誰もが人にしてほしいこと

2016年10月16日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約25分間
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聖書朗読と説き明かし25分間 + わかちあい30分間 = 55分間

 マタイによる福音書7章12節 (新共同訳)
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ、律法と預言者である。



 
▼黄金律
 
 今日お読みした短い聖句は、キリスト教の中でも最も大切な倫理的教えの一つとされていて、一般に「黄金律」(金のルールですね。英語でも「Golden Rule」)と呼ばれています。
 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。
 例えばこの言葉は、「愛されたいと思うならば、まずあなたも人を愛しなさい……」という風に読み替えることもできますから、なるほどやはりキリスト教は愛の宗教なんだな、と感じさせる聖書の言葉であると思われます。
 自分に悪うことをして欲しいと思う人はまずいないでしょうから、それなら、まずあなたから他の人に良いと思われることをしなさい、という愛の教えと受け取られるわけです。基本的にそういう理解でいいのだろうと思います。
 しかし、そのように抽象的に考えているうちは、この黄金律は非常に良い教えのように感じるのですが、いざ具体的に実行しようとすると、なかなか難しい面もありますよね。
 例えば、「人にしてもらいたいと思うこと」と言いますが、私が人にしてもらいたいことが、必ずしも他の人にとってはしてもらいたくないことの場合がありますよね。
 Aさんが、自分が誰かにお歳暮にビールか何かがもらえたら嬉しいなあと考えて、それなら自分もBさんにビールを贈ろうと考えて贈ったら、相手はビールが大嫌いで、焼酎が良かったのにとか。例が悪いかもしれませんが、それくらいしかパッと思いつかなくて、失礼しました。
 もっと言いますと、Aさんもビールが好きで、Bさんもビールが好きで、これでうまくいったと思いきや、実はBさんは肝臓が悪くて本当はビールなんか飲んでる場合じゃないないんだというケースがあった場合、両方とも喜んでいるのに、客観的にはこのやりとりは受け取った方に対して良くないことをしてしまったということもありうるわけですね。

▼消極的黄金律

 出した例があまり良くなかったかもしれませんが、要するに、自分では良かれと思ってしたことが、相手にとっては嬉しくないことであったとか、あるいは相手も嬉しかったかもしれないけれど、客観的には良くなかったといったことは往々にしてあるのではないかという話です。
 世の中には、このイエスの言ったことと逆のことを述べている教えはたくさんあります。
 例えば、おそらくイエスもこの教えをひねったのではないかと思われるのですが、ユダヤのラビでイエスより100歳くらい前の人で、ラビ・ヒレルという人が、「あなたにとって好ましくないことを、あなたの隣人にもするな」という教えを残しています。これにも元ネタがありまして、実は旧約聖書の外典のトビト記にも、「自分が嫌なことは、他の誰にもしてはならない」という言葉が記されています。
 ヒンドゥーにも「他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはならない」という言葉が伝えられていますし、これと似た様な教えは、イスラームにも孔子の『論語』にも収められているそうです。
 こちらの方がわかりやすいですね。「人からされて嫌なことは人にするな」ということです。
 この教えは分かりやすい上に、無難というか安全です。
 なぜなら、他人が何をされたら嬉しいかがわからないのと同じ様に、何をされたら嫌なのかも、細かい話になるとわからないからですよね。でも、嬉しいのか嫌なのかわからないけれども、どっちにしても「嫌がるかもしれない」可能性はあるわけで、それならもう何もしないことにしておこう、とするのが楽で、しかも無難です。これなら相手を喜ばせることはできないけれど、トラブルを起こすこともないわけです。

▼身近な人だからこそ

 これに比べてイエスの黄金律は難しい。何をすれば人が喜ぶか、なかなかわからないことがあるからです。
 おそらくイエスは「己の欲せざるところ、他に為すことなかれ」というユダヤの格言を当然知っていたでしょうし、わざとそれをもじって「自分のして欲しいことを、他の人にしなさい」と言ったのでしょう。
 しかし、このイエスのハードルは高いように思われます。このイエスの言葉を実際に行おうとすれば、まずは相手が何を望んでいて、何を望んでいないのか、知っておかなくてはいけないということなのでしょうか……?
 あるいはイエスは、失敗をすることも前提で言っているのかもしれません。自分が良かれと思って他人にしたことが、他人が望んでいなかったことかもしれない。その時、相手に「そんなことをされても嬉しくない」と言われたり、態度で示されてしまうかもしれない。しかし、「そういうこともあるよ。それでもいいから、やってみな」という積極性を求めているのかもしれません。
 考えてみると、このイエスの人間関係の作り方は当世風の言い方をすれば非常に「暑苦しい」ものかもしれません。失敗しても崩れないような人間関係、終わらないような人間関係を考えていたのではないでしょうか。
 切っても切れないような身近な人間関係だからこそ、「こんなことをしても喜んでくれたりはしないだろう」とか、「こんなことをしても相手のためにはならないだろう」とか、そう思ってしまうと、どんどん関係が冷えていって、違いの信頼関係も崩れてしまって、ますます近くにいるのが苦痛になる。そんな苦しみの事も知っていて、イエスはこのような面倒臭いことを人に語ったのかもしれません。
 どうせ楽にならない関係なら、いっそのこと何度でも失敗したらどうかね、と彼は言っているのではないでしょうか。
 どうせ楽にならない人間関係なら、何をすれば相手のために良いのかは手探りだけれど、あれこれ失敗しながら試してみるのがいいのではないかね? 何度も失敗するかもしれないけれど、やっているうちに、忘れた頃に意外と相手の求めているものを与えることができるようになっているものではないかね?
 そのようにイエスは私たちに問いかけているかもしれないと、私は思いますが、いかがでしょうか。

▼シンプルな暮らし

 あるいはイエスは、人間にとって必要なものというのは、実はとてもシンプルなことなんだと思っていて、それ以上のものをあなたは人から欲しがったりはしないだろう? という前提のようなものを想定していたのかもしれません。
 例えば、彼はマタイによる福音書の6章、山上の説教の中で、「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」と教えています。
 空の鳥は種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない……つまり労働というものをしていないわけですが、それでも神様はちゃんと鳥たちを養っているではないか。
 野の花は働くことも紡ぎもしない……この「働きもしない」というところがとても大事だと思いますが、それでも神様はちゃんと野の花を美しく装ってくださるじゃないか、と。
 そこには、食べる、飲む、眠る、着るという基本的な人間の暮らしがあって、それ以上のことはオプションであるというようなイエスらしいシンプルな生活感が現れているように思います。
 あなたがたはそれ以上のものをあれこれと欲しがる必要もないだろうし、もしこれらの衣食住に最低限必要なものは誰でも求めているものなのだから、あなたがたも他の人にシンプルな贈り物をすればいいのだよ、と言っているのかもしれません。

▼イエスが望んでいること

 それでは、イエス自身は、他の人にどんなことをして欲しいと望んでいたのでしょうか。
 それをイエスが自分自身で語っているのが、マタイによる福音書の25章です。25章の31節以降に、人の子がこの世の終わりに、人間を右と左に分ける話が出てきますが、そこで、イエスが何を人にして欲しいと思っていることなのかを自分で語っています。新共同訳聖書の新約の51ページですね。
 そこで、人の子が人間を裁く基準として、このようなことがいわれています。
 「さあ、わたしの父に祝福された人たち。天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。(マタイ25:34-36)
 (中略)
 わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40)
 イエス自身がこのようにしてもらえるのが嬉しい、そして、この世の一人一人にそれをしてくれることが私にしてくれたのと同じことなのだと語っています。
 だから、あなたがたは誰に対しても、この人間として一番基本的な施しをなして欲しい。世の中の誰に対してしたことでも、それは私にしてくれたのと同じことになる。だから、そうして欲しいと。そのようにイエスは言いました。
 そして事実、これはイエス自身がこの世で生きている間に実践していたことでもありました。飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねる……それはイエスの活動でしたし、イエス亡き後の初代教会の活動も、まさにこれがその内容でした。
 そういうわけで、イエスが人にしてもらいたいと望んでいたことが、人として最低限の生活の必要と、そして、孤独から救われるということ。人を人として受け入れ、人として扱うことであったことが、ここからわかります。
 イエス自身が「わたしがして欲しいと思うことはこれだ」と言い、「人に必要なものとはそういうものだろう」と言い、そして「わたしにしたように、人にもして欲しい」と言っています。
 私たちは、このようなイエスの言葉を通じて、「自分にとって本当に必要なもの、本当に自分が欲しいもの、自分にしてもらうのが良いことはなんだろう」と考える機会を与えられ、また「あの人に一番よいものはなんだろう」と考える機会を与えられ、何度失敗しても許されて、再び立ち上がり、試行錯誤をしながら人間としての完成を目指して行くことができます。
 そして、「この世の最も小さい者にしたのは、私にしたのと同じこと」というイエスの言葉に応えて、今目の前にいる人が、実はイエスが化けてここにいるのかもしれないと思って、奉仕の人生を歩むチャンスを与えられていると考えることができるのではないかと思うのですが、皆さんがいかように受け止められるでしょうか。
 本日の説き明かしは以上とさせていただきます。





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