もはや戦うことを学びたくはない

2016年8月7日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 平和聖日礼拝 説き明かし

約29分間
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聖書朗読と説き明かし29分間 + わかちあい49分間 = 78分間

 イザヤ書2章1−5節 (新共同訳)
 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
 終わりの日に
 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、
 どの峰よりも高くそびえる。
 国々はこぞって大河のようにそこに向かい
 多くの民が来て言う。
 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
 主はわたしたちに道を示される。
 わたしたちはその道を歩もう」と。
 主の教えはシオンから
 御言葉はエルサレムから出る。
 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし
 槍を打ち直して鎌とする
 国は国に向かって剣を上げず
 もはや戦うことを学ばない。
 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。


 
▼警告の言葉

 本日お読みした旧約聖書の言葉、イザヤ書第2章の言葉は、預言者イザヤによる平和の呼びかけの言葉として大変有名です。
 殊によく知られているのは4節の言葉ですね。
 もう一度お読みします。
 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(イザヤ2:4-5)
 何も説明もいらない。付け加える必要もない。戦いに疲れた人々を癒す、平和の希望への呼びかけです。
 しかし、少し広くこの箇所の前後を読んでみますと、イザヤ書の1章から5章に至るまで、ずうっとユダヤの王国がいかに腐敗し、無礼者が支配者になり、国民を大切にせず、財宝と軍隊に溺れて、主なる神の怒りを受けて裁かれるであろうことを警告しています。
 その警告の言葉の真ん中で、イザヤは「自分はこんな平和の幻を見たんだ。だから聞いてくれ。これが理想の平和なんだ」と語り込んだのが、この平和の言葉なんですね。ただ警告して責めるだけではなく、どちらに向かうべきなのか、また未来はきっとこうなっているだろうという希望も込めて、この平和の言葉を語ったんですね。
 1章から5章まで続く警告と戒めの言葉、特に今日の聖書の箇所の次のページ、2章の7節以降、
「この国は銀と金に満たされ、財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ、戦車には限りがない。この国は偶像に満たされ、手の業、指の造った物にひれ伏す。人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。彼らをお赦しにならぬように」(イザヤ2:7-9)……という言葉は、これから日本が向かって行く方向を暗示するように聞こえるようです。
 と言いますのも、この国にはお金をたくさん儲けている大企業や経営者はいますが、その人々が持っているものをいよいよ豊かにする一方で、収入の低い人は一向に生活が楽にならず、人間が卑しめられ、低くされているという格差が意図的に作られていること。
 また、為政者が憲法改定をもうすでに声高に主張していますが、その改定原案の中では基本的人権の項目も削除され、自衛隊を国防軍に格上げすると明記してあること。
 また、武器輸出を禁止する原則も緩和され、積極的に武器を開発し、それでこれまでよりももっと大きな富を稼ごうとしている政治家と財界人の有様。
 さらには、この聖句には偶像礼拝のことも書いてありますが、いま現在、先ほど述べたような政治のあり方が、ある宗教によってコントロールされていることを我々は認識しておかなくてはいけないと思うんですね。

▼神道政治連盟と日本会議

 皆さんは現在の閣僚の全員が「神道政治連盟」という組織のメンバーであることをご存知でしょうか。神道の本山である神社本庁が政治目的のために設立した組織で、明治時代の国家神道や国体意識の復興などを目指していますが、今、現職閣僚のほぼ全員がこの神道政治連盟のメンバーです。
 また、閣僚の8割が「日本会議」という極右の組織に所属していますが、この日本会議というのは、もともと「生長の家」という新宗教の団体の継承者の人々が中心になって、明治憲法の復活や、国家神道による国民の支配、日本が古来から独立国でいかに尊い歴史を持っているかを教育するために、歴史を修正することなどを目的に掲げている団体です。
 蛇足かもしれませんが付け加えますと、クリスチャンの国会議員として知られている日本キリスト教団鳥取教会員の石破茂さんも、ちゃんとこの神道政治連盟と日本会議のメンバーであられます。
 すでに先の参議院選挙の前から、この日本会議と結びついた議員や高級官僚たちが、「憲法を変える誓いの会」を開催していて、その時の政治家たちの講演の映像がネット上には流れていました。
 政治家たちは、「国民に基本的人権や自由や主権など与えているから、この国は発展しないんだ」とか、「国のために命を捨てる覚悟を持った人間を育てなくてはならない」ということを連呼している様子を私も見ました。
また、つい先日、防衛大臣に任命された人は、「戦争というのは魂の浄化につながる最高の儀式である」と、なんの疑いもなく言ってしまうカルト信者です。
 そのような政党、政治家たち、カルト信者たちを私たちは選挙で勝たせてしまったのですから、これから先、私たちも子どもたちも、じわじわと人権と自由と主権を奪われて行く方向にあります。預言者イザヤが主の裁きを警告したその状況に、これから陥って行くのだという覚悟を決めた方がよいのではないかと思われます。
 そして、それが国家神道というひとつの宗教の後ろ盾で完成しようとしているということも認識しておいた方がよいのではないかと思います。

▼人殺しの背後にある政治

 つい先日のことですが、神奈川県相模原市の障がい者の施設で、19人が一挙に惨殺されるという酷い事件があったことは、皆さんご存知ではないかと思います。戦後最悪と言われている大量殺人事件です。
 その犯人は、犯行の数日前に、衆議院の議長に向けて手紙を送っていたのですが、私はその手紙も読みました。
 その手紙の中で犯人は、自分は470名の障がい者を殺せる、自分は日本国と世界のため、人類のために障がい者を殺す、そのことを安倍総理にもよろしく伝えてくれ、と言っています。
 また、それに先立って、2月には「ヒトラーの思想が降りてきた」と語っていたことらしいことも報道されています。ヒトラーはナチスの党首としてドイツを支配していた時、ゲルマン人を純粋化するために、そしてドイツが更に発展するために邪魔者であるとして、障がい者を相次いで処刑していました。そのヒトラーの思想を自分は受け継いでいる、しかもそれが安倍総理のお気に召すだろうと本気で考えていると言っているわけです。
 この犯人を単純に「頭がおかしい」とか「異常だ」と言った論調で片付けてはいけないど思います。彼は完全に確信犯であり、自分のやったことは正しいと思っている。しかもそれは今の日本の政治にフィットしているのだと思っているのですが、それは間違っていると私たちは言えるでしょうか。むしろ、彼の言動は直観的に正しく今の政治を捉えているとは言えないでしょうか。
 国民には人権は要らない。国民は国のために死ね。そういう価値観は、国の発展に役立たない者は死んでもよいという考え方に直結します。それは究極の差別であり、その差別は人を殺すのです。
 それが日本の現在向かっている方向です。

▼国家神道の教育への介入

 そのような宗教、思想を硬く確信犯的に信じている人たちが、今度は教育現場にも介入してゆくとどうなるでしょうか。
 今政治の実権を取っている人たちの言うとおりの教育を行うとすれば、文字通り国のために命をささげるような子どもたちを作ろうということになるでしょう。
 現に、総理大臣が高く評価した(これも本来、与党の政治家が特定の教科書を推薦するというのもあってはならないことですが)社会科の教科書を、あろうことか私が勤務している学校で採用して、現に今使っていますが、この教科書を見ると、例えば公民の教科書では、確かに個人の自由よりも、自分が属している社会の集団行動や集団の道徳の方を優先させる考え方が貫かれています。性別や性的指向に関係なく人権を主張したり、仕事を持って働くということが否定されていますし、標準的な家族のあり方があるかのようにイメージを刷り込もうとしていて、多様な家族のあり方を認めていません。
 そして、何より、現在の憲法よりも明治憲法の方がいかに優れているか、そちらの方が当たり前といった論調なのですね。
 歴史の教科書を見ると、豪族たちがそれぞれの土地で勢力争いをしていたことも、それぞれの神があり、それが徐々に天皇制に集約されていったことも、信長・秀吉・家康が次第に天下統一を図り、次第に日本の姿ができていったことよりも、まるで古代から日本という国があらかじめ独立国家であったかのように書いてありますし、各章の各時代に締めくくりに「日本はこうして独立を守った」といちいち強調してあります。「大東亜戦争」「大東亜共栄圏」という文字も踊っていますし、日本の被害ばかりで加害のことは書いていない。
 そして、何より、私たちクリスチャンにとって痛いのは、日本人の宗教観は一神教からは理解されない。本来日本人の宗教は神道であるということを、教科書の冒頭から決めつけられているという点だということです。

▼戦うことを学ばせる

 まだ教科書にこのようなバリエーションが出てきたというだけでも、この有様ですが、今後、政府は「道徳」という科目を大幅に強化し、正式な教科にして成績もつけるという方向に出てきます。もう再来年(2018年)からそのような道徳科が実施されるべく計画が進んでいます。
 その具体的な内容についてはまだ詳細が決まっていないようで、とにかくやるということが先に決まっているような状況ですが、おそらく今の時点で調子付いている政治家たちの発言ですが、一人一人の基本的人権よりも国家の目的の方を優先する。究極的には国家のために自分の命を捨てることも美化してゆく方向になることは、簡単に予想できます。
 だいたい学校で道徳に成績をつけるということはナンセンスで、そういうことをすれば、形や言葉だけで大人たちが喜びそうなことを言う嘘つきばかりを生み出すことになるでしょう。嘘が簡単につけない子は、精神的にかなり追い込まれて、心が破壊される子も出てくるでしょう。
 政府にとっては、形ばかりの道徳じゃないかという批判は全く気にならないと思います。と言いますのも、政府は国民が「形だけ」従ってくれるだけでいいからです。
 これは、明治以来、太平洋戦争に至るまでの日本の宗教に対する政策がそうだったんですが、日本では信教の自由ということはちゃんと守っているという建前だったんですね。
 「あなたが何を信じるかは全く自由である。信仰以前の国民の義務を果たしていれば、心の中で何を信じるかは自由である」という論理です。
 もっと具体的に言えば、心の中で戦争に反対するのは全くオーケーだということです。ただし、国民の義務として戦争を命令されたらちゃんと戦争に参加しなさいよということです。
 国家にとっては個々人の内面は全く自由で構わないんですね。ただ形の上でそれを表現することは禁じられるし、心では反対していてもお構いなしで、形の上で完璧に命令を遂行すればそれでいいんですね。
 ですから、嘘でも何でもいいから、国が「戦え」と言ったら、命令通りに動くということしか国は望んでいない。
 しかし、人間の体と心が無関係に生きているわけではありません。体が命令に従うことを強要されていて、それに反抗すると罰せられるということを繰り返していると、内面まで変化せざるをえないでしょう。
 あるいは、内面を変えることのできない者は、必ず精神のバランスを崩して病に陥ることでしょう。精神障がいに陥る者も当然たくさん出てくるでしょう。しかし、障がいを患っても、国家にとっては役に立たない存在ですから顧みられることはありません。むしろ、国家も国民も「役に立たない人間」として、このような障がい者は殺したほうが良いと考えるようになるでしょう。
 そのように教育の力で持って行くことは可能だということです。

▼いばらの道

 ですから、私たちがこれから生きてゆく道は、いばらの道です。
 私たちは、国籍や民族や宗教の違い、健常者であるか病や障がいを持つ人であるかと関係なく、地球上のどの人も神さまの愛の中にあることを信じ、愛される喜びを伝えたいと思っている人間です。
 「敵を愛しなさい」と教えられ、「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」と教えられている人間です。何よりも主の平和こそが、この社会で大切なものだと信じている人間です。
 本日の聖書の箇所にも、武器を打ち直して農具とし、戦うことよりも食べて行くことを大切にしよう、そして一緒に主の光の中を歩もうと記されています。
 「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(2:4)と書いてあるこの言葉は、戦いを経験し、痛み苦しみ果てて、そのあとに出てくる言葉です。
 今の私たちの国は、この言葉とは全く逆の方向に進んでいます。そして、やがて戦争が始まり、私たちは非常に苦しい時をこれから経験することになるでしょう。
 しかし、何年先のことかわかりませんが、やがてそのような苦しみの時が終わり、多くの人が悲しみ疲れて後悔する時、私たちが信じる「もはや戦うことを学ばない」という言葉が再び息を吹き替えす時が来るでしょう。
 ですから、それまで私たちはこのみことばを決して忘れない者として生き続けなくてはなりません。

▼戦わないことを学ぶ教育

 最後に、京都新聞に掲載された、ある人の記事を紹介したいと思います。同志社大学の大学院にシリアから留学してこられているハルドゥーン・フセインさんのインタビュー記事です。シリアというと、今まさに戦争の渦中にある国ですね。
 これを読むと、彼が2011年と言いますから今から5年前になりますが、その年に戦争が始まるまで、自分の国は「比較的安全な国」だと思っていたそうです。「母国が目の前で破壊されることは、もっとも悲観的な者でさえ予測していなかった」とあります。
 しかし、私はこの人がどういう経緯で同志社大学に来られることになったのか、詳しい経緯は知りませんが、戦火で大変なことになっている母国を離れてきて、彼は希望を抱いていることが、この記事の最後でわかります。
 記事の末尾の部分を読んでみたいと思います。下から2段目の終わりの方からです。
 「争いが始まり、6年近い月日が経とうとしている。泣き叫んでばかりはいられない。歴史的な苦境を乗り越え平和に至る道を見つけるべきだ。
 シリア内戦は政治、経済、社会の要因が絡まり、極めて複雑になった。また、教育制度、特に宗教教育には戦争前から大きな欠点があった。かつての宗教は宗派間の共存は必ずしも理想的でなく、ほとんどの人が宗教を正しく理解していなかった–今、多くのシリア人がそう思うようになった。宗教観の違いを受け入れる教育、ナショナル・アイデンティティーと宗教的アイデンティティーの関係、メディアで流れた自由、民主主義などを深く考えさせる教育はなされていなかった。戦争を終わらせ、国を再建するには、このような課題を直視しなければならない」
 この人は、泥沼化しているシリアの内戦から、「戦わないことを学ぶ教育」の大切さを学んで、それを母国に持ち帰りたいと望んでいるのでしょうね。
 ここには、何年先のことかわかりませんが、戦争にこれから向かって行こうとしている我々の国の未来の姿があると思います。
 戦争に向かって行き、苦しみ、悲しみを経て、また平和を望むときが来るでしょう。その時、私たちの信じている聖書のみことばの真価が問われる時が来るのではないでしょうか。








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