母なる神の創造のわざ


2017年5月14日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 母の日礼拝 説き明かし

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聖書朗読と説き明かし18分間 + わかちあい36分間 = 54分間

 詩編139章13-18節 (新共同訳)
 あなたは、わたしの内臓を造り
 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
 わたしはあなたに感謝をささげる。
 わたしは恐ろしい力によって
   驚くべきものに造り上げられている。
 御業がどんなに驚くべきものか
   わたしの魂はよく知っている。
 秘められたところでわたしは造られ
 深い地の底で織りなされた。
 あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。
 わたしの日々はあなたの書に全て記されている
 まだその一日も造られないうちから。
 あなたの御計らいは
   わたしにとっていかに貴いことか。
 神よ、いかにそれは数多いことか。
 数えようとしても、砂粒より多く
 その果てを極めたと思っても
   わたしはなお、あなたの中にいる。



▼神は男か

 今日は、「母なる神」という言葉をキーワードにしてみたいと思いました。
 普通、ユダヤ教やキリスト教では神は父であると言われます。「天の父なる神よ」とお祈りする人もたくさんおられます。
 しかしその一方で、神様に性別があって、しかもそれは男であるということに異議を申し立てる人もおられます。
 ユダヤ教・キリスト教の「父なる神」という考え方は、男社会の支配の形がそのまま映し出されたものだという人もいます。家庭の中で夫や父親といった男性が支配しているから、その延長線上に神も位置付けられて、神も男に違いないと考えられるに至ったのではないかというわけです。
 宗教において神をどのようなイメージでとらえるかは、確かにその宗教が根付いている社会の文化や風潮に影響されます。
 そもそも神とは何か? 神とは誰か? どんな存在かといったことは、人間に把握できたり定義できたりできるような問題ではありません。また、人間に把握されたり、定義できたりするような神は、もはや人間以下であって、神とは言えないでしょう。
 しかし、それでも何とか神を捉えようとする思いからか、人間は神にいろいろな飾り言葉をつけようとします。
 例えば、「主なる神」あるいは「主なるイエス・キリスト」。この「主」というのは、奴隷の雇い主のイメージです。もちろん男性です。人間を奴隷に、神を奴隷主にたとえて神を把握しようとする呼び名です。
 または、「王なる神」あるいは「王なるイエス・キリスト」。これはこの世を統治し、支配する権力者にイメージです。人間はこの王に支配される民であり、神は支配者にたとえられています。
 また王というのは、たいていその王国の軍隊の総司令官でもありますから、「万軍の主」という呼び方も神に対してなされる時があります。これは大きな軍隊を率いて、敵をやっつける司令官のイメージです。
 どれも権威があって、強く、勇ましく、偉大な神のイメージです。いずれも男性の神のイメージです。
 本来はこういったイメージは、仮のイメージに過ぎません。神を完全に把握することは人間にはできないからです。
 しかし、神を把握したいという欲望には勝てないのでしょうか。私たち人間は、ついついその仮のイメージを、あたかも本物の神の姿であるかのように勘違いし、やがて逆にそのイメージによってしか神を理解できなくなってゆきます。
 
▼神様の友達

 個人的な思いをお話しさせていただくと、私の好きな神のイメージ、あるいはイエス・キリストのイメージは、「友なる神」「友なるキリスト」という言葉です。
 讃美歌312番(讃美歌21では493番)としてよく知られている「慈しみ深き」という曲がありますね。そこにはこう歌われています。
 「慈しみ深き、友なるイエスは……」という風に。
 さりげなく一言だけですけれども、この「友なるイエス」という言葉は私たちの心をほっとさせてくれるような気がするんですね。
 たいていの神やイエスのイメージは、強い、勇ましい、権威的な男性のイメージですけれども、しかし「友なるイエス」という言葉は、そうではなく、なんとなく私たちのそばに寄り添って、「やあ、最近はどうだい」と気さくに声をかけてくれるようなそんな親しみを感じます。
 神様をどうイメージするかということは結構大事で、それは自分自身をどうイメージするかということにも関わってきます。
 神を王様や奴隷主や軍隊の司令官のようにたとえるということは、私たち人間はそれらに支配される家来や奴隷や兵士のようにこき使われる存在だと告白することにつながります。
 しかし、「友なるイエス」「友なる神」のイメージでイエスや神様への信仰を告白することは、自分自身についても、「私はイエスの友達なんだ」「神様の友達なんだ」と告白していることにつながります。
 「神は私の友達なんだ」「イエスは私の友達なんだ」。
 そのように言うだけで、ずいぶん私たちは解放的な気持ちになれるのではないでしょうか。
 もちろん、それも神の一部を捉えるための方便のような言葉に過ぎません。しかし、単に「父なる神」「主」「王」「万軍の主」といった強い男のイメージだけではない神の捉え方もあるのだということを知っていただければと思います。

▼クリスタ

 さて、今日の聖書の箇所は、聖書の中でも珍しいのですが、「母なる神」に近いイメージが描かれているところです。
 旧約聖書の詩編ですから、キリスト教ができる前のお話、ユダヤ教の世界のことです。
 話が横道にそれるようですが、キリスト教および新約聖書では、神様のイメージが決定的に男に固定化してしまっていて、これを脱却するのはなかなか難しいです。それはなんでかというと、イエス自身が男だったからですね。これはもうどうしようもないです。
 イエスが女性だったら、そしてその女性の中に神が現れているではないか、彼女はキリストではないか。
 ちなみに細かいことを言いますと、ギリシア語で「キリスト」というのは、「クリストス」と言いますが、これは男性形なんですね。これが女性形だったら多分「クリスタ」と呼ぶことになるんじゃないかと思います。
 というわけで、まあとにかく「彼女はクリスタだ!」という信仰が生まれていたら、キリスト教の歴史も随分変わったものになっていたでしょうね。もうちょっと血生臭さが少ないというか、もうちょっと平和的な歴史を歩んだのではないかという気がします。あくまで想像ですけど。

▼女性の創造論

 で、今日の聖書の箇所は、ユダヤ教とはいえ、神様が母性を通してその力を現すという描き方をしているところです。
 はっきりと「母なる神」と描かれているわけではないです。
 13節にもあるように「あなたは……母の胎内にわたしを組み立ててくださった」と書いてありますから、神はこの母ではないですよね。「母の胎内にわたしを組み立ててくださった」と書いてあるわけですから、母とは別人です。
 しかし、ここでこの詩編の作者は、母親の胎内で体が組み立てられてゆく、その仕組みを一生懸命想像して描こうとしていますよね。女性がその胎内で子供の体を形作ってゆく様子を、医学のほとんど発達していなかった時代なりの目でできる限り詳しく描こうとしています。
 この辺りは創世記の天地創造物語の作者とはえらい違いですね。
 創世記の天地創造物語の中で人間を作る話は、完全に母性的な視点が欠けています。何せ、男の体の一部から女の体を作ったっていうんですからね。
 あれは男のサークルの中で男の語り部が男たちのために語った昔話なんですね。「俺たちのアバラ骨はなんで上半分しかなくて、下半分は無防備なんだ?」と若い連中が聞くのに対して、年寄り連中が「それはな、下半分は女に持って行かれたのさ」と答えたんであろうと考えられるわけです。じゃあ女もなんでお腹の半分しかアバラ骨が覆ってないんだという話は無いんです。
 このような男のサークルの話に対して、今日の詩編の言葉は、はっきりと女性のお腹の中で人間の体が形作られてゆくことを描いている点で、創世記とは全然違います。
 人間は女性の体の中で創造されてゆくのだということをはっきりと述べています。いわば女性の視点から見た創造論ですよね。

▼地の底から命生まれる

 14節の「わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている」という言葉を読むと、いかに必死になってこの人が、命とか人の体というものの神秘とか神聖さを、そして神様が命を生み出す創造のわざを証しようとしているのかがわかりますよね。
 15節「秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた」。普通は聖書においては、「地の底」というのは死者の世界なわけです。しかし、ここでは生命が織りなされる場所という捉え方なんですね。これは大地から生命が生み出されるという農民の発想に近いのではないかと思います。母なる大地から、すべての生命が織りなされてくるというイメージですね。
 そして15節後半以降「あなたには、わたしの骨も隠されていない。胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた」。人間の目には一切見えない生命の誕生のプロセスを神は全て知っているということ。
 16節後半以降「わたしの日々はあなたの書に記されている。まだその一日も造られないうちから」。まだ一日も経っていないうちから、全ての日々が神によって覚えられているのだということですね。
 そして17節以降「あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる」。ということで、この人は再び、大いなる神の配慮を称えて、この女性的な創造論を締めくくります。
 最後に「わたしはなお、あなたの中にいる」と書いていますが、これも、高いところから怒りや命令の言葉を下す父なる神とは違って、私たちをどこまでも包んで下さる母なる神のイメージを示しています。

▼全ての次元を持つ神

 このように、今日は母性的な視点から神の創造のわざが証されている聖書の箇所を読みました。
 聖書というのは、単純に一つの視点から神様を証している、一枚岩の書物ではありません。たくさんの人々がそれぞれの信仰から、いろいろなイメージで神様を証した、多面的な本です。
 人間が神様について書いた本ですから、当然限界があります。しかし、多くの人間がいろいろな視点から書いた本ですから、読めば読むほど立体的に神様を思えるようになるというか、いろいろに違ったものの見方を学ぶことができるようになります。
 神様は父なる神であるばかりではありません。主なる神、王なる神、友なる神であるばかりでなく、母なる神でもあると言えます。その全ての側面、全ての次元を持っているのが、私たちの信じる神ではないかと思うのであります。いかがでしょうか。
 




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