DVの神を打ち破ったイエス

                             (「神さまも失敗する」の改題)

2017年5月21日(日) 

 日本キリスト教団徳島北教会 主日礼拝 説き明かし

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聖書朗読と説き明かし18分間 + わかちあい24分間 = 42分間

 創世記8章20-22節 (新共同訳)
 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。
 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
 地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも
 寒さも暑さも、夏も冬も
 昼も夜も、やむことはない。」



▼納得のいかないところ


 僕には、納得のいかない聖書の箇所がいくつかあります。今日読んだところもその一つで、僕はここを読むたびに、旧約聖書の神というのは、何ということをするのだと呆れてしまいます。
 難解な聖書の箇所に出くわすと、うまいこと何でも神様が良いことにして、人間は悪いのだ、という風に片付けて……というか、本当に上手に解釈して神様が最終的には何でも正しいという結論を出してくる学者や牧師がたくさんいます。
 しかし、僕は、なぜ「ここの神様の行いには納得が行かない」と言っていけないのか、なぜ「神様はいつも正しい」ということにしなければいけないのかがわかりません。時には、神様だって過ちをすることもあるんじゃないだろうか。我々人間だって、神様に異議を申し立ててもいいのではないかと思います。

▼ノアの箱船

 今日の箇所は、ノアの箱船の物語の終盤の部分ですね。
 40日40夜という物語と、150日という物語、2つの物語が合成・合体されているお話なんですが、それはさておいたとして、とにかく神様は地上のすべてを覆うような大洪水を長い期間起こして、地上のあらゆる大小の動物、空の鳥に至るまで、そして人間もろとも全部ぶち殺すんですね。
 人間の中でも、ノアとその家族だけは選ばれて命を助けられますけど、まあこれはノアとその家族だけが神様に対する信仰を持っていたからだという理由づけがあるにしても、他の動物たちは可哀想ですよね。
 というのも、他の動物たちが神の御心に逆らって、全地に悪を満ちさせた、というようなことは一言も書いていませんからね。他の動物たちからすれば、人間のとばっちりを受けて、膨大な数の仲間が殺されてしまうわけですからたまったもんじゃないと思います。

▼もうしません

 もっとひどいなあ、納得が行かないなと思うのは、洪水が終わってから、ノアが祭壇を築いて、焼き尽くす献げ物を捧げます。山羊か羊と鳥を合わせて祭壇の上で焼くんですね。焼肉の好きな神様は、この匂いを嗅いで、機嫌を取り直します。そして、言うんですね。
 「人に対して、大地を呪うことはもう二度としない。だいたい人が心に思うことは、小さい時から悪いんだよな」。というようなことです。
 「これはひどい」と僕は思うんですね。これはひどい。
 神様は人類をほとんど殺すほどの、ものすごい暴力をふるったわけです。個人の命への尊厳もへったくれもありません。自分が作った生き物たち、いわば我が子のような者たちを皆殺しにするんですね。これ以上ないというほどの暴力を振るうことができる神を、人間の方が物分かりよく、「罪人を裁く権威を神様は持っているのだ」とか言って納得しようとするのは、僕はまちがっていると思うんですね。
 しかも、暴力を振るってしまった直後に人間になだめてもらって、「もうわしはこんな事は二度とせん。だいたい人間というのは、子供の時から悪さばかりするもんだからな」というようなことを言う。
 子供の悪さまで含めて、神の気に入らないことがあったら、ぶち殺されるのではたまったものではありませんし、そもそも子供の時から人間は悪いもんだし、とすぐあとに言うくらいだったら、なぜ暴力を振るう前に一瞬でもそれを考えることができなかったのか。
 そんなことをするくらいなら、そもそも幼いときから悪いことを考える人間を作ったこと自体が失敗だったのではないか、ということも、言おうと思えば言えるわけです。

▼DVの神様

 もちろん、このお話はメソポタミアに古くから伝わる洪水神話を元にした作り話です。だから、僕もいちいち本気で怒る必要もないわけですが、それにしても問題なのは、なぜこんな話を古代ユダヤ人は父なる神の性格として大事に伝えようとしたかです。
 これまでも何度かこの席で言いましたが、「神をどんな方か」と思い描く、そのイメージというのは、実は人間社会の文化や風俗の影響を受けます。父権制の強い社会では、神は父権的な男の神になりますし、それだけでは耐えられない、自分たちを癒してくれる母なる神が欲しいと思えば、女神を拝むということを民衆は始めます。
 大地の恵みに感謝し、大地の怒りを恐れる民族では地母神と呼ばれる大地の女神が拝まれますし、日々の暮らしの辛さ、人生の苦しみから解放されたいという願いが強い社会では、解脱した仏が拝まれます。
 そういう考え方をすると、厳しい自然界の環境の中で、父親に逆らう者は殺してでも、全体の統制を取らないといけないという社会で、父親の権威や暴力が正当化されていた時には、どうしても神様も同じような暴力的な父親のイメージになってしまわざるをえなかったのではないかとは思うんですね。
 でも、それは結果として後代の私たちから歴史を反省するつもりで見直すと、それは覚めた言い方をすれば、衝動的な家庭内暴力を振るう父親でしかありません。
 衝動的な暴力を爆発させ、その直後に急に後悔して謝り、「もうしません」と言い、しばらくするとまたいつか衝動的に暴力を振るい始めるという周期をDVでは繰り返しますが、このノアの箱舟物語の神様はそのパターンによく似ているのではないでしょうか。
 もちろん、「もうしません」と言って、本当に神様はもうしなかった……というのが、この洪水物語の結末なわけですが、それは実際に歴史が記されるようになってから、二度と地上を覆い尽くすような洪水など起きなかったので(というかそんなことはもともと地球が生まれてから起こったことがないのですけれど)、とにかく現在はそのような洪水は起こらないことの説明として物語をそうやって終わらせたというだけのことで、旧約聖書の神様はこの後も、全人類を滅ぼすということはしなくても、自分の意志にそぐわない言動をした者は容赦なく殺す。イスラエルの敵だけではなく、自分を拝んでいるイスラエル民族の人間も殺す、ということを繰り返してゆくわけです。

▼我が子を殺す神様

 僕は、その暴力的な神様のイメージが最高潮にまで高まってしまったのが、十字架の出来事の解釈だったと思っています。
 イエスが十字架につけられた事実そのものはともかく、その十字架の出来事を「神様が人間の罪の身代わりにイエスを十字架にかけたのだ」という解釈は、暴力的です。
 それは、「人間はやっぱり神様に殺されなければならないほど酷い存在なんだ。神様は人間を殺して当然なんだ」という発想が根底になるからです。
 どうしても生贄は必要だったと。しかし、人間の身代わりに、神は我が子に手をかけて血まみれにして殺して、これで生贄は完了されたと思った、という解釈なんですが。
 旧約聖書に書かれた長いユダヤ人の古代の宗教を振り返ってみても、気に入らない人間を殺すのは当たり前の神様、というイメージを彼らは持っていたし、イエスの弟子達でさえも、そのイメージから自由ではなかったんですね。
 ですから、イエスが十字架にかかった時も、「これは神様の罰だ」と考えた。
 ただし、イエスが本来罰を受ける必要があるとは考えられなかったので、本来罰を受けるのは人間である我々であるはずだったのに……ということで、「罪の身代わり」・「罪の贖い」という思想が作られていったんですね。
 でも、結局は「誰かが罰を受けなくてはならない」という根底の発想は変わらなかったわけです。そういう意味ではイエスの弟子達は全然ユダヤ教の域から出てはいないと言えます。

▼罪は赦される

 イエス自身はどうだったでしょうか。
 イエスは、誰かが神に罰せられなくてはならないという発想からは自由であったように思えます。
 もちろん人間に罪がないと考えていたわけではないようです。
 例えば、主の祈りを参照してみますと、マタイによる福音書には「わたしたちの負い目を赦してください」とありますが(マタイ6.12)、ルカによる福音書には「わたしたちの罪を赦してください」とあります(ルカ11.4)。
 どちらがイエスの話した言葉通りの祈りかははっきりとはしませんが、いずれにせよ「負い目」といっても、人間同士の借金だけでなく、神に対する負い目である可能性もあるわけで、イエスも人間には何らかの欠けた部分があるんだという認識はおそらく持っていたでしょう。
 しかし、それを「赦してください」とお祈りしなさいと教えているということは、「赦される」ということを信じているからですよね。
 また、「誘惑に遭わせないでください」とも祈りなさいと言っていますが、「誘惑に遭って悪の道にはまってしまうと、神に殺されるぞ」とまでは言っていません。

▼生贄ではなく

 そういう意味で、イエスはユダヤ教の枠から完全にはみ出てしまっています。だからこそ、ユダヤ教の指導者たちから罰せられ、処刑されるように誘導されてしまったので。
 ユダヤ教の指導者は、先祖代々の旧約聖書の神のイメージを真面目に忠実に受け継いでいました。だから、人間は本来殺されるべきだし、殺されないためには身代わりの生贄が必要だと教えていたし、生贄の儀式を実践していました。
 しかしイエスは、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(マタイ9.13, 12.7)と言います。また、「隣人を自分のように愛することは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れている」(マルコ12.33)という人の言葉に「その通りだ」と返事もしています。
 焼き尽くす献げ物やいけにえは、人間が神に殺されることから逃れる唯一の方法だとユダヤ教指導者たちは真剣に教えていたのですから、イエスこそ神に罰されて殺されなくてはならないし、我々が神の代理人としてイエスを殺さなくてはならないと考えたのも自然でしょうね。
 残念なのは、イエスの弟子たちまでもがその発想に捕らわれてしまっていて、やっぱり神は罰を与えたのだと考えてしまったことです。イエスは、そんな罰などなくても、ただ「赦してください」と祈れば良いのだよと言ってくれていたのにです。

▼命がけのメッセージ

 イエスが人間の罪のために、身代わりに十字架にかかったというのは古代のユダヤ教の発想であって、イエスの本意ではなかったでしょう。
 もしイエスが命をかけたとすれば、それは、「神はあなたを殺さないよ。死ななければならないような罪は人間にはない。神はあなたを赦してくださる」ということを伝えることにです。そんなことを言ったから彼は殺されてしまったんですが、殺されることがわかっても、それを伝えることをやめなかったということです。
 神の赦しを伝える彼の命がけのチャレンジに、私たちは感謝しましょう。そして、自らも神の赦しを宣べ伝える者になりましょう。
 




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