イエスの息吹を呼吸しよう

                                  (「陰府からかえって生き直す」を改題)


2017年4月16日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 イースター礼拝 説き明かし

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聖書朗読と説き明かし20分間 + わかちあい37分間 = 57分間

 マルコによる福音書18章1-8節 (新共同訳)
 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。



▼霊

 皆さん、イースターおめでとうございます。イエスの「蘇った」ことを記念する日がきました。これまでレントの間、自らの何らかの課題を課して努力した人は、とりあえずその成果を振り返るとき。また世俗においても、年度が変わり、それぞれの持ち場において、新しい仕事や学業などを始めるときです。
 さて、イエスの「蘇り」と言いますが、この「よみがえる」「よみがえり」という言葉には、「陰府から帰る」という意味があります。
 陰府というのは死後の世界ですから、死の世界から帰ってくるということです。陰府の眠りの世界から戻って来るということですね。
 また「生きる」というのは「息をする」ということと語源が繋がっていますから、生きることは息をすることです。
 「息」という言葉は旧約聖書のヘブライ語では「ルーアッハ」と言います。また新約聖書のギリシア語では「プネウマ」と言います。どちらも「風」という意味、また「霊」という意味をも指しています。
 なぜそうなるのか。
 それは、古代のユダヤ人は、霊のことをまずは、自分の鼻や口を通して出入りしている風、つまり息のことだと理解したんですね。人間は霊の風をスーハースーハー出したり入れたり呼吸しているわけです。
 また、自然の風の動き、雲の動き、川や海の水の動きなどの背後には、それぞれの霊の働きがあると考えていました。
 その中でも、神から直接送られてくる霊を「聖霊」(聖なる霊)と呼び、人間を病気にしたり(肉体的な病気以外に、案外聖書の中には心の病気を思われるものも多いですが)何か災いをもたらす霊を「悪霊」(悪い霊)と呼んでいました。

▼よみがえり

 亡くなった人の遺体は通常、土の中に埋められていました。土葬ですね。そうすると、3日か4日あたりは霊がそのあたりをウロウロしている。それから日が経つと、みんな地中の奥深くに潜っていって、地の底にある「陰府」と呼ばれる世界に潜っていって眠るということになるわけです。
 そして、「よみがえる」「復活する」ということなんですが、これ、元の言葉では、「生き返る」とか「復活する」とか「肉体が蘇生する」とかいう言葉ではなくて、「起こされる」という受け身系の言葉なんですね。神によって起こされる。陰府の中の眠りから起こされる、ということなんですね。
 古代の人はそう考えていたと。
 けれども、現代の私たちは、本当は違うということを知っています。
 古代の人たちが、死んだら地中に埋められたので、そのまま地中の底の世界に行ったと考えたということは、その気持ちはわかります。
 しかし、実際には私たちは、地中に埋められた死体は地中で朽ち果てて、やがて土に返るということを知っていますね。また、地面の下に埋められた肉体がまた起こされてくるということ。また、イエスの時代には死んだ人の遺体は小さな洞窟ように掘られた横穴式のお墓に収められたようですが、その墓穴から死んだはずの体がそのまま生き返って出てくるということも、科学的にありえないということも知っています。
 僕は、『パッション』とかその他のイエスものの映画で、復活したイエスがよみがえるのをそのまま映像化して描いているのをいくつか見たことがありますが、あれ、なんで手足の穴だけ空いたままで、身体中の鞭打たれた傷はきれいに消えているんでしょうか。そのあたりが不思議だなあと思います。
 「こういう風に蘇ったに違いない」と芸術家たちは想像したんでしょうけど、論理的にはおかしな話だと僕は思っています。

▼肉体の蘇生はなかった

 けれども、これは結構大事な話だと思っているんですね。
 というのは、一度死んだ肉体がきれいになって生き返るということは、どう考えても科学的にありえないという科学的なルールは、現代だけではなく古代でも同じだったはずです。古代には自然界の法則を破るような不思議なことがたくさん起こったんだというようなことはありえないはずです。
 となると、古代の最初のクリスチャンたちが、「イエスは死から再び起こされたんだ」と言い出したその根源の体験に、イエスの肉体の蘇生はなかったはずだということです。
 つまり、クリスチャンたちは、生き返った死体を見たから「イエスは起こされた」と言ったのではなくて、別に死体が生き返って歩き出したのを見てないけれども、「イエスは起こされたのだ」と言い出したということです。
 ということは、この点については古代の人たちも私たちも同じ地点に立っているということです。
 最初のクリスチャンたちは、生き返った生身のイエスを見なくても、「イエスは起こされた」と感じたのであり、私たちも生身のイエスを見ることはできないけれども、「イエスは死から起こされて、私たちと共におられる」と言うことができます。
 私たちはついつい、「自分たちの世代ではイエスを見ることができるわけではないんだから、イエスの復活なんかわかるはずがない」と思いがちですが、実はそれは最初のクリスチャンたちも同じだったんですね。
 そうすれば、最初のクリスチャンたちは、どういうわけで「イエスは起こされた」と言い出したのでしょうか?

▼マルコにおける「よみがえり」

 じっさい、最初の福音書と言われるマルコによる福音書には、イエスの肉体の蘇生は書かれていません。
 マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメという女性の弟子の代表3人が、イエスが収められたはずのお墓に行きましたが、お墓を閉じるための大きな石の板は取り外されていて、中には白い服をまとった男性が一人いて、その人が「イエスは起こされて、ガリラヤに行く。そこであなた方はお目にかかるだろう」と言う。ところが、女性の弟子たちは震え上がって、正気を失って、逃げていった。「誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。
 それで終わりです。イエスは登場していません。
 新共同訳聖書では、この後「結び1」「結び2」と続けて印刷されていますが、これは信頼できない写本によるものとされていて、本当のマルコの終わりは、今皆さんがご覧になっている16章8節であるというのが定説になっています。
 最初の福音書には、イエスの肉体の蘇生は書いていない。そういうことは無かった。ただお墓が空っぽだっただけだということです。
 この今日の聖書箇所のキーワードはおそらく「ガリラヤに行く」「そこでイエスに会える」ということでしょう。マルコがイエスのよみがえりについて語っているのはこれだけだからです。
 「イエスは再び起こされてガリラヤにいる」というのがマルコのメッセージです。ではガリラヤとはどういう場所なのでしょうか。

▼ガリラヤ

 それは、イエスが生まれ育ち、多くの貧しい同胞と一緒に苦しい生活をした場所です。
 また、一度は砂漠に出て洗礼者ヨハネのもとで修業はしたものの、ヨハネが亡くなってからは、そういう修業の宗教活動はやめてしまって、帰って行ったのがガリラヤです。
 そして、湖畔の港町カファルナウムを拠点に、あちこちの街や村を訪ね歩き、人々を教えたり、病気の手当てをしてあげたりして、地道な活動をしていた頃です。
 おそらく、イエスの人生はエルサレムの都会に行ってから、歯車が狂い始めたのだろうと思います。
 事実、イエスはエルサレムに行ってからは、人々を教えてもいましたが、それ以外に、ファリサイ派や律法学者たちとの論争にかなり手を取られるように成っています。
 また、エルサレムに入ってからは、病気の癒しを一度も行なっていません。病気の癒しというのは、癒すがと癒される側の全面的な信頼関係がなくては起こりませんが、エルサレムに入ってからは、イエスとの個人的な信頼関係を持つ人よりは、好奇心や野次馬根性から「奇跡が出来るならやって見せてみろ」とかいった人たちがもっぱらイエスを取り囲んでいたでしょう。これは例えば、彼の生まれ故郷であるナザレでも奇跡が起こせなかったのと同じです。イエスはエルサレムで、あまりにも多くの烏合の衆に囲まれてしまって、1対1の親密な信頼関係を結ぶことができなくなり、非常に苦しい最期を迎えることになったのだろうと、推測します。
 しかし、ガリラヤはそうではありません。そこはイエスにとって、嬉しい思い出がいっぱい詰まっているところです。また、人々にとっても喜ばしい、美しい思い出が溢れているところです。
 そこでは、イエスを中心にして、食べ、飲み、看病し合い、祈り合う群れが作られていました。
 
▼イエスの風

 イエスがエルサレムで死んだと聞いた時、ガリラヤの人々は耳を疑ったことでしょう。そして、絶対にそんなことはありえないと思ったことでしょう。なぜならイエスは、人間にとって一番大切なこと、食べること、癒すこと、祈ること、つまりは愛することが人間にとって一番大切なことであると教えてくれた、神から贈られた人に違いなかったからです。そんな人が、無残に殺されるということはありえない。ガリラヤの人々はそう思ったのではないでしょうか。
 やがて、ガリラヤの人々は、「イエスが死ぬはずがない」と思い始めたのではないでしょうか。「イエスが残した思い出、イエスが残した言葉、イエスが残した行い」。それが自分たちの中にしっかりと刻まれているではないかと思い直したのではないでしょうか。
 すなわち、イエスの霊は、私たちの間に生きている、と信じたのではないでしょうか
 最初に、古代人は「『霊』は『風』である」と捉えていたというお話をしました。また、その「『風』は『息吹』として人間の中に入るのだ」というお話もしました。
 最初のクリスチャンたちは、生き返って歩いている死体を見たからではなく、イエスに残された言葉を伝え、イエスの食事や奉仕を受け継ぐことで、イエスの息吹を自ら感じ、呼吸しようとしたのではないでしょうか。
 それは私たちが今やっていることと同じです。イエスの言葉を伝え、聖なる食事を共にし、互いに奉仕し合うことで、イエスの思いを受け継ぐことができます。
 そして、あとは古代人と同じように、イメージを膨らませることです。イエスから受け継いだことの中に、イエスの息吹が宿っているというイメージを描き、信じること。その群れの中に、イエスの霊が再び起こされてくるのだと連想すること。それが「イエスの復活」です。
 イースターとは、イエスの霊の存在を信じる私たちの中に起こる出来事です。そして、イエスの霊と共に、今年も新しく生きなおそうとする私たちの魂の中にイエスは再び起こされるのであります。
 イースターこそ、私たちは自分の気持ちを新たにし、イエスと共に生きようと決意する日にしたいと思います。
 説き明かしは以上です。皆さんの思いを聞かせてください。





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