アウグストゥス」とか「神の子ティベリウス」といった風に、彫り込ませていました。
 例えば、この神の子ティベリウスが高い神殿の屋根から飛び降りてきたとしましょう。兵隊たちがどっとやってきて、身をもって飛び降りてきた皇帝を守るでしょう。ですから、自称神の子の皇帝にとっては神殿の屋根から飛び降りるというのは、たやすいことです。
 しかしイエスは、そのような自分のわがまま放題を受け止めてくれるような、自分の支配力を試すような誘惑に乗ることを拒否します。
 そして、第1の誘惑に話を戻しますが、「石がパンになるように命じたらどうだ」。
 これも、皇帝ならたやすいことです。「そこの石よ、パンになれ」といえば、家臣がサッと石をパンに取り替えてくれるでしょう。世の中のどんなことで思い通りになるということの象徴です。
 しかし、パックス・ロマーナのもう一つの面、それはご存知の方も多いのではないかと思いますが、「パンとサーカス」という言葉がありますね。皇帝がローマ市民を治める秘訣として「パン」を劇場で投げ与えたり、サーカスつまり娯楽を提供したりします。食べ物と娯楽を与えておけば、人はおとなしく支配者のいうことを聞くだろうという、言って見れば愚民政策です。
 そんな「パンとサーカス」の「パン」をお前も「神の子」だったら手に入れることができるだろう? という誘惑をイエスも受けたという話ではないでしょうか。そしてここでもイエスは、そのような形でパンを得て、神の言葉もないままに一人で食するということを拒否するのです。
 そしてあるいは、ひょっとしたら、高いところから飛び降りるというのは、「サーカス」のことを揶揄して言っているのかもしれませんね。
 
▼私たちにとっての「神の子」

 つまり、この荒れ野の誘惑、特に断食におけるパンの誘惑のお話は、ヨハネの教団がエルサレムの神殿貴族たちに対して行っていた抵抗を、現在の(マタイの時点のということですが)キリスト教会も、もっと視野を広げて、ローマ帝国に対して行なっているんだよということを暗に示しているのではないかと私には思われます。
 あのローマ帝国では、パンとサーカスによって国民を欺きながら繁栄を維持しようとしているけれども、その裏側はユダヤを含めた多くの周辺国への侵略と略奪と軍事的占領で支えられている。
 そんな帝国の中心で、ローマ皇帝は自分のことを「神の子」と自称している。しかし、私たちは、全く違うタイプの人を「神の子」として立てよう。
 私たちが立てる「神の子」は、私たちと一緒に、神の言葉を読み、祈りを交わしながら、互いに心を込めて差し出しあった食事でともに時を過ごし、喜びを分かち合う仲間なのだと。
 私たちのいう「神の子」は、高いところから飛び降りても死なないことを見世物にするような道化ではないのだと。
 そして私たちのいう「神の子」は、軍隊と権力で力による平和と繁栄を誇ろうとするのではなく、あくまで「神である主を拝み、ただ主に仕える」(4:10)ことによって、ささやかな平和を草の根から作ってゆくのだということを宣言しているのではないでしょうか。
 今、「経済、経済!」という叫び声と、「強い国へ、強い国へ」という叫び声を使い分けながら強引に政治が進められていますが、この国はパンとサーカスによる見せかけの繁栄、その背後で拡大する貧富の差と軍隊や暴力という影を背負う、かつてのキリスト教徒たちが見たローマ帝国のような状況に踏み込んでいるのではないでしょうか。
 ヨハネと、イエスと、イエスの後を継ぐキリスト教会は、そのような世の中のあり方に対して、神の言葉とともにパンを共にいただくということを中心にしながら、静かに異議を唱えていました。そして、貧しい人、病んでいる人、世の中の端っこに追いやられている人と共に生きて行こうとしていました。少なくとも、ローマ帝国の国教になってしまう派閥が台頭するまでは……
 「私たちは、パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉をパンを一緒に食べるように聞きながら、生きてゆく」。
 そのような宣言を、今回の誘惑の物語を通して読みとることができるのではないかと思うのですが、皆さんはいかがお感じになりますでしょうか。
 




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