祈ることしかできませんと言うけれど

2016年11月6日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

約16分間
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聖書朗読と説き明かし16分間 + わかちあい45分間 = 61分間

 マルコによる福音書9章29節 (新共同訳)
イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。



▼祈ってますよ
 
 「私には祈ることしかできませんが」と、恥ずかしそうに遠慮がちに言うクリスチャンの方がいます。
 そういう言葉を聞くと、「恥ずかしがらないで! 遠慮しないで! 今、あなたの祈りが必要なんです。どうぞよろしくお願いしますよ」と言いたくなります。
 その代わりと言ってはなんですが、割と簡単に「祈ってます!」と言うクリスチャンもいます。
 別れの挨拶がわりに、「それじゃ、お元気で! 祈ってますから!」と軽く言うんですね。だいたい口調と態度によるんでしょうけれど、条件反射のように「祈ってます!」と言う人の「祈ってます」は軽いし、挨拶がわりに言われてしまうと、「あーこいつは祈ってないだろうな」と内心こっちも思ったりしてですね。
 それで、こっちもそう思われるのが嫌で、別れ際にあんまり「祈っています」と言わないようにしたりとかしているんですね、私の場合は。
 しかし、心の籠った「祈っていますよ」という言葉は、こちらの心にも響きます。結局のところ、「祈っています」と言うか言わないかはともかく、本当に祈っているかどうかが問題なのであり、また、祈りについて声を掛け合う時にも、お互いの人間同士としての信頼関係と基づいているということなのでしょうね。

▼「できれば」と言うか

 本日お読みしました聖書の箇所は、1節だけでした。しかし、この1節の言葉が大事だと思うので、この1節だけを引用しました。全体的には、激しく子どもを痛めつける悪霊をイエスが追い払う場面です。
 この子どもの親が弟子たちに、悪い霊を追い出してくれるように頼んだのですが、弟子たちはこれを追い出すことができませんでした。そこでイエスが呼ばれて登場するという物語です。
 22節の後半で、この子どもの父親は「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言います。
 23節でイエスは、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と言います。
 この言葉が父親の心を打ったのでしょうね。この父親は叫びます。「信じます! 信仰のないわたしをお助けください!」
 この父親は、イエスの「信じる者には何でもできる」という言葉によって、己の信仰の無さを思い知らされたのですね。
 それまでこの父親は「霊を追い出すことが『できるのか』、それとも『できないのか』という基準でしか、弟子たちやイエスを値踏みしていたわけです。だから、イエスに対しても『できれば』癒してくれと願うわけです。
 ところが、イエスは「『できれば』と言うのか」と、この言葉づかい自体をたしなめます。そして「あなたには『信』の一文字が欠けているんだ」と気づかせます。
 すると、この父親の心は一気に崩れてしまいます。「信じます! 信仰のないわたしをお助けください!」。
 長年信仰など持たなかった人間が、我が子への愛のために一生一度の賭けのつもりで「信じます!」と告白する。この、「愛のために信じてみる」という賭けこそが、ありのままの飾らない純粋な信仰なんだということをイエスも認めて、子どもを悪霊から救います。
 
▼祈りによらなければ

 これに対して、28節でイエスの弟子たちはまだ何が示されたのかを理解していない様子です。建物の中に入ってから、イエスに密かに尋ねています。密かに尋ねたのは群衆の目が恥ずかしかったからでしょう。
 「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と弟子たちは訊きます。彼らはまだ「できるのか」、「できないのか」という能力の問題にこだわっているわけです。
 それに対して、イエスは29節で「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と答えます。
 イエスによれば、悪霊を追い出せるか追い出せないかということはテクニックや能力の問題ではなく、純粋で素朴な信仰から出てくる祈りなんだということなのでしょう。
 もちろんイエスだけの祈りではなく、病気の人、家族、友を愛する心から出てくる「信」の思いが、愛する人を救うのだということも告げているでしょう。
 「何かをできるか、できないか」という能力の問題にこだわる人間に対して、「能力ではない。祈りによらなければできない」と、あえて祈りの力を強調するところに、イエスの思いが込められているのですね。

▼役に立たない者は死んでもいいのか

 「できる」、「できない」とか、「役に立つ」とか「立たない」とかいったことで人の価値を決める価値観がこの世の中には溢れています。
 相模原市にある障がい者施設で19人を殺し、27人に怪我をさせた大量殺人事件が去る7月に起こりましたが、この事件についての記憶もまだ皆さんの間に新しいと思います。
 この事件の犯人は確信犯です。つまり、自分のやったことを正しいと確信しています。その価値観はヒトラーによって培われたと自分で告白しておりますし、自分で書いた手紙を衆議院議長や総理大臣にも出しておりますが、その中でも彼は、障がい者を抹殺するべきであり、自分は殺害する予定であるということを述べています。
 彼が影響を受けたというナチス・ドイツは実際に、ユダヤ人に対する大量虐殺を行う前に、障がい者や同性愛者の抹殺も行っており、ドイツの国家に役立たないと判断された人々、また差別されている人々を国家の恥として殺してゆく政策をとっていました。
 その価値観を支持している人間が、やはり「国家のために」、「日本のために」と称して、「国の役に立たない」と自分が判断した人たちを殺した、というのが今回の事件です。
 そして、マスコミでは表向きこの犯人の恐ろしさや異常性を訴える報道をしたにもかかわらず、ネットの世界ではこの犯人を支持する声が思いの外多く、一緒になって「殺せ、殺せ」と合唱している若者たちもいるようです。
 この根底には、「役に立たないもの」、「使えないもの」、「能力のないもの」、「経済的利益を生み出さないもの」は死んでしまってもいいんだという価値観が世の中に蔓延してきていることがあるのではないかと私は思います。
 「何かができる人」、「能力のある人」、「利益を生み出す人」がもてはやされ、経済的成功だけが成功者と称えられる一方で、そうでない者、例えば重い障がいを持つ人、あるいはかつては元気だったけれども現在は引退しているお年寄りの方々は、人に顧みられることも少なくなります。
 そして、先ほど申し上げたような事件が起こると、「何の役にも立っていない私は早く死んだほうがいいんじゃないか。いなくなったほうがいいんじゃないか」と思わされてしまうのですね。
 あの事件の恐ろしさは、たくさんの人を殺したのみならず、あの事件の報道を聞いた世の中の弱い立場にいる多くの人たちが、「私は生きていていいんだろうか」と責められるような気分に襲われたことにあります。殺したよりもっともっとたくさんの人の心を傷つける恐ろしい事件です。

▼殺人的スローガン
 
 このような「役に立たないと存在価値がない」という価値観は、一見障がい者やその他の社会的弱者をかばうような別の形でも姿を表すことがあります。
 例えば、「障がい者やゲイであっても、芸術の才能がある人は社会にいても良い」とか、「女性でも有能な人は社会に進出しても良い」とか、「ニートも努力すれば社会に貢献できるから、社会の一員だ」とか、「老人も元気に活躍する場所がある人は社会に役立っている」とか、このような発想は全部「役に立つなら社会に居させてやる」という価値観で覆われています(あるTwitterでの発言より引用、改変)。
 現政権の「一億総活躍社会」というスローガンでもそうですが、「活躍していない者は存在価値がない」という発想で、社会が覆われている限り、「活躍していない」と判断される人々に対する差別や殺人、そして心にナイフを指すような攻撃は止むことがないでしょう。
 すなわち、あの「一億総活躍社会」というスローガンは、相模原事件と表裏一体の殺人的、差別的スローガンなんですね。
 役に立つこと、活躍する能力があること、それらは素晴らしいことのように思われますが、その一方で役に立たない、活躍する能力がない人はいなくてもよいという発想がそれにつながってゆくなら、それは非常に悲しいことです。

▼あなたの祈りが必要なのです
 
 そして、もしクリスチャンが「祈ることしかできませんが」という言葉を「他に何もできないから、悲しいかな」ということを恥じる意味で使うならば、これも非常に悲しいことであり、世の中の暴力的価値観に本当に傷つけられているのだなと私は感じるんですね。
 イエスは、「何ができる」とか「できない」とかいったことを問いませんでした。「できれば」という問いを発することも拒絶しました。
 「できる」、「できない」ではない、そっちが先ではなく、一番初めに来るのは「祈り」なんだ、「祈り」によらなければ何もできない、ということを今日の聖書の箇所で、イエスははっきりと言い切っています。
 ですから、私たちも「祈ることしかできませんが」と言っておられる方には、「祈りによらなくては何も始まりません。祈りが最優先です。あなたのお祈りが今、私たちには必要なんですよ」と伝えようではありませんか。
 





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