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2017年1月22日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書朗読と説き明かし27分間 + わかちあい21分間 = 48分間

 使徒言行録8章26-40節 (新共同訳)
 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。
 フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。
 すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。
 フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。
 宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。
 彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」
 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」
 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。
 道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた†。そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。
 彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。



▼セックス、ジェンダー

 何週間か前に聖書における性の問題についてご質問があったと思いますので、それに関して、「人間のセクシュアリティと聖書」というテーマで今日は説き明かしを行いたいと思います。
 まずその前に、セクシュアリティという言葉が一体何を指すのかということを整理しておきたいと思います。
 従来、人間の性というのは3つの次元があると言われているんですね。これは英語で、「セックス」、「ジェンダー」、「セクシュアリティ」という3つの言葉で表現されます。
 順番に見ていきますと、「セックス」というのは、生物学的性別:つまり肉体的特徴として女性に生まれてきたか男性に生まれてきたかという区別ですね。
 それから「ジェンダー」、これは社会的性別とでも言いましょうか、砕いて言うと、その社会における女らしさ・男らしさ、あるいは女に求められる役割、男に求められる役割という意味があります。
 例えば、女性はスカートを履くけど男性はスカートは履かないとか、女性は家庭にいるべきで男性は社会に出るべきだとか、「女性は教会では黙っていなさい」と言ったのはパウロという人ですけれども、例えばこのパウロなんかはジェンダーに関してはゴリゴリの保守主義者なんですね。
 このジェンダーに関する考えは時代や民族や世代によって異なっていたり、変わっていったりするものです。世の中の雰囲気が自由でオープンになればなるほど、ジェンダーにもとらわれない生き方ができる人が増えてきます。
 しかし、最近になって出てきている総理大臣お墨付きの社会科(公民)の教科書には、女性が家庭に入っているのが当たり前の前提で、「女性が仕事に出るには家族の理解が必要です」などと特別扱いしていますので、日本の場合は時代が逆行していっている様子が伺えますね。
 はい「セックス」、「ジェンダー」と話してきました。次は、第3の概念で「セクシュアリティ」というものです。

▼セクシュアリティ

 「セクシュアリティ」とは、本人の性のあり方というか、なんと日本語に訳せばいいでしょうか、もうそのまま日本でも「セクシュアリティ」という呼ばれ方が広がって来ているので、「セクシュアリティ」でよいと思うのですが。
 例えば具体的には、例えば「性自認」というのがあります。自分は女性なのか男性なのか。生物学的、つまり肉体的には女性だけど、どう考えても自分は男であるとしか思えないとか。逆に肉体的には男性だけど、意識的には女性であるとか。そういう肉体と、実際の自分の性自認が一致しない人を、「性同一性障害」と呼ぶ場合もあります。
 これと並んで、「セクシュアル・オリエンテーション」、日本語で「性的指向」と訳されます。「指向」というのは、「指」と「向」と書きます。考える「思考」でもないし、志すの「志向」でもないし、趣味の領域の「嗜好」とも違います。砕いて言うと、「要するに自分がどういう性であり、性を求める方向性がどっちを向いているか、ということです。今度は自分がどんな人を好きになるのか、というのも「性的指向」のうちの重要な要素です。
 例えば、女性が女性を好きになり、性的にも欲求を感じるというタイプ、同様に男性が男性を求めるタイプもいます。このような人を同性愛者と呼びますね。男女ともに「ゲイ」と呼ばれ、特に女性の同性愛者のことを「レズビアン」と呼ばれます。
 相手は女性でも男性でもオーケーだよという人は「バイセクシュアル」、縮めて「バイ」と呼ぶことが多いです。
 ちなみに、女性が男性を求めたり、男性が女性を求めたりする人のことを異性愛者と呼びます。よく「ヘテロ」とか「ノンケ」と呼ばれます。一般にはこういう人が多数派です。
 多数派に対しては、先ほどのレズビアン、ゲイ、バイというのは少数派ですので「性的少数者」あるいは「セクシュアル・マイノリティ」と呼ばれます。
 
▼トランス・セクシュアル

 ところで、このセクシュアル・マイノリティ(性的少数者)の人たちの中で、直接今日の聖書の箇所に関係する人々というと、「トランス・セクシュアル」という人々であろうと思います。略して「トランス」と言っています。「レズビアン、ゲイ、バイ、トランス」、この4つの頭文字をとって、「LGBT」といい、「セクシュアル・マイノリティ」の別名として用いる場合もあります。
 さて、LGBTの「T」ですが、トランス・セクシュアル。これは先に述べました「性自認」の話が大きく関わってきます。つまり、自分の体の性が自分自身の性の意識と合ってないという人ですね。
 そして、その中でも、そのまま女らしさのジェンダーや男らしさのジェンダーを世の中から押し付けられて、ただ我慢して生きている人もいるし、服装や化粧だけ別の性のものをつけて(いわゆる女装とか男装)落ち着くという人や、あるいは肉体的にも自分を改造したいと考えて、ホルモン治療や性転換手術を受ける場合もあります。どこまで物理的に自分を変えたら満足できるかというのは、人によって様々なのですけれども、これらの人々をすべてひっくるめて「トランス」と呼ぶんですね。
 で、今日の聖書の箇所に登場するのは、強制的にトランスにされた人物です。

▼宦官とフィリポ

 ここに登場するのは、エチオピアの女王の全財産を管理していた宦官です。名前は明記されていませんが。
 この人がエルサレムに礼拝に来て、エチオピアに帰る途中で、フィリポという初代教会の伝道者に出会うという物語です。
 エチオピア人がなんでユダヤ教の神殿にお参りしているのかという話ですが、当時のユダヤ教は結構盛んに宣教活動をしていて、異邦人でもユダヤ教に改宗する人もいたので、多分このエチオピア人の宦官もそういう風にユダヤ教に改宗した人なんでしょうね。
 一方、フィリポという人は、初代教会が、ヘブライ語を話すエルサレムが地元の信徒と、ギリシア語を話す別の土地からの信徒の間で分裂が起こった時に、ギリシア語を話す信徒、そして多分ギリシア語を話す広い諸外国への宣教を任された7人の伝道者の1人です。
 この2人が、エルサレムからエチオピアに向かう道で出会います。
 宦官が乗っている馬車にフィリポが駆け寄ると、中から旧約聖書のイザヤ書を朗読している声が聞こえます。
 そこでフィリポが宦官に尋ねます。「読んでいることがお分かりになりますか?」(使徒8:30)。すると宦官は「わかりやすく解説してくれる人がいなかったら、全然わかりませんわ」と答えるんですね。そして、フィリポを馬車に乗せて、ちょっと教えてくださいよ、と。
 そこで読んでいた聖書の箇所が、イザヤ書53章だったんですね。イザヤ書53章の7節に「屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」と書いてありますが、ここの部分の引用です。
 このイザヤ書53章というのは、「イエスが人々の罪を負って身代わりとして十字架について死んだのだ」というイエスの死の解釈の根拠として、よく引用されるところなんですね。「苦難の僕」と呼ばれている箇所なんですが、ある人物が人々の罪の身代わりになって苦しみ、辱めを受け、人々に殺される。そのことによって人々の罪が洗い流される……という様子を書き記したものです。そこで、初期のクリスチャンの人たちは、「これはイエスの十字架について500年も前に予言したものだー!」と思ったのですね。
 そこで、フィリポもその思いを宦官に伝えました。
 あなたが今読んでいる旧約聖書の箇所は、まさにイエスの死とそれによる救いを書いているところなんですよ! と解説したんですね。

▼今、ここですぐに洗礼を

 そうこうしているうちに彼らは、河か海か、とにかく水がたっぷりあるところに出てきました。
 すかさず宦官は言いました。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何の妨げがあるでしょうか」(8:37)。
 「洗礼いつ受けるの? 今でしょ!」という勢いですよね。ちょっと古いですが。宦官は「今、もうここで洗礼を授けてください」というわけです。
 フィリポはどうしたでしょうか。
 「それでは、まず信仰告白を原稿用紙3枚程度でまとめてください」とか、「それから役員会で検討して試問を受けてもらいます」とか、そういうことは言いませんでした。
 フィリポと宦官はすぐに水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けました。
 「私に洗礼を授けてください」と言った、その一言で宦官は洗礼を受けることができたんですね。
 フィリポはその瞬間、神の霊によって別の場所に飛ばされて、また後ろの方で登場するのですが、それはその話としておきまして、この宦官は晴れて洗礼を受けて、39節には「喜びにあふれて旅を続けた」と書いてあります。
 このフィリポの素早い対応、洗礼に対する柔軟な姿勢は、例えばエルサレムに残ったユダヤ主義的な教会の人たち、つまりユダヤの律法は守らなきゃいかんと思っていた人たちから見れば、信じられないものだったでしょうね。
 というのも、宦官というのは男性の性器を切り取った人のことを言いますね。女王などに仕える男は、女王と特別な関係になれないように、そうするんだと。これはいうなれば、意図的に性転換手術をした、強制的にトランスにさせられた人です。
 そういう人のことは律法の申命記23章2節に明記してあります。
 「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」(申命記23:2)
 宦官というのはまさにこれに当てはまりますから、律法を忠実に守ろうということになれば、「こんな奴を仲間に入れることなんかできるわけないだろう」という判断になるわけです。
 ところが、フィリポは全然そういうことには捉われていません。「宦官だからなんだっていうんだ」と、「本人がいま洗礼を受けたいと言ってるんだから、いいじゃないか」と、すぐさま洗礼を授けたんですね。
 フィリポにおいては、律法になんと書いてあろうが、性転換した人を教会から排除するということは、全く考えられなかった。むしろ大歓迎したということなんです。

▼イエスとイウヌーコス

 では、フィリポはともかく、イエスだったらどうしただろうかということも見てみましょう。
 みなさん、マタイによる福音書の19章12節を開いていただけますか?(新共同訳聖書の37ページの始まりの部分です)
 そこにはこう書いてありますね。
 「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(マタイ19:12)。
 ここは私が知っている限りでは新約聖書の中で一番ひどい翻訳だと思います。
 ここで「結婚できない者」、「結婚できないようにされた者」あるいは「結婚しない者」と書かれていますと、まるで全部全く違うタイプの人のように読めてしまいますけれども、これは実は3つとも同じ単語で、ギリシア語では「イウヌーコス」と言います。「イウヌーコス」というのは、辞書で引けばわかりますが、「宦官」、「去勢した人」あるいは「性的不能者の男性」という意味です。全然、結婚できるとかできないとかいう問題ではないんですね。
 ここを、もう少し直訳調に訳すとこうなります。
 「生まれつきのイウヌーコス、人の手によるイウヌーコス、そして天の国のためのイウヌーコスがいる。受け入れることのできる人は受け入れなさい」。
 生まれつきのイウヌーコスというのは、当時における「性的不能者」と辞書には書いてありますが、現代的に広くとらえれば、いわゆるEDという病気だったり、女性に対して欲求を示さないという意味であれば、ゲイであったり、性同一性障害であったり、あるいは誰に対しても性的欲求を持つことのない「エイセクシュアル」という人である可能性も含みます。
 続いて、人の手によるイウヌーコスというのは、文字通り意図的、人為的に去勢した人ですから、主に宦官を指します。
 では最後の「天の国のためのイウヌーコス」とはなんでしょうか?
 誰のことを言っているのか、様々な仮説がありますが、決定的なことはわかりません。
 ただ、このひとまとまりの言葉が、いかにもイエスらしいというか。人がドキッとするような事をズバッと言ってみせた場面を、聞いた人がそこだけ記憶していたのが、巡り巡って福音書に書き加えられたのだろうなと思わせるインパクトがありますよね。
 仮にイエスがドキッとさせようとする意図でこれを言ったとしたら、こんな言葉遣いにも訳すことができるでしょう。
 「生まれつきのオカマもいりゃ、わざとオカマになった奴もいる。もちろん天の国のためのオカマもいるんだぜ」。
 
▼あんたはそのままでオッケー

 細かいニュアンスや背景となる事情はわかりませんが、もしこのようにイエスが言ったとすれば、私が推測するには、宦官やゲイやトランスやエイセクシュアルやEDの人たちに対して、「やーいオカマ、オカマ!」とバカにしてはやし立てる連中に対して、ズバッと言ってやったのではないですかね。
 「てめーら、オカマとか宦官とか言って人のことをバカにしてるけれども、中には天の国のためにオカマになってるやつもいるんだ。その区別がてめーらにはわかるのかよ。……わかる奴にはわかるよな(笑)」と。
 イエスは毒のある、そして人を煙に巻くような発言をよくしていますが、ここもそんな発言の1つです。この言葉から、性的少数者に対する排除の意識が感じられるでしょうか。
 私は感じないんですね。むしろイエスが、オカマとからかわれる人も、去勢して故郷を追い出されてしまうような人も、「誰だって俺の仲間だよ!」、「俺たちは天国のオカマだ!」とゲラゲラ笑っているようなニュアンスを感じるのですが、いかがでしょうか。
 そういうわけで、フィリポは今で言うところのセクシュアル・マイノリティの人を快くクリスチャンの群れの中に迎え入れたという意味で、イエスの精神を正しく受け継いでいると言えます。
 私たちにおいても同じことです。性的少数者が私たちの中にいて当たり前。性的少数者でなくても、どんな人でも、イエスについて行きたいと思うなら、神に愛されていることを信じたいと思うなら、私たちの群れの中に入ってオッケーなのです。
 そして、教会は、この世でオッケーと言ってもらえなかった人に対して、イエスの名において「あなたはそのままでオッケーなんだよ」、「イエスだったら間違いなくあなたのことをオッケーって言うだろうよ」と宣べ伝えるものでありたいと思うものです。
 本日の説き明かしは以上とします。
 





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