信仰こそ旅路を導く杖


2017年3月19日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書朗読と説き明かし21分間 + わかちあい38分間 = 59分間

 ルカによる福音書4章1-13節 (新共同訳)
 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」
 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」
 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。



▼レントも中盤

 おはようございます。
 レント(受難節)に入ってから、3回目の主日を迎えて、ほぼ折り返しという時期にさしかかりました。
 キリスト教の中でも、このような伝統的な教会暦を大切にしているグループ、特にヨーロッパの、それも東方正教会やカトリック、聖公会などの影響力が強い地域では、このレントを特別な期間として守っているようです。
 洗礼を受けていない求道者にとっては、洗礼を受ける準備と勉強を行う期間として、またすでに洗礼を受けた信徒にとっては、自らの信仰と見直しと、さらに信仰を強めるために、目標を定めて修練する時とされています。
 教派によっては、断食日などを設けたりするところもありますし、断食までしなくても、食事を質素なものにしたり、賑やかで騒がしいような行事は行わず、ひたすら勉強したり、祈ったりすることを求められたりする所もあります。そうやって、イースターの喜び祝いの時までぐっと我慢して修練に励み、準備をするというわけですね。
 レント(受難節)というのは、日曜日を除いて40日あるので「四旬節」とも言います。この40日という日数は、イエスが宣教活動に入る前、40日40夜断食をして修行をしたという今日の聖書の記事から来ています。
 そういうわけですから、レントというのは、ただ我慢をしたり、苦しいことをすることに主旨があるのではなくて、この期間に自分の弱さを克服したり、勉強したり修練をしたりして、自分を成長させたり向上させてゆこうという努力をすることに主眼が置かれていると考えることができます。

▼断捨離の季節

 我々プロテスタントの教会では、教会暦に厳格に従って、何かを特にするということは、それほど強く求められてはいません。レントと言っても割と無頓着に暮らしていることが多いと思います。あるいは、ちょっと反抗心もあって、そういう伝統的なレントの暮らし方とは逆に、わざと乱れた生活を送ってみるという人もいるようです。まあ基本的には個人の自由というところがプロテスタントにはありますね。
 まあ実際にこの世の生活において、レントの時期というのは、会社などの組織での人事の交代や、卒業や入学、就職や転勤など、お酒を飲んで宴会をするという機会が多くなる季節ですので、なかなか節制をするというのは、難しかったりします。
 しかし、ただ飲酒や食事を制限したりすることがレントの目的なのではなく、この時期に自分を成長させる良い機会なのだと思えば良いのであって、この時期に目標を定めて研鑽したり、祈りに励むというときにしても良いのでないかと思います。
 それに加えて、私は断捨離にも良い季節ではないかと思っています。
 自分の信仰と生活において、余分なものは払い落とし、自分の人生の意味や神様への思いに集中し、シンプルな自分を取り戻すのも良いことではないかと思いますがいかがでしょうか。

▼空腹の試練

 今日お読みした聖書の箇所は、有名なイエスの荒れ野での修行の場面です。洗礼者ヨハネによって洗礼を授けられ、ヨハネの弟子となったイエスは、ヨハネと同じように岩砂漠で修行をする生活に入りました。
 イエスは悪魔によって3つの誘惑を受けたとされています。
 その最初は、空腹であったイエスに「石をパンに変えてみよ」というものでした。それをイエスは「人はパンだけで生きるものではない」と言って拒否したといいます。
 私は、これは自分が知っているイエスとちょっと違うなと思いました。もちろん私が知っているイエスが全てであり、正しいというわけではありませんが、例えばイエスは、目の前に空腹で苦しむ人がいたら、すぐに食べるものを用意しようとしたと思うんですね。
 6章の21節には、「今飢えている人は、幸いである、あなた方は満たされる」と書いてありますし、5000人に食事を与えた奇跡の物語でも象徴的に表されているように、イエスは空腹の人はすぐに満腹にしなければ、と思っていたように感じるのですね。

▼マナの恵みを信じる

 そこで、この言葉の理解を深めるために、このルカによる福音書の4章4節は、旧約聖書の申命記8章3節の引用なのですけれど、その申命記を改めて読んでみることにします。
 申命記の8章2節から読みます。
 
「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわり御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8章2−3節)と記してあります。
 ここで改めて明らかになった思いますが、イエスの荒れ野での40日の試練というのは、このイスラエル民族が味わった40年の荒れ野での旅を繰り返しているのだというメッセージなんですね。
 そうすると、この「パンだけで生きるものではない」という言葉も、その先に神がマナを与えてくださるはずだという信頼を連想させるものに変わってきます。イエスは悪魔の誘惑に従って必要を満たすよりも、神の恵みによって生かされていたいという意志をはっきりさせたということになります。そして、足りないときには、必ずいつの日か神が必要を満たしてくださるという信頼を告白したことになります。

▼権力と繁栄を求めず

 第2の試練は、世界の国々の権力と繁栄を一切お前に与えよう、その代わり悪魔を崇拝すればね、という誘惑です。
 ここには、この聖書の記者が、権力と繁栄は悪魔的なものだという考えを持っていた可能性が感じられます。
 事実、私たちが歴史上経験した中で、良い権力、汚れない繁栄といったものがあったでしょうか。権力を手に入れるためには、誰かの足を引っ張って引き摺り下ろし、繁栄を手に入れるためには、この世の富を自分の集中させて、誰かの富を奪うことが不可欠なのではないでしょうか。
 権力があるところには権力のない者がいるのが前提であり、繁栄のあるところには貧困があるというのは常識ではないでしょうか。不公平というものがあるから、権力と繁栄があるのではないでしょうか。
 イエスは、その権力と繁栄という世の中の都合の良い部分だけを取ることはしなかったということでしょう。誰かを抑圧したり、誰かから奪うということは悪魔の業である。それを取るよりは、あえてただ神に仕え、貧しい生き方、栄光のない生き方を選んだということです。
 これは世の中のメジャーな価値観とは逆を行くものです。多くの人は権力を得て、繁栄することが成功のしるしだと考えていますし、それは企業社会などの大人の世界だけではなく、学校のようjな子供の世間でも当たり前のことだとされています。
 しかし、イエスはその価値観に否を叩きつける生き方を取りました。

▼神を試せるはずがない

 第3の試練は、神殿の屋根の端から飛び降りて、神が助けてくれるように試してみよ、というものです。
 この試練は今日の私たちにとって非常に深刻な問題提起でもあると私は思います。
 と言いますのも、私たちは自ら進んで高いところから飛び降りたりはしませんが、それにしても病気の時、災害の時など、人生の危機に陥った時、神の助けがあって欲しいと心底から願うものだからです。
 しかし、神は決して私たちの思い通りに操作することはできません。神は自由な方だ、という言い方をする人もいますが、要するに神様はいつも私たちの期待に応えてくださるとは限らないよということなんですね。
 そうなると、私たちはある程度自力で生きてゆかなければいけません。
 先ほど申し上げたように、神は必ず必要を満たしてくださると言ったことと矛盾していることを言っているようですが、神は必ず我々の期待とは違う形で御心を示してくださるということであろうと思います。
 この世は100パーセント神の力で動いているわけではなく、100パーセント人間の思惑だけで動いているわけでもなく、神と人間の協働で動いています。
 しかも、神も自由、人間の自由ときていますから、未来など誰にもわかるはずがありません。私たちは祈りつつ、神とやりとりしながら、自分の意志も大切にしながら、生きてゆくのだということではないでしょうか。

▼自由に生きる

 こうして、3つの試練をイエスは経験しました。
 3つの誘惑が一体何であるか、もう一度、概観してみると、1つ目は要するに自分の力に頼りすぎるのをやめること。2つ目は権力やお金の力に頼るのをやめること。3つ目は神の力に頼りすぎるのをやめること、という風に私には見えます。
 もっと簡潔にまとめてしまうと、あらゆることにとらわれずに、自由に生きるということでしょうか。試練を通じてイエスが体得した生き方は、自分の力をも、富をも、神の力をも万能だとは思わず、その時その時の心の導くままに、聖書的な言葉遣いで言えば、「霊」の導くままに生きるということなのではないかと思います。人の力からも神の力からも解放されて、人は自由に生きられるのではないか。そしてイエスはそのような究極の自由人であったのではないかと私には思われます。
 
▼信仰は旅路を導く杖

 今日は「信仰こそ旅路を導く杖」という題を説き明かしにつけさせていただきました。
 これはこの後歌う讃美歌21の458番の始まりの言葉です。以前の讃美歌第2編にもこの讃美歌は収められていました。これは讃美歌第1編の333番とともに、私が自分の葬儀の時には歌って欲しい讃美歌だなあと思っているものです。個人的な思いばかり話していてすいません。
 なぜこの讃美歌が好きなのかというと、人は信仰だけで生きているわけではないということがこの言葉に暗に示されていると感じるからですね。
 人間は杖だけで歩いているのではなく、自力で進んでゆくものです。しかし、自分の足だけを過信して生きるよりも、信仰という杖を支えとして生きてゆくところに、深い味わいがあります。
 と言いますのも、神を信じたからといって、神がすべてを肩代わりしてくれるわけではありませんが、神が付かず離れず一緒に歩んでくれているということを信じる気持ちがあることで、私たちは完全に一人ぼっちにならずに済むからです。何の意味もなく虚しく時を過ごす人生ではなく、何か確かな拠り所のある人生になります。信仰は私たちの人生の旅路を支える杖となってくれます。
 その一方で、神を信じたからといって、神が私たちを束縛するということもありません。すべてのことから自由になったイエスのように、私たちも様々な執着から解放されて、自在に旅路を進んで行くことができるようになるでしょう。
 信仰を杖としながら、しっかりと大地を踏みしめ、心の赴くままに旅するためにも、余計なものは手放して、大切なことは何かに心を集中させるレントの時を過ごしたいと思います。





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