裏切り・沈黙・赦し

(「裏切りのペトロと沈黙の神」を改題)

2017年2月5日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書朗読と説き明かし16分間 + わかちあい22分間 = 38分間

 マルコによる福音書14章66-72節 (新共同訳)
 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペトロは、再び打ち消した。
 しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。



▼映画『沈黙』

 みなさんはもう映画『沈黙ーサイレンスー』をご覧になりましたか? ご覧になった方もまだの方もいらっしゃると思いますし、徳島では早々に上映回数が減らされて、観るチャンスが非常に少なくなったということらしいですね。
 まああまり楽しい映画ではないというか、どちらかというと重苦しい映画ですので、興行的にも映画館にわんさか入るというものではないように思いますから、映画館の方も早々に引き上げるのかなといった感じですが、それにしても残念です。もしこのまま観るチャンスがなくなってしまった方は、ぜひビデオかDVDでご覧になったらいかがかなと思います。
 ただ、2時間40分という長い映画ですので、一気に見るのがしんどい人もいると思いますが、ご家庭で観る場合には、途中でトイレ休憩なども自由にはさめますので、その辺りは気楽かなと思います。

▼冒険と葛藤の物語
 
 私は先々週の金曜日に観に行ったのですが、あまりにも衝撃が大きくて、土日は寝込んでしまうほどだったんですね。ちょっと神経が過敏なのか、考えすぎなのかもしれませんが、あまりにも身につまされる場面が多かったので、ショックを受けてしまいました。
 ネタバレにならない程度にお話ししようと思いますが、とにかく、前半はロドリゴとガルペという2人の神父の日本潜入冒険物語と言ってもいいような筋立てです。後半は、宣教師であるロドリゴ自身がキリスト教を棄てることを迫られ、苦しみ抜く物語となっています。
 結末を申し上げずにいるのが苦しいのですが、言わずにおきます。
 映画を見ていて、私自身がつらかったのは、日本人の大名や通訳たちが、激しく怒鳴り散らして棄教を迫るのではなく、笑い顔で猫なで声を出したり、あるいはまるで友情でも感じているかのように接近しながら、「形だけのことじゃ」「形だけでいいのじゃ」と言うところでした。

▼「形だけで良いのじゃ」

 日本の支配者はいつも、クリスチャンに対しては、こうして「形だけで良いのじゃ」というやり方で服従を求めてきました。
 実際キリシタンの弾圧の時も、荒々しい脅迫のような方法ではなく、「形だけ」踏み絵を踏んだら、「言葉だけ」キリシタンを捨てますと言えば、それで許してやるのだから、といかにもやんわりと棄教を進める代官が多かったと聞いています。
 明治時代に入ってから、天皇を神格化し、御真影に最敬礼したり、皇居に向かって礼拝をしたりということを国民に強要するときも、「これは宗教ではなく、宗教以前の国民の義務である」と言い、「宗教は内面の問題であるから、完全に自由は守られている」という説明がなされていました。
 現代においても、公立学校では教員が君が代を歌うことを強制されていますが、内面から国を愛するということは実は求められていません。口元チェックなどと称して、歌っているかどうかを確認し、起立しなかったり、歌っていなかったりする教員は処分の対象にされます。しかし、「ただ起立して、口を動かすだけでいいのだから」、「あなたの内面の信仰には踏み込んんでいませんよ」と、行政側はなんとでも言えるわけです。
 このようにして、日本では「形だけ従えば、あとはあなたの信仰は自由ですよ」という論理で、クリスチャンにはできないと思うことを強制してきたという歴史があります。

▼自分に嘘をつき続けるということ

 例えば、キリシタンの摘発に使われた「踏み絵」についても、いろいろな意見があると思います。
 「ああいうのを踏むことに抵抗を感じるのは、踏み絵が聖なるものだと考えている偶像礼拝なのであって、私たちプロテスタントは別に気にしないで踏むだろう」という人もいるでしょう。「こんなものは形だけなのであって、内面の信仰は揺らがない」と思う人もいるでしょう。
 しかし、確かにそうかもしれませんが、例えば、「形だけで良いから」戦争に協力しなさいとか、「形だけで良いから」徴兵に応じなさいとか、「形だけで良いから」紛争地帯に派遣されたら行きなさいと言われたら、この「形だけ」の論理にどこまでついて行けるでしょうか。
 私たちは普段の生活において、ことさらに自分がクリスチャンであると声高に主張したり、クリスチャンらしい行動をするでもなく何気なく暮らしていたとしても、自分の良心に逆らうことをすることには苦痛を感じるのではないでしょうか。
 『沈黙』の映画や小説で描かれている、キリシタン弾圧の場面が見ていて苦しいと感じるのは、それは単に踏み絵を信じるかどうかとかという信仰上の表現のことだけではなくて、要するに「あなたは自分の良心を裏切る行動ができるか」ということなのですね。
 人の良心というのは人それぞれですけれども、その良心を裏切る行動をずっと強要されていたら、たとえ「形だけだ」「そうするふりをするだけだ」と言われても、次第に精神に異常を来たします。自分に嘘をつき続けるということは、人間にとって耐え難いことです。
 自分に嘘をつき続けることを要求するということは本当に残酷なことで、許し難いことです。
 この映画はその残酷さを見事に描いていると思います。

▼裏切りのペトロ

 さて、今日お読みしました聖書の場面も、自分に嘘をついた一人の人間の物語です。
 ペトロは一旦はイエスが逮捕された時に恐ろしくなってその場を逃げ出したものの、本当はイエスのことが心配になって、再び戻ってきます。このイエスを見捨てて逃げたという時点で、このペトロという人は、一旦裏切っているわけですが、それにもかかわらず、またイエスを追いかけてくるあたりが、すっとぼけているというか、ちょっと油断しているようなとk路があるのかもしれません。
 しかし、いざ「お前もあのイエスと一緒にいただろう?!」と人々から追求されると何度も「俺はそんなイエスとかいうやつの事は知らん!」と否定するのですね。3回否定したことになっていますが、何度も否定するたびに、彼は自分のことがどんどん大嫌いになっていったのではないかと思います。
 言葉で、形だけ「知らん」と嘘をついた。言葉だけ、形だけだからどうってことない……という風にはペトロは割り切ることができなかったんですね。
 だから、自分がイエスを裏切ったことの罪悪感だけではなく、自分自身に対しても嘘をついたことの情けなさに耐えられなくて、彼は泣き伏してしまったのだと思います。

▼何度も裏切り、何度も戻ってくる

 ただ、そんなペトロは、イエスが亡くなった後に、再び他の弟子たちと一緒に、このナザレ派と呼ばれる一派に戻ってきて、またイエスの後を継いだ活動を続けます。どういう神経をしているのか、と普通の感覚なら疑うところですが、とにかくペトロはイエスによって赦され、新しい使命を与えられた。イエスの名の下に集まった人々をお世話することをイエスから命じられた者として、初代教会のリーダーとなってゆくのですね。
 この何度も裏切りつつ、また神様の元に戻ってくるペトロの要素を、映画の中ではキチジローというカクレキリシタンが演じていると私は思っています。
 このキチジローという人物は物語の中で、何度も何度も踏み絵を踏みます。家族が全員皆殺しにされるときにも、ただ一人家族を裏切って生き残ったり、村が摘発にあったときにも十字架に唾を吹きかけますし、なかなか踏み絵を踏まない他のキリシタンたちに対する見せしめのときにも、ひょこっと踏んで逃げてしまう。
 しかし、逃げたと思ったら、また忘れた頃にこのキチジローというのは戻ってくるんですね。そして、「パードレ様、俺のコンヒサン(キリシタン用語で、英語で言うとコンフェッション:告解:罪の告白と悔い改め)上げてくれ」としつこく要求します。
 裏切って、「赦してくれ」と戻ってきて、そしてまた裏切って、と繰り返す。これをキチジローは死ぬまで繰り返して行くんですね。
 
▼沈黙の神の赦し

 ペトロも、キチジローも何度もイエスを裏切っているのですが、そのままでは人間として良心が破壊されてしまうと思うんですね。ところがそのたびに何度も戻ってきて赦しを乞い、また赦しの秘蹟を受けて、生き直すわけです。
 私は、神はじっと沈黙しているけれども、この赦しがあるからこそ、人間は生きて行けるのではないかと私は思いました。
 小説ではイエスの言葉がさりげなく記されています。
 「踏むがよい。私はおまえに踏まれるために来たのだ。私はこうしておまえの罪を負うために来たのだ」と。
 映画ではこれがどのように表現されているのか、観ていない人のために黙っておきますが、そのように無限に赦されることで、人は生きて行ける。そういうものではないかと、ペトロとキチジローを重ねて見ながら、私は思いました。
 みなさんはどのようにお感じになるでしょうか。
 





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