そんな難しいことができるか!

2016年9月11日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約18分間
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聖書朗読と説き明かし18分間 + わかちあい36分間 = 54分間

 マタイによる福音書5章43−48節 (新共同訳)
 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」



 
▼愛敵の教え

 今日は、9月11日です。
 今から15年前の9月11日、アメリカ同時多発テロと呼ばれる事件が起こりました。
 私はあの時のことをまだはっきりと憶えていますが、朝の新聞で世界貿易センタービルに旅客機が突入したことを知り、戦争の始まりに怯えた心を抱えたまま、勤務先の学校の校外学習に出かけました。
 校外学習の行き先はユニバーサル・スタジオ・ジャパンでしたが、パークの入り口にある万国旗が目の前でスルスルと下げられて半旗にされたのが不気味でした。
 パークの中にいる間も携帯電話で何度もニュースをチェックしていて、次々に明らかになってくる事件の実態に、戦慄を覚えていました。
 それ以来、ずっと欧米各国といわゆるテロリストたちとの戦いは続いており、またその激しさは増すばかりです。
 このような状況において、私たちは今この「敵を愛しなさい」という聖書の言葉に向き合ってみたいと思います。これは「愛敵」の教えと呼ばれているところです。
 学校の授業でこの箇所を取り上げて、生徒さんたちに自由にコメントを書かせると、ほとんどの子どもが「そんなことは不可能だ」と書きます。高校生くらいになると、「敵だから憎むのであり、憎むから敵なのであって、敵を愛するというのは言葉の上で矛盾する」という風に、レトリックで答えるようになります。とにかく要するに、無理だということです。しかし、逆に言うと、結局は敵を敵でなくするというしか、憎しみや争いから解放されて、平和を作り出すことはできないのかな、と思い至らされたりもします。
 一体、敵を愛することや、敵を敵でなくするような、そんな難しいことが本当にできるのでしょうか。

▼おまえらみんな滅んでしまえ

 まず最初に「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」(マタイ5:43)とありますが、これはまたイエスのイエスらしさというか、おおらかさというか、このとおりに「隣人を愛し、敵を憎め」と言っている言葉は旧約聖書には存在しません。ですから、ファリサイ派や律法学者たちに「そんなことがどこに書いてあるんだ」と突っ込まれたら、どうするんだろうと思いますが、そこはイエスのことですから勢いで言い切ってしまうんですね。
 けれども、基本的に古代のユダヤ人というのは、自分たちと同じユダヤ人のことを同朋・隣人・兄弟姉妹と言ったりする反面、自分たちとは違う民族のことを「異邦人」、「異教徒」と呼んで、非常に警戒しますし、保守的なユダヤ人になると、異邦人に触れたり、あるいは近くだけでも汚れが移ると考えられていたんですね。
 そして、基本的に彼らがこの世の終わりを期待し、メシアが現れて自分たちの王国を打ち立ててくれるという期待を抱いていたわけですけれども、それも結局はユダヤ人国家、ユダヤ人王国のことだったわけです。
 世の終わりに自分たちの王国を神からのメシアが復興してくださるということは、要するに、自分たち以外の民族はみんな滅んでしまえという発想ですよね。
 ですから、結局はイエスの言っていることは当たっているんですね。「俺たちは今までずっと、自分たち以外の民族はみんな死んでしまえと思ってきたじゃないか。今だってそう思っているだろう」と事の本質を突いているんですね。

▼完全になりたければ

 そんな周囲のユダヤ人に対して、イエスはこう言います。
 「敵を愛せ。自分を迫害する者のために祈れ」(44節)
 こんなことを言うからイエスという人はファリサイ派や祭司たちに憎まれるんでしょうね。けれども、イエスは「あなたがたの天の父の子となるためである」(45節)、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(48節)と言います。
 地上のすべての民族、すべての人間が皆同じ神の子であり、すべての人を愛し、すべての人のために祈れるようでなくては不完全なんだよ。あなたがたは律法を完全に守らなくては世の終わりに滅ぼされてしまうぞ、などと言うけれども、完全になりたければ、隣人だけでなく、敵をも愛するくらいでないと完全とは言えませんね、とイエスは言い切ってしまいました。
 歴史的な話をしますと、この頃、イエスの出身のガリラヤでは異教徒のローマ帝国に対する反乱運動の機運が高まっていましたし、実際、イエスの亡くなった30数年後にはユダヤ戦争が勃発し、ユダヤはローマに滅ぼされてしまいます。
 それくらいユダヤ人による異邦人(特にローマ)に対する敵意は高まっていたわけですから、そりゃあイエスは保守的なユダヤ人には特に憎まれたと思います。
 しかし、イエスにおける完全な人のイメージは、善人にも悪人にも太陽の光を注ぎ、雨の恵みを与える、自分を愛さない人にも挨拶ができる人間だったわけです。

▼敵を愛せますか?

 これに対して、今、私たちは敵を愛するということができるでしょうか。
 学校の生徒さんたちには、「嫌いな人ほどちゃんと挨拶をしなさい」と言っています。憎たらしいから憎たらしいという態度をとるのは、これから大人になろうという人のすることではありませんよ、と。まあ往々にして教師がそれをできてなかったりもしますけれども、まあ我々のことは反面教師にして、立派な大人になりなさいとでも言ったりなんかします。
 実際大人の中に挨拶一つもできない人がいたりしますけれども、そういう人にこそ、こちらから挨拶をしてあげると面白いですね。最初は無視していますが、そのうち決まり悪そうに会釈をしたりするようになり、やがて2−3年もやっていれば、だんだんと挨拶ができるようになる人もいます。そういう人を見て、「あいつも成長したもんだ」と心の中で言ってやったりします。「やっと挨拶ができるようになったか」。
 しかし、比較的平和な日常生活の中で、挨拶運動をするというのは、そんなに難しい事ではありません。
 私たちが政治的対立、あるいは紛争状態に巻き込まれてしまったら、私たちは紛争の当事者として、相手を愛し、相手のために祈ることができるでしょうか。
 自分が戦場にいるのでなければ、敵のために祈ることもできるかもしれません。しかし、自分の住んでいるところが戦場になってしまったら、あるいは、自分の家族が殺されたり、誘拐されたり、拷問をされたり、レイプされたり、あるいは自分自身がそのような危害を加えられたら、どうなるでしょうか。
 それでも敵を愛することができるでしょうか?

▼恐怖を利用する人々

 私はまだ自分の人生で、そのような危害を加えられたことはありません。ですから、今言ったような想定をしても、何も約束することはできません。
 しかし、今現実に、政府やマスコミによって、中国や北朝鮮に関して、敵愾心を煽るような報道がなされています。中国は尖閣諸島に手を出し、領土問題から戦争が始まるかもしれない。北朝鮮は何度もミサイルを発射し、そのうち日本の本土にも打ち込んでくるかもしれない。そうなれば全面戦争だ。そのようにマスコミは政府に擦り寄る形で、日本人の恐怖感をかきたてようとします。
 また、日本が安保法案でアメリカの軍事同盟に参加することを世界的に表明したおかげで、欧米諸国を狙うテロリストたちの標的に日本も入ってしまいましたが、テロリズムというものは、そのまま直訳すると「恐怖主義」。つまり、恐怖によって敵を混乱させ、支配しようとする方法のことです。
 ところが、政府はこの恐怖心を自分たちのためにも利用します。国民の恐怖心を煽り立てて、他の国は他の宗教に対する敵意を盛り上げようとします。恐怖心にかられた国民は、最も簡単に戦争に向かって、国民の恐怖心を煽って利用します。
 また、政府の命令に従わないと、自分が罰せられてしまうという恐怖心から、進んで政府の命令に従うようになります。
 そのように、恐怖心を煽って利用するという点では、政府も一種の立派なテロリストになりえます。私たちは、敵からだけでなく、本来味方であってくれるはずの政府からも、この自分の「恐怖心」というものを利用されうるのだということを、よく自覚しなければいけないのではないかと思います。

▼本心の願い

 恐怖に乗っ取られてしまうと、人間は本来自分が願っている生き方から全然違う方向に誘導されてしまいます。恐怖に支配されてしまうと、人間は敵意を増大させ、攻撃しなければ自分が被害を受けてしまうと思い込み、暴力を振るわなければならない状況に追い込まれてしまいます。
 しかし、この恐怖に乗っ取られるということがなければ、私たちは誰かを敵だと思う必要も無くなります。命令に背けば自分も攻撃されるという恐怖を克服することができれば、命令によって誰かに暴力を振るうこともしなくて済むでしょう。
 恐怖を克服するということは、大変難しいことです。でも、私たちは他人から恐怖で支配されることがなければ、本心は平和で誰とも仲良く暮らして行きたいと思っているはずだと思います。争い、憎むことしかできない人は、何らかの形で恐怖や無力感を感じているからではないかと思います。その恐怖を取り去ることができるならば、人は本来の平和を愛する心に戻って行けるのではないでしょうか。
 誰かが敵に対する恐怖を植え付けようとしてきても、それに誘導されないようにしましょう。
 人は誰もが平和な暮らしを本当は望んでいるということを信じましょう。
 人は誰もが神の子であると信じていたイエスに続いて、私たちも恐怖から解放されることを目指しましょう。





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