彼らを愛した無名の人たち

2016年12月25日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 クリスマス主日礼拝 説き明かし

礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る
「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る
教会の案内図に戻る






聖書朗読と説き明かし20分間 + わかちあい27分間 = 47分間

 ルカによる福音書2章1-7節 (新共同訳)
 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」


(この説き明かしは、大宮有博「すべての人が招かれる教会の予告編〜社会科学批評による解釈〜」、『福音と世界』2016年12月号、新教出版社、p.18-23所収、に全面的に依拠しています)。


▼マリアとヨセフと馬小屋の話

 みなさん、クリスマスおめでとうございます。ろうそくの炎が5本灯って、いよいよイエスの誕生をお祝いする主日の礼拝を持つことができますことを心から感謝しています。
 さて今日は、クリスマスの物語の中でも、赤ん坊のイエスを生んだマリアとその夫ヨセフその人よりも、名もなきベツレヘムの人のことをルカによる福音書がどのように描いているについて、振り返ってみたいと思っています。
 ルカによる福音書において、2章の7節が「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」という言葉で締めくくられているのはよく知られています。
 そこで、子どもたちと行うページェントなどでも、マリアとヨセフが宿屋を探し求めて歩き回り、どこの宿屋も空いてない。
 あちこちの宿屋の主人たちが「うちには泊まる部屋はないよ。バタン!」と扉を閉めて、マリアとヨセフを締め出してしまう。どうしよう……と二人は途方にくれる。
 ところが、1人だけ優しい宿屋の主人がいて、「うちの馬小屋なら空いているよ」と声をかけてくれる。そして2人は感謝しながら馬小屋に……あるいは、家畜を飼っている洞窟に……というのが、典型的なクリスマスの劇です。
 また、あるいは、「クリッペ」というのですけれども、赤ん坊のイエスとそれを囲むマリア、ヨセフ、羊飼いたち、博士たちの姿をお人形さんや彫刻で作った飾り物でも、やはり、3人を覆う馬小屋が入っているものがたくさんあります。
 しかし、実際にはこの宿屋というのは、私たちが想像するような宿屋とは違っていたそうです。

▼宿屋と客間

 宿屋という言葉はギリシア語では「カタリューマ」というのですが、これは貧しい個人の家の客間のことを指すんですね。
 貧しい小作農の小さな家は、一番奥にこのカタリューマと呼ばれる客間があって、真ん中に家族が寝泊まりする居間があって、その手前に乗り物としての動物がいる馬屋があるという風に、狭い中に部屋が並び、家畜の住んでいる場所も人間の寝る場所も隣り合っていました。
 そして、飼い葉桶というのは、居間と馬屋の境い目の場所に置いてあって、生まれたての赤ん坊を、そこにゆりかごがわりにポンと置いて家事をするというのは、よくある風景だったというのですね。
 私たちが想像しがちな商業的な宿屋というのは、「パンドケイオン」と言います。同じルカによる福音書で、このパンドケイオンという宿屋が登場するのは、「善きサマリア人」のたとえ話でです。ここで通りすっがりのサマリア人が半殺しにされた人を預けたのは、パンドケイオンです。
 それに対して、マリアとヨセフが入れなかったのは、カタリューマと言って、要するに個人の家の客間です。
 イエスの降誕の物語には、「馬小屋」とも「洞窟」とも書かれていませんし、たくさんの宿屋をヨセフが訪ねて回ったとも書いてありません。
 ただ書いてあるのは、「飼い葉桶に寝かせた。客間には彼らの泊まる場所がなかったからである」というだけの短い言葉です。
 当時、個人や夫婦で旅をする人は、パンドケイオンには泊まるのを避けていたといいます。それは誰が泊まっているかわからないので、どのような被害に遭うかもわからない、恐ろしく、いかがわしい場所という風評があったからです。
 ルカによる福音書は、ベツレヘムがヨセフの先祖の街だと書いていますから、当然ヨセフの親戚がいくらか住んでいたはずだという設定です。
 ですからヨセフは親戚の家を訪ねて行くわけです。ところが、その家にはたまたま先客がカタリューマ:客間にいたわけです。そこで、この家の主人は「客間には先客がいるけれども、もしよかったらうちの居間で、うちの家族と一緒に寝ないか?」と言って受け入れた、というのが
どうも本当のことではないかというのが、近年の聖書学で言われていることです。
 この、自分の家の居間で家族と一緒によかったらどうぞ、と受け入れ、招かれたマリアは、この家族の元に滞在中に出産し、その地域の貧しい人がみんなするように、赤ん坊を布に包んで飼い葉桶にポンと寝かせたというのですね。
 ですから、マリアとヨセフを迎えたベツレヘムの街には、このような貧しいけれども心優しい人たちがいて、彼らを受け入れ、もてなした。ここからイエスの生涯が始まっているのだいうことをルカは私たちに伝えようとしているのだと思います。

▼野宿者への嫌悪

 続いて、今日お読みした聖書の箇所ですが、ベツレヘムの街の近くで羊飼いが野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしています。
 ベツレヘムというのは、羊飼いの少年ダビデがサムエルに見出された場所ですので、羊の牧畜は街の近くで行われていました。
 しかし、街の人口が増え、家を作って定住しながら生活をする人が増えてくると、野宿をしながら移動生活をする羊飼いらが、次第に定住者から疎ましがられ、嫌われるということが起こってきます。
 これは今の世の中でも、ホームレスが嫌われる状況と似ています。
 人間には家があって当たり前だと思っている人が、ホームレスを見ると、なんとも言えない恐怖感を覚えることがあります。
 たいていの人はホームレスを見ると、何か物を取られるのではないか、暴力を振るわれるのではないかと恐怖の眼差しを浴びせます。近づいてこられると悲鳴を上げて逃げたくなる人がほとんどでしょう。
 でも、そんなある意味逞しさや図太さがあれば、道端でうずくまって動かないようなホームレスの生活をやっているはずがない、と幾らかホームレスになってしまった人と触れたことのある者としては思います。
 どちらかというと、不器用で正直者で気弱で、逆境に遭うと黙々と受け入れたり、安酒を飲んで嘆いたり誤魔化したりすることしかできないような人たちです。
 ホームレスが徒党を組んで略奪をしたという話はほとんど聞いたことがありません。その代わり、彼らは空き缶を拾ったり、日雇い派遣労働に出たりと、路上で休みを取りながら働いていたりします。
 それでも、多くの人は野宿をしている人がいると、逆に自分の身に危険を感じて、恐怖感を覚えるようです。
 イエスの時代にも、同じように、定住生活をしている街の人たちから見れば、野宿しながらあちこち移動生活をしている羊飼いたちは、街の人の財産を狙って、攻撃してきたりするかもしれないし、近づいたら捕まって暴力を振るったり、お金を脅し取ったりするような人々に見えたことでしょう。
 定住の都市住民と、野宿生活の羊飼いたちのグループとは、だいたい仲が悪い。根深い対立関係があったのですね。
 
▼羊飼いたちへのもてなし

 ところが、そんな羊飼いたちのもとに真っ先に天使が現れ、「あなたがたのために救い主がお生まれになった。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と知らせます。
 そして、羊飼いたちがベツレヘムの街にどやどやと入って行くわけです。
 ベツレヘムの街の住民たちはびっくりしたでしょうね。ならず者にしか見えないようなホームレスの集団が(何人かはわかりませんけれども)ぞろぞろと場違いな街の中に押しかけてきました。
 多くの人が眉をひそめ、顔を隠して、その場から距離をとって逃げたでしょうし、何か危険なことが起こるのではないかと警戒した人もいたでしょう。
 しかし、マリアとヨセフ、そしてイエスを受け入れた家の人々は、ホームレスの野宿労働者たちを快く受け入れたのですね。そして、馬屋と居間の間にある飼い葉桶に寝かせた赤ん坊のイエスを、「どうぞ」と見せたわけです。
 この家の人たちは、ベツレヘムの街の他の人たちとは違って、羊飼いたちに対して恐れや差別を抱きませんでした。むしろ、彼らは本当は普通の人間であるということを信頼していました。
 ここには、敵対していた人たちが、イエスを受け入れようとする気持ちと、イエスに会いに行こうと出かけて行く気持ちの繋がりによって、イエスを中心にしながら、平和な和解をするというメッセージが示されています。

▼教会の出発点

 学者によっては、これは「教会の予告編」だと言う人もいます。
 確かにルカはこの後、福音書と使徒言行録によって、教会の発展を描いて行きます。
 その出発点は、このマリア、ヨセフ、イエス、そして羊飼いたちが受け入れられ、もてなされたベツレヘムの貧しい小さな家の居間でありました。
 この貧しい小さな家の居間が教会の出発点です。
 私たちの教会も、たとえ十分なおもてなしができなかったとしても、通りすがりの人を受け入れ、人から受け入れられなかった人を迎え入れる、貧しい家のような働きができたら、私たちは教会らしい教会ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 





Clip to Evernote

礼拝堂/メッセージライブラリに戻る

「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る

ご意見・ご指摘・ご感想等はこちらまで→牧師あてメール