苦しみの意味


2017年3月5日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書朗読と説き明かし14分間 + わかちあい39分間 = 53分間

 ローマの信徒への手紙5章3-4節 (新共同訳)
 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。



▼苦しみの原因

 個人的な話になりますが、1月から2月にかけて、私にとってはかなり鬱の症状が重く、非常に辛い1ヶ月でした。いろいろな仕事をキャンセルしましたし、職場を休むことも多かったです。正直、これで首が繋がるのかなと、不安になるほどでした。今のところ、なんとかなっているみたいなんですけれども。溜まった仕事が半端なくて、年度末の今になって、ワッセワッセと必死に片付けていっているところです。
 もう随分前から心療内科にも通い、大量の薬を処方してもらって、カウンセリングも受けているのですけれども、いまひとつ良くなったという実感がないんですね。しんどいですと言うと薬が増え、ちょっとマシになりましたと言うと薬が減り、しかり結果的には、じぶんが知っている限りの患者の友人よりはダントツに薬の量が多く、といった具合です。
 そうなってくると、いったいこの薬は効いてるのかな? 何のために飲んでるのかな? 飲んでも飲まなくて同じじゃないかな? と思い始めるんですね。医者もおかしいですねえと言っています。これだけ飲んでたら、もっと元気になるはずなんですけどねえと言っている。
 ということは、大量の薬を飲んではいるけれども、それを上回るほどのストレスが職場でかかっているのかなということしか思い当たりません。


▼膿を吐き出す

 少し気分が変わるきっかけになったのが、ある講演の原稿を書くことでした。
 実は先週、山口県の周防教会というところで講演をさせていただいたのですが、その講演では「信じすぎにご注意!と普段から言ってます」、「キリスト教の批判はいくらやっても構いません」ということで依頼されたんですね。
 しかし、キリスト教批判といっても、あまり神学的な理屈を述べるのは苦手だし、聞いている方も退屈かもしれないし、だから自分の体験から、キリスト教で痛い目にあったことをお話ししようかなと思って、自分が辛かったことを書き出し始めたんですね。
 これが自分の心の中の澱といいますか、淀んだ膿のようなものを吐き出す効果があったようです。人に聞かせる話で膿を出すというのも迷惑な話ですけれども、原稿を書き出すと止まらなくなりました。
 出版した本をめぐって日本キリスト教団で受けた仕打ち、学校の社会科教科書の問題をめぐって日本キリスト教団以外の多くのクリスチャンたちから受けた仕打ち、学校で受けた仕打ちなど……全てを思い出しました。暗い話ばかり聞かされたあちらの教会のみなさんには申し訳ないところもあったのですが、その講演の原稿を書く中で、私は自分が与えられてきた心の傷を総括する機会を与えられたわけです。

▼苦しみの意味

 そうして心の傷を与えたいくつも出来事を洗いざらい引っ張り出して、並べてみて改めて見つめ直してみると、非常にすっきりしました。
 これまで断片的には、嫌なことがあったなぁと思い出すことがあっても、洗いざらいぶちまけて、とりあえず思いつく限り全部並べてみるということまではやってはいませんでしたが、こうやって、自分のクサクサした心のそこにある記憶をゲロゲロ吐き出して意識化することで、ずいぶん楽になるものだなと思いました。
 しかし、それだけでは物足りない気がしました。というのは、自分が何でそんな苦しい目に合わなくてはいけなかったのか、どうして鬱に陥らなくてはいけなかったのかという、苦しみの意味がわからなかったからです。もしこの苦しみに意味がなかったとしたら、生きている意味もないのではないかと思って、再び鬱状態に陥ったりもしました。
 そして今度は、そんなことをブツブツとFacebookなどに書き連ねておりますと、ふとある人からある漫画を紹介されたんですね。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、『マンガでわかる心療内科』というものです。
 その第74回が『フランクル〜人が生きる3つの意味』というタイトルで、ヴィクトール・フランクルという精神科医のことが紹介されていました。フランクルという方のこともご存知の方がいらっしゃると思います。ナチスの収容所での苦しい体験を生き延びた人で『夜と霧』や『それでも人生にイエスという』という著書がありますね。
 このフランクルが人が生きる意味を感じる3つの要素があると言っているそうです。

▼生きる意味

 その3つというのは、「体験価値」、「創造価値』、「態度価値」というものだそうです。
 「体験価値」というのは素晴らしい芸術に接したり、旅行をしたり、誰かと愛しあったりという体験をすることに人は価値を見出す。
 次に「創造価値」というのは、仕事をしたり、作品を作ったりという、何を作り出す作業に、それも自分一人だけではなくて、人のためになることをすることに人は価値を見出す。
 そして3つ目は「態度価値」。「態度価値」というのは、自分自身の心の中で、生きる意味を考え続ける態度そのものに人間は価値を見出すんだそうです。
 ということは、何に自分の人生の価値を見出すか、意味を見出すかどうかということは、その人の知恵と創意工夫ということになります。またそれを本人と一緒に考え、一緒に知恵と創意工夫を巡らせる専門家がカウンセラーや精神科医といった人々なんだということなのではないかなと私は思いました。

▼意味を見出す意志

 その知恵の一つの例として、そのマンガではフランクルのカウンセリング体験を紹介していました。
 ある患者が、長年愛した妻を亡くして、寂しさと悲しみに暮れていたんですね。そして「私はなぜこんな苦しみを受けてまで生きなければならないんだろう。今の人生に何の意味があるんですか?」とフランクルに聞いたと言います。
 するとフランクルは、こう言ったそうです。
 「もし、奥様ではなく、あなたの方が先に亡くなっていたとしたら、奥様はどう感じていましたか?」。
 するとそのクライエントは「おそらく……妻は大変悲しんでいたと思います」と答えました。
 フランクルは答えました。「であれば……あなたのおかげで奥様はその悲しみを逃れることができたんですね」。
 その話を読んで、私は、「ああ、人に苦しみを与えないために、自分が苦しみを引き受ける」ということもあるのか、と気づかされました。
 自分が苦しむことで、誰か他の人が苦しまなくて済みんでいるのではないか。また、自分が苦しんだことで、同じような苦しみを味わっている人を孤立させないで済むのではないだろうか。そのように考えれば、自分の苦しみには意味があるじゃないかと発見した気持ちになりました。
 これは一つの小さな発見であり、一つのサンプルにしか過ぎませんが、少なくとも私という一人の人間は、自分の持っている苦しみや悲しみや孤立感などに意味を発見することができる気がしました。そして、そのような導きに出会わせてくれた、人のつながりに感謝するとともに、そのようなつながりを与えてくださっている神様に感謝しました。
 苦しみにはあらかじめ誰かによって意味が与えられているわけではありません。けれども、苦しみに意味を与える知恵と創意工夫が私たちには可能です。そして、それは一人ではなく、誰かと一緒に考えることができます。
 苦しみを忍耐に変え、忍耐を練達に変え、練達を希望に変え、意味を発見することのできる自分たち自身の力を信じましょう。
 





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