探しているのはこの俺だろう
(「キリストよりイエスを」を改題)

2016年10月2日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約25分間
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聖書朗読と説き明かし25分間 + わかちあい30分間 = 55分間

 ヨハネによる福音書4章1−26節 (新共同訳)
 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。
 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。
 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
 女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」



 
▼イエスは洗礼を授けていなかった
 
 おはようございます。今日は、「キリストではなくイエスを」を題しまして、また変わった話をするのではないかと思われている方もいらっしゃるのではないでしょうか。もちろん私個人はキリストという存在を否定するものではありませんが、しかし、今日のヨハネによる福音書の箇所を読むと、ヨハネがキリストとイエスを切り離して考えていることが明らかになりますので、そのような考え方もあるのだとご紹介したいと思います。
 それより先に、まず2節に「洗礼(バプテスマ)を授けていたのは、イエスご自身ではなく、弟子たちである」という言葉があります。
 このことは多くの教会で誤解されているか、無視されていることなのですが、イエスは人に洗礼を授けるということをしていないんですね。
 洗礼というのは、初代教会から大切なものとされてきていますから、こういう「いや、実はイエス自身は洗礼を授けてはいなかったんだよ」というのは、教会にとっては都合の悪い情報ですよね。それがわざわざ入れられているということで、都合の悪い情報が削除されずに残っているということは、原則的には、事実に基づいていて消しようがないという解釈の仕方をします。
 ですから、イエスは本当に洗礼を授けるということをしていなかったんでしょうね。弟子たちは洗礼を授ける必要があると思ってやっていたわけですが、イエスは、洗礼など必要ないと思っていたらしいのですね。
 で、とにかくイエスではなく弟子たちが、洗礼者ヨハネの時よりも多くの弟子を作って洗礼を授けているという噂がファリサイ派の耳に入った。これはまた面倒なことが起こりかねないという判断だったのでしょうか、イエス一行はエルサレムのあるユダヤ地方を離れて、故郷のガリラヤ地方に戻ろうとします。そしてユダヤとガリラヤの間にあるサマリア地方を突っ切るルートで帰って行こうとします。

▼サマリア人とユダヤ人

 このサマリア地方に住むサマリア人が、ユダヤとガリラヤのユダヤ人から非常に差別を受けていたということは皆さんご存知でしょうか。
 先祖は同じイスラエル民族なんですが、南北に王国が割れてしまい、簡単に言ってしまうと、南のユダ王国を中心に生き残ったのがユダヤ人、北のイスラエル王国の生き残りの子孫がサマリア人なわけです。
 ところが、北の生き残りの人たちは、周りの軍事大国のおかげで雑婚政策というか、無理やり他の地方から連れてこられた奴隷と結婚させられて、混血化させられた。イスラエル民族の純血性が失われたというわけです。それで、これも歴史の偶然に過ぎませんけれども、純潔性を結果的に保つことができたユダヤ人たちが、サマリア人に対して、「お前たちは汚れている」と言って難癖をつけていじめていたわけです。
 そういう関係だったので、汚れた地域を通るユダヤ人は少なく、たいていのユダヤ人はこの地方を避けるルートで旅をしていたという説もあります。
 しかし、イエスとその弟子たちはこのサマリア地方を突っ切るルートを取り、しかもシカルというサマリアの町で、休みを取ることに決めたのですね。イエスのヤコブの井戸のところで休憩し、弟子たちは食料を買うために散って行きました。

▼女と男

 さて、その井戸に水を汲みに来たサマリア人の女性に対して、女性は「やあお姉さん、水の一杯飲ませてくださらんか」とイエスは声をかけます。
 サマリア人の女性は驚きますが、これは無理もないことです。というのも、先ほどもユダヤ人とサマリア人の対立のお話をしましたが、それ以上に当時の人たちの感覚では、商売をするでもないのに、男性が女性に街中で声をかけるということはありえなかったからなんですね。
 特に女性に関しては、見知らぬ男性と初対面で口を聞くというのは、ふしだらな女であるというレッテルを貼られるので、そういうことは避けるんですね、普通は。
 まあイエスという人は、そういうことは頓着せずにいろんな女性にどんどん話しかけるものですから、女性たちから恐れられたということはあったようです。そんなイエスにでもついていこうとした女性は当時としては慣習を破る勇気のある女性たちだったと言えます。また、そういうイエスと進歩的な女性たちの行動を見て、世の男性たちが非常にイエスを疎ましく思って、それが彼を「殺せ」という群衆の掛け声にもつながっていったと述べている学者もいます。
 まあそういうことで、このサマリア人の女性は非常に驚いて、「ユダヤ人の(しかも男である)あなたが、サマリア人の女である私に、どうして水を飲ませてくださいというのですか?」とイエスに言います。

▼イエスの預言

 するとイエスはここからもう話題を変えてゆきます。
 「もし、あなたが神の賜物というものを知っていて、私が誰なのかを知ったら、あなたの方から私に頼み、決して渇かない、その人の中で泉となるような、永遠の命に至る水が湧き出るだろう」と言います。
 これに対して、このサマリア人女性は「永遠の命に至る水が泉のようにその人の中で湧き出る」ということがイマイチわかっていないようで、相変わらず「永遠の水なんかあるんだったら、私はもうここに汲みに来なくても良くなりますから、それをください」と言って、会話がちぐはぐになります。
 イエスはさらに話題を変えて、「行って、あんたの夫を連れてきてくれないか」と言います。すると、この女性には「夫はいません」と言います。これに対してイエスは、「その通り、あなたには5人の夫がいたが、今一緒にいるのは夫ではないね」と言い当てます。
 これもご存知かもしれませんが、レビラート婚という古代ユダヤの結婚制度によるもので、最初に結婚した人が事故や病気などで早く死んだ時に、その弟に嫁がなくてはいけないという決まりがあったんですね。ですから、この女性が一度に5人の夫がいたというわけではなくて、順番に5人の兄弟に妻にされて、そして、今は結婚していないけれども、おそらくその末の弟、または弟たちといっしょに暮らしているということなのでしょうか。
 このように言い当てたことで、女性はイエスが預言者ではないかと思い、「自分たちサマリア人の先祖はこの山で……ゲリジム山という山がサマリア地方にあって、そこにサマリアの神殿があるのですが……そこで代々礼拝してきた。しかし、ユダヤ人たちはエルサレムで礼拝すべきだと言っている。一体これはどういうことなのですか?」と問うているわけですね。
 それに対して、イエスは
「この山でもエルサレムでもないところで、父を礼拝する時が来る」と21節で言います。

▼まことの礼拝をする者

 ここまで来て、その次の22節は誰かが余計な挿入をしたのだろうと言われています。
 22節「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ」とありますが、これは、サマリアでもユダヤでもないところで、まことの礼拝をする者たちの礼拝が行われるというイエスの発言の趣旨からはちょっと外れていますね。
 イエスはここで、サマリア人だとかユダヤ人だとかいう区別と関係なしに、まことの礼拝をする者たちが礼拝する時が来るのだという予言をしているのであって、ここでユダヤ人の方から救いが来るぞと言って、ユダヤ人の方が優位であるかのような発言は、ちょっと前後の文脈とは合いません。なので、この22節だけは後の写本で誰かが、「それでもイエスはユダヤ人なのだから」と思って付け加えたのではないかという説があります。
 その説に従うならば、21節から24節はスムースに流れます。ちょっと読んでみます。
 
「イエスは言われた。『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。』」

▼霊と真理による礼拝

 ここまで読んだところで明らかなことは、イエスが「サマリア人かユダヤ人かという違いや対立を超越しようとしていることです。
 また、女と男の違いやその間にまつわるタブーなども打ち破ろうとしています。現実にもう打ち破ってしまっています。
 そして、その上で、象徴的な言葉でもうすぐ来る(とイエス自身は思っていた)世の終わりについての予言をしました。
 その内重要なのが2箇所あって、最初の1箇所目が14節後半の「私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」という言葉。
 もう1箇所は今読んだ21節から24節「この山でもエルサレムでもないところで父を礼拝する時、それが今だ。神は霊だから、神を礼拝する者は霊と真理を持って礼拝しなくてはいけない」というところですね。
 ヨハネによる福音書には泉であるとか、命に至る水であるとか、霊や真理という言葉がよく出てきます。
 それらは目で見たり手で触ったりすることのできない、物理的には実体のないものです。しかし、私たちの内面から湧き出てくる思いや、神さまから与えられる精神的なエネルギーのことを指しています。
 嘘のない真実な思いを神さまの前に明け渡すことで、自分自身の凝り固まった精神がほどけて、神さまのエネルギーに身を任すことができれば、それが霊と真理による礼拝となるのではないかと私は思います。

▼俺は俺だよ

 さて、イエスの会話の最後に、この女性は25節で、「私はキリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られる時、私たちに一切のことを知らせてくださいます」と言います。
 そして、イエスはこれに、
「それはあなたと話しているこの私である」と26節で答えたことになっていますが、これは実はギリシア語では単純に「エゴ・エイミ」という言葉なんですね。「エゴ・エイミ」というのは、英語で言えば「アイ・アム」。「私だ」という言葉です。
 この「エゴ・エイミ」という言葉も、ヨハネの福音書にはよく出てくる言葉ですが。大抵は「わたしはある」と訳されています。
 これは実は、旧約聖書の出エジプト記で、モーセの前にある燃える柴の中から神の声が聞こえた時に、モーセが「あなたの名前はなんですか?」と聞きますね。その時に「『わたしはある』。『わたしはある』というものだ」と答える、これに引用してヨハネの福音書でも「わたしはある」という言葉が何度も使われるわけです。
 ただ、ヨハネの福音書ではちょっと使い方が違っていて、「わたしはある」ということを大事にしなさいよとか、「わたしはある」ということを信じなさいという言い方になっています。
 「わたしはある」というのは、変わった日本語ですよね。でも、元は「エゴ・エイミ」。「アイ・アム」です。「わたしだ」。あるいは「わたしはわたしだ」としか言いようのない言葉です。
 そう考えて、今日の聖書箇所の最後のイエスの答えを直訳しますと、26節「イエスは彼女に言った。わたしはわたしだ。あなたと話している」になります。
 彼女が「わたしはキリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」。
 イエスは「俺は俺だよ」。
 こうなると、「キリストとかメシアだとか色々あなたは探しているけれども、あなたが探しているのはこの俺さ」と言ったことになるわけです。こういう読み方をすると、イエスというのはちょっと伊達男というか、キザな男というか、格好つけやがってという気もしますが、なかなか面白い男性ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。





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