主人公は誰だ?

2016年9月4日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約17分間
礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る






聖書朗読と説き明かし17分間 + わかちあい41分間 = 58分間

 マルコによる福音書2章23−28節 (新共同訳)
 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」



 
▼安息日の主人公は神か

 おはようございます。今日は安息日の主人公は誰かというお話です。
 「人の子は安息日の主である」というのは、教会ではよく知られている言葉ですね。
 この言葉は、たいていは「人の子」というのを救い主あるいは神という特別の存在であると解釈されていますし、神あるいはキリストこそが安息日の主人であるという教理を生み出して、それを信じさせようとしている教会が多いです。
 多くの教会では、安息日の主人は神であるキリストであり、人間は僕(別の言い方をすると奴隷)なので、人間の思いや願いよりも神の思いの方が大切だとされます。安息日に行う礼拝も、本当は神のものなので、人間は遅刻してもいけない。休んでもいけないと言われます。
 僕が高校生時代を過ごした、ある教会では、ある朝、ある婦人が教会に来る途中に、電車の駅で転倒して怪我をしている人を、助けなければと思いつつも、礼拝の始まる時間があるから……と、敢えて見捨てて礼拝に時間通りにやってきた……というのが美談のように語り継がれていたりもしました。なんだか、善いサマリア人の話と全然逆のことをやっているんじゃないかと思えるようなエピソードですけれども、そういうことが賞賛されるような教会もあったわけです。

▼デトックスの日

 安息日を非常に大切にするのは、キリスト教の大元になったユダヤ教においても同じことでした。
 たくさんあるユダヤ教の掟(律法)の中でも、安息日の律法は特に厳しいものです。もともと一切の労働をしてはならないとされていましたが、その中には一定以上の重い石を持ち上げてはいけないとか、一定以上の距離を歩いてはならないとか、火をたいてはいけないとか、細かい規定がたくさん決まっていました。
 現在でも保守的なユダヤ人家庭は、金曜日の日没から土曜日に日没までの24時間、電気のスイッチを入れない、スイッチに触ってもいけないとか、車のエンジンをかけてはいけない、電話をかけてはいけないなどの規定を守っています。
 イスラエルという国では、保守的なユダヤ人地区と開放的なユダヤ人の地区があって、例えば安息日に救急車が保守的な地区を抜けて走ると、住民が石を投げてくるという話を聞いたことがあります。
 今日お読みした聖書の箇所の続きの部分に、「安息日に許されているのは人の命を救うことか、殺すことか」というイエスの言葉が書かれていますが、イエスの問いかけがきっかけになったのかは知りませんが、紀元後になってから、ユダヤ人の間でも、「人命に関わることだけは、安息日の規定を破っても良いという動きが見られるようになったと聞きます。
 現在の、特にアメリカ在住の自由主義的なユダヤ人の中には、きちんとした安息日の規定を守らない人も多いですが、それでも、最近はそういう人向けに「部分的な安息日」というのですかね、金曜の日没から土曜の日没までの間は、スマホの電源を切って、袋に入れて吊るしておく。週に24時間は一切インターネットとは関係のない時間を過ごす。それによって精神を安らかな状態に戻すという、いらないものを排泄する「デトックス」という言葉と合わせて、「ディジタル・デトックス」という運動が若い人を中心に起こってきているという話を聞いています。これは意外と、6日働いたら1日しっかり休んだ方が効率が上がるし、健康にも良いという、安息日というものが作られた実際的な目的をうまく活かしていると言えるかもしれません。

▼まあいいじゃねえか

 今日の聖書の箇所は、ある安息日にイエスと弟子たちが麦畑の中を通って行った時に起こった事件を描いています。
 イエスの弟子たちは腹が減っていたんですね。そこで、麦の穂を摘んでそれをそのまま手で殻を取って口に入れるか、それとも後で噛み潰すか磨り潰すかして食べるつもりであったか、とにかく食べようとして摘み始めました。
 これは
申命記の23章26節に、「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」と書いてある律法に従った行為なんですね。
 また、同じ
申命記の24章19節には、「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい」という規定もあります。レビ記19章にも同じように、作物は摘み尽くしてはならないという規定があります。
 要は畑の作物を徹底的に刈り取らず、四角い畑でも丸く刈り取って、あとは旅人や貧しい人が勝手に取るために残しておきなさい、という人間に優しい律法なんですね。
 そして、旅人や貧しい人は、まさか人が刈り取りの仕事をやっている作業中に横から盗むということはしのびないと。すると、作業が終わった日没後や、農夫が仕事をしない安息日に落穂拾いにやってくるということもあったわけです。そして、そういう前提でイエスたち一行も、まあいいじゃねえかというつもりで麦の穂を積んでいたんでしょうね。
 するとファリサイ派の人々がそれを見て、「なぜあなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをするのか!」と非難し始めたんですね。
 これは畑の中を歩いて麦の穂を積むのも、刈り取りという労働にあたるから安息日にやってはならない、禁止されているのだ、という言い分です。
 先ほども旧約聖書から引用したように、もともとこの他人の畑で麦の穂を摘んでもいいよというのは、人間に取って優しい律法です。
 それに、そもそも安息日の律法の精神も、人に優しいものなんですね。安息日の律法について最初に述べている
出エジプト記の23章21節にもこう書いてあります。「あなたが六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」
 ですから、労働する者が元気を回復するために、労働者は休まないといけないんだというのが、最初の安息日の理念なわけです。

▼屁理屈には屁理屈を

 ですから、ファリサイ派の人たちが「ほら、安息日にしてはいけないことをしている」と難癖をつけてきたのは、まさに重箱の隅をつつくような言いがかりというか、安息日が定められた本来の人間に優しい趣旨をあえて無視して、ただイエス一行に文句をつけたい、今風に言うと「disる」というですか、イエスたちをdisるために屁理屈をこねたわけです。
 これに対してイエスはどのように答えたかというと、
「アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家(エルサレムの神殿のことですね)に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」(マルコ4:26)と。
 これは、旧約聖書のサムエル記上の21章に収められている物語なのですが、若干間違いがあります。
 まず、「アビアタルが大祭司であったとき」と言われていますが、元のサムエル記の物語を読むと、これは正確にはアビアタルの父親のアヒメレクという人です。まあ父親の名前と息子の名前を間違えてしまったということですが、これがイエスの記憶違いだったのか、これを書いたマルコの書き間違いだったのかはわかりません。ただ、このマルコの記事を写したマタイさんは、このアビアタルという名前を消して引用しています。
 それから、もう一つ決定的なのは、このダビデが供えのパンを食べたお話は、安息日の話ではありません。ですから、ここでイエスはかなり無理な屁理屈をこねたわけですね。
 ファリサイ派が安息日のことを持ち出して重箱の隅をつつくようなdisりかたをしたんですが、イエスも安息日とは直接関係ない話を持ち出して対応したわけで。まあ屁理屈には屁理屈を、と言ったところでしょうか。

▼安息日の主人公

 とにかくかなり無理のある屁理屈ながら、要するにイエスが主張したのは、人に優しい社会を作るために定められたはずの律法なのだから、人のために運用しようじゃないか、形式だけを守って、そのためにお腹を空かせた人に我慢を強いるような、そんな律法の運用の仕方は糞食らえだということだったのですね。
 そこで、最後の言葉が出てきます。
「安息日は人のためにある。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(マルコ2:27)と。
 「人の子」とイエスが言うとき、文字どおり「人間の子」という意味であり、「私は人間の子だ」という風にイエスはこの言葉を使います。
 「人間のために安息日があるんだから、人間の子である私だって安息日の主人である」と言っているわけですね。
 私たちは、日曜日を安息日とし、礼拝の日と定めています。この安息日であり、礼拝の日も、人間のためにあるものであって、安息日や礼拝のために人間があるのではありません。
 もし、安息日が人間を圧迫し、人間性を妨げるものであったら、そのような教会に出席する必要はありません。
 もし、安息日の主は神であるという言い分によって、人間を神の奴隷のように見なしたり、扱ったりするのであれば、そんな教会に存在価値はありません。
 しかし、もし教会が人間味にあふれていて、生きる喜びや人を生き生きとさせる出会いを与えてくれるのであれば、そのような教会こそが存在意義のある教会と言えるでしょう。
 そういうわけで、私たちもイエスにならって、「安息日の主人公は人間なんだ」と宣言したいと思うのですが、いかがでしょうか。





Clip to Evernote

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール