いつでも若い教会
 
……(「新しいものは膨らんだり縮んだり」を改題

2016年8月21日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約25分間
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聖書朗読と説き明かし25分間 + わかちあい23分間 = 48分間

 マルコによる福音書2章21−22節 (新共同訳)
 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。



 
▼発酵種

 1週間ほど前、生まれて初めてピザというものを焼きました。ドライイーストとぬるま湯を混ぜて小麦粉を練って、しばらく休ませて発酵させて、それからまた練って……という作業を繰り返して生地を作り、オーブンで焼こうと思いましたが、水の量を間違えたのか、ベチャベチャの生地になってしまいまして、とても、イタリア料理店で時々見るような、クルクル回せるような固さにはなりませんでした。
 それでもとにかくオーブンに入れて焼いてみると、端っこはカリカリ、真ん中はフワフワというチグハグな生地が焼きあがりまして、とりあえずそれを食べましたが、まあ形や柔らかさはともかく味だけはいけるかな? というようなものでした。
 失敗といえば失敗で、人様に食べてもらえるようなものではないんですが、それでもまだドライイーストは残っていますし、ドライイーストの賞味期限はそんなに長くないし、近いうちにはパンを焼いてみたいなと思っています。
 これまで、味をつけて焼いたり、煮たりといった料理はいろいろ作ってはいたのですけれども、発酵を使う料理というのは、なんだか難しいような、しかしちょっと憧れで、でもちょっと粉を練ったりするのが大変そうで、少し敬遠しておりました。
 しかし、ちょっと入れるものの分量を間違えたり、時間の測り方を間違えたりしても、とにかく休ませている間に、生地がだんだんと大きくなって何倍もの大きさになっているのを見るのは、なんだかワクワクします。
 特に作る料理の種類によっては、あらかじめイーストと粉で小さな発酵種を作っておいて、それとは別に本体の大きな生地の元を練り上げて、それから十分発酵した発酵種を入れて、もう一度全体に混ぜて、それから再び大きな生地を寝かせるという方法を取っているものもあって、なかなか発酵というのは奥が深いですね。
 そして、ここで出てきた発酵種というのが、聖書の世界においては「パン種」と呼ばれているもので、夜中の間に発酵して膨れたパンを朝に焼くときに、その生地の一部をちぎって発酵種として取っておくのがそれなわけです。

▼発酵食品への興味

 他にも聖書の中には発酵食品がいくつか登場します。例えば、私たちは聖餐でパンとぶどうジュースを使いますが、イエスの時代の主食は何かと言えば、パンとぶどう酒ですね。ぶどう酒、お酒も発酵食品の一種です。
 今日の聖書の箇所の中でも、ぶどう酒が登場し、新しいぶどう酒はまだ酵母菌の発酵が続いているので、泡が出てきますから、そのガスがたまって皮袋を破裂させてしまうぞ、ということをイエスは言っているんですよね。
 他にも、「凝乳(ぎょうにゅう)」という言葉が聖書の所々に出てきますが、これはヤギや羊の乳を乳酸菌で発酵させて固めたもので、チーズやヨーグルトのことを指します。
 聖書の世界だけではなく、味噌、醤油、漬物など、人間は各地でそれぞれの地方に会った発酵食品や発酵飲料を古来から開発して、それを健康に役立てていたんですね。
 そこで、私は発酵してゆくピザの生地を見ながら、そういうことをごちゃごちゃ理屈っぽく考えているわけです。
 そして、いつも思うのですけれども、古代にこの発酵という現象を発見した人はびっくりしただろうなあと。

▼発酵のメカニズム

 発酵が酵母菌や乳酸菌などの微生物によって引き起こされるということがわかったのは、つい最近のことで、150年ほど前だそうですね。パスツールという人が発見したそうです。微生物というものの存在がわかったこと自体が、330年ほど前のレーウェンフックという人の発見ですけど、その時でもその微生物が発酵という現象を起こしていることはまだ知られていなかったんですね。
 こんなに最近になるまで発酵のメカニズムは分かっていなかった、日本の歴史でいうなら明治時代になるまでそれはわかっていなかったわけですから、およそ弥生時代に当たるようなイエスの時代に発酵の仕組みがわかったはずはないですね。
 微生物の存在を頭の片隅にも置いてなかったような時代ですし、あらゆる病気が悪霊の存在や呪いや神の罰だと考えられていたような時代ですから、穀物を練ったものが一晩たったら大きく膨れ上がって匂いも味も変わっていたり、果実をしばらく食べ忘れて放っておいたら、腐ったのか何なのか、でもちょっと変わった匂いがするな、うまいのかな? と食ったり飲んだりしてみたら、いい気分になっちゃった。これは驚いたと思います。
 ぶどうの実をなったまま放置しておくと自然発酵することもあるそうで、これを食べた動物が酔っ払って妙な行動をとったりする様子なども古代人は見ていて、それで発酵という現象を発見したのかもしれません。
 また、モーセの出エジプトの物語において、マナという不思議な食べ物がエジプトから逃げたイスラエルの民を救ったというエピソードがありますが、これも、彼らが初めて白い粉を練ったものが朝ごとに増えているというパンの発酵を発見した時の喜びが元にあって出来上がった神話なのではないかと私は思っています。
 ただ、ギリシア・ローマではパンの神という風に、神々の中に発酵を司る神が一人いるという考え方をしたのに対し、イスラエル・ユダヤの人々は、やはり神はお一人のみであるという一神教の考え方から、この発酵という現象も、神が与えた恵みだと受け止めたのでしょう。

▼縮む布・ガスを出す酒

 さて、今日の聖書の箇所ですが、前半は新しい布のたとえ話、後半は新しいぶどう酒のたとえ話となっています。
 イエスはよく神の国をパンとパン種にたとえて話したり、小さなからし種が人の背を越すような木になるのだとか、そういったたとえ話をするので、神の国というのは、だんだんと大きくなるものなのだ、という成長主義的な側面ばかりに私たちは目が行きそうになります。
 イエスの神の国運動というのは、パンのように、またからし種のように、どんどんと大きくなってゆくというイメージがここにあります。
 しかし、今日のたとえ話は大きくなるという成長の面を述べようとしているのではないようです。
 今日読んだ前半の部分、21節を読んでみると、
「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる」(マルコ2:21)と書いてあります。
 この「織りたての布」ですが、これは直訳すると「まだ晒していない布」という言葉なんですね。晒していない布が織りたてであるというのは訳した人の解釈ですが、おそらく新しい布のことを言っているのだろうと思われます。
 この「まだ晒していない布」は、そのまま使うと縮んでしまう。だからこの新しい布を晒していないままで古い服のつぎ当てに使うと、古い服までも破ってしまって一層ひどいことになるぞと言っているのですね。
 また後半は先ほどから申し上げているような発酵のたとえですが、「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる」(2:22)と書いてあります。
 新しいぶどう酒は、まだ発酵がこれから進んで行くんだから、どんどんガスが出て、しなやかさのない古い皮袋は破裂してしまうぞということですね。
 ここで強調されているのは、どちらも「破る」あるいは「引き裂く」という破壊的なイメージです。それも、膨らんでゆくから破るとは限らない。縮むから破るということもありうると言われていることに注意したいと思います。

▼戸惑う福音書記者

 このたとえ話を通じてイエスが何をたとえようとしたのか、様々な解釈が可能であろうと思います。
 ただ、イエスのこの言葉がとても荒々しい響きを持っていたために、福音書の記者たちは、ちょっと戸惑っている様子もみられます。
 今回のこの聖句は、おそらく別々の場面でイエスが話した2つのたとえを、似た言葉の響きがあることからひとまとめにしたグループがあったのだと考えられます。
 そして、そこに、おそらくマルコが
「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」(マルコ2:22)という言葉を付け加えたのでしょう。
 なぜなら、「新しい布は古い布を引き裂くぞ。新しいぶどう酒は古い革袋を破るぞ」、というちょっと攻撃的な物言いと、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れておけば、そういうトラブルは起こらない」と言う若干妥協案のような物言いでは自ずから姿勢が違ってくると考えられるからなんですね。
 それに、このマルコの福音書の言葉を、マタイもルカも自分の福音書に引用して取り込んでいますけれども、マタイがほぼそのまま丸写ししているのに対して、ルカは大幅に変更を加えているんですね。
 ルカによる福音書5章36−39節に書いてありますが、そこを読んでみます。
 「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」(ルカ5:36)
 ここでは「晒していない布」が「新しい服から破り取った布切れ」という具合に、全然違う話になっています。そして、古いものを「引き裂く」という表現ではなく、「古いものには合わない」という穏やかな表現に変えられています。
 さらにその続きを読むと違いはますます明らかになります。
 「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れればならない」(5:37-38)。ここまではだいたいマルコと似たような内容ですが、ルカはさらにこのような言葉をつなぎます。
 
「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」(5:39)
 ……これは、イエスが言おうとしたことのニュアンスと逆を行こうとしたものではないでしょうか。
 つまり、イエスが「古いものを引き裂く」「古いものを破る」新しいものに注目して言葉を発したのに対して、マルコは「引き裂いたり、破いたりしないようにするにはどうすればいいか」を考え、ルカは「やっぱり古いものの方がいいんだ」と言ってしまう。本来のイエスの言葉よりだんだんと穏健に無難に物事を済ませようとしている様子がうかがえます。
 そして、ということは後々の福音書記者でさえ、イエスの言葉の取り扱いには苦労したと言い方もできるでしょう。逆に言うと、それほどイエスの言葉が過激であったということを、マルコもルカも感じ取っていたということでしょう(マタイはこの点については何も気に留めなかったのかもしれません)。

▼過激な言葉

 新しいものを引き裂くのだ、という2つのたとえ話に共通するモチーフ。それからこの2つのたとえの、もう1つの共通点は、「まだ晒していない布」と「新しいぶどう酒」がどちらも、これからも変化してゆくものだという意味合いを持っていることです。
 「まだ晒していない布」は、これから縮んでゆくという変化の可能性をはらんでいます。また「新しいぶどう酒」は、これから発酵が進み、お酒自体もまだまだ変化するし、ガスも発生するのだという可能性を示しています。そして、その変化がやがては古いものを破壊するのだという予感につながっています。
 そしてさらには、それらは未熟で発展途上だということも言えます。それらはまだ若く、これから成熟してゆくのです。
 イエスはこのたとえで何を言いたかったのでしょうか。
 このたとえで彼は自分の始めた神の国運動が、古い当時のユダヤ教の世界観や人間観を引き裂くものだという挑戦的な意欲を示したかもしれません。
 あるいは自分の始めた新しい運動が、古い体制を引き裂くような効果を生んだ時、どのような結果を引き起こしてゆくのか、自分は殺されてしまうのではないかという非常に悲観的な予感を示したものかもしれません。
 あるいは、そういったこととは全然違うことをイエスは考えながら、このような言葉を発したのかもしれません。
 ただ言えることは、イエスのこの言葉が、あまりに印象的であったために、この言葉が長く人々の記憶にとどまり、何十年後にもなって福音書に収められるに至った。
 また、福音書の記者たちが、これはイエスの過激さを示すものだと警戒して、教会の安全を守るためには、この過激さから方向転換するしかないと考えたということです。
 ですから、イエスのこの言葉は、相当危険な言葉として、伝えられていた。このイエスの言葉は過激であると、初期のキリスト者たちは知っていたと考えてよいのではないかと思います。
 実際、イエスはその言動によって逮捕され、処刑されたのですから、やはりイエスの運動は過激だと受け止められたのであり、その過激さを彼自身が自覚していた証拠だとして、今日の聖書の言葉を受け止めた方が良さそうです。

▼古いものを打ち破る

 おそらく自分の運動を「晒していない布」や「新しいぶどう酒」にたとえたイエスは、自分の働きが、これからも変化を続けてゆくものだ、と考えていたのでしょう。そして、そのチャレンジは古いものをぶっ壊すものなのだと思っていたのでしょう。
 しかし、ルカの福音書の書かれた80年代でもう既にそのようなイエスの言葉から牙を抜くような作業が始まっていたということですね。
 そして、やがてキリスト教会は、教会もイエスの福音も、永遠で普遍的で変わらないものという意識を作り出し、浸透させてしまいました。
 今では、昔からの伝統に凝り固まることが良いことで、正しいことだと思い込んでいる牧師も信徒もたくさんいます。そして、何か変化が起こること、昔から言われていたこととは違うことを言い出す人が出ることを非常に警戒し、その新しいものを潰しにかかろうとするクリスチャンが多いのですね。
 しかし、イエスがもし今の日本の教会を見たら、そんな変化を恐れる硬直した教会が自分を神の子として祀ってありがたがっているのを見て、失笑するんじゃないでしょうか。
 私たちがイエスと共に生きてゆこうとするならば、その生き方は常に新しい変化に対して開かれたものになるだろうと思います。自分自身がいつでも新しいものに変化する可能性を秘めているんですね。変化に対して心を開き、いつでも自分の人生は発展途上なんだと思うことです。
 そして、もし、古いものが人間を閉塞感に追いやっているとすれば、そういう古いものは引き裂いてでも前に進むというのがイエス流です。
 イエスが「晒していない布」「新しい葡萄酒」であったように、教会も若々しくありたい。そのためには発展途上であることを恐れない。若くて未熟だと言われることを恐れない。また歳を取っても未熟さや失敗を恐れないということではないか。それは教会に集う人の若さではないかと思います。いかがでしょうか。





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